過去に戻って自殺した同級生に告白する話
小説家になろうでも投稿しました

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クリスマスなので没の中編を短編に仕上げました。


ひまわりリコール

 

 

 12月22日。

 クリスマスイブまであと2日ということもあって、街の空気はどこも浮足立っており、天まで飛び立ちそうな雰囲気が醸し出されていた。

 僕がその中でも比較的、外の冷気と同じくらい平静な温度を保っていられるのは一週間前に起きたある事件が原因だった。

 

 

 【私立陽凪高校で女子高生飛び降り自殺。イジメが原因か?】

 

 

 地方紙の一面に飾られた無機質な文字は、僕の心をカリカリと掻き立てる。

 高校生の自殺を一面に使うなんて、幾ら地域でニュースが無いとはいえあんまりだ。しかも予防線として語尾に「?」を付ける無責任な見出し。零細とは言えど一廉の報道メディアがすることじゃない。

 やがて苛ついた僕は破ろうと新聞を持っていた指に力を込めて、結局は新聞紙をテーブルへとパサリと置いた。物に当たるなんて、馬鹿馬鹿しい。

 

 

 自殺した女子高生は、僕のクラスメイトだった。

 名前は雨峰風璃(あまみねふうり)

 彼女は一週間前、放課後の閉校時間後に自殺した。

 感情的になっている様子など一度も見たことの無いくらい穏やかな性格で、見た目も清楚感のある可愛いクラスメイトだった。

 イジメなど事実無根、何故なら僕から見ても彼女はクラスメイトから好かれていた。

 

 僕は、そんな彼女が異性として好きだった……のかもしれない。

 

 整理の付かない内心にこの一週間、僕は苦悩していた。

 明確に好きだと思ったことは、彼女が生きている間には無かった。

 ただ。

 可愛いなぁ、だとか、次の席替えで隣になれたらなぁ、だとか。そんな事をふとした瞬間に意識してしまう程には僕は彼女のことを思っていたのだと思う。

 ───亡くなってしまった今じゃ、そんな事を考えても何の意味も無いのだけど。

 

 雨峰さんと友人でもない僕は葬式に行くこともなく、始まってしまったこの冬休みを無為に過ごしていた。

 一縷の喪失感を胸に懐きながら。

 

 

 何をする気にもなれず、自室で黄昏れていると、部屋の外から間延びした母親の声が響いた。

 

「花太郎〜、ちょっとお祖父ちゃんのとこに行ってくれないかしら〜」

 

 母親の言葉に分からないながらも、僕はゆっくりと椅子から立ち上がる。

 木目が荒い部屋の扉を開けて、息を吸い込んだ。

 

「どうしたの?」

「この間お父さんが会社で慰安旅行に行ったじゃない? その時のお土産を渡して来てほしいのよ」

 

 話しながら部屋を出ると階段を下る。

 父の慰安旅行は、確か2週間前のことだったと思う。北海道に行ったそうで、自慢げに白い恋人を3箱ほど買っていたのを覚えている。1箱は家族用、もう1箱は行かなかった部下用だからな、と父は言っていたけど残り1箱は祖父用だったらしい。

 

 我が家は普通の建売住宅で、2階建ての極めてありふれた一軒家だ。

 2階にある自分の部屋からリビングへと向かうと、その中央にあるダイニングテーブルに紙袋が1つ置かれてあった。

 

「これ、持ってけば良いの」

「そう。お願いできる?」

 

 まだ午後3時なのに、今日はヤケに早く夕飯の準備を始める母に問いかけると振り向かずに返事は返ってきた。

 

「……まあ、いいよ」

「じゃあお願いね」

 

 丁度コンビニで甘い物でも買おうと思っていたところだったし、ついでに行くのも吝かじゃない。

 僕は紙袋の紐を握ると、財布片手にコートを羽織って外へと繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

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 祖父の家まではバスと歩きで合わせて40分ほどだ。

 道中いつ雪が降っても可笑しくない程の酷寒に、交互に紙袋を持つ手を入れ替えながらもう片方をポッケに突っ込んで歩く。

 商店街に差し掛かると、浮ついた人々の心を代弁するかのようにクリスマスソングが町内スピーカーから流れていた。

 ───クリスマス、なんて単語を無味乾燥に使うのもこれで16年目だ。

 恋人はいなければ、予定だって何にもない。今年も普通の1日が待っている……そう考えると嫌に鬱屈とした気分が頭を支配する。

 

 街の様子を、夏休みの宿題でアサガオの日記を付ける小学生みたいな気持ちで観察していると、次第に祖父の住むマンションが見えてきた。

 久しぶりに来たと思う。今年の夏休みは予備校で忙しかったから、春休みぶりかもしれない。

 3階の隅の部屋に祖父は住んでて、その部屋の手前までは母から預かった鍵でマンションに入る事ができる。

 階段を上りきって、すぐ左の部屋のインターフォンを躊躇いなく僕は押した。ピンポーンと軽い電子音が部屋の中から聞こえてくる。

 暫くして祖父の、ノイズ混じりの嗄れた声がインターフォンのスピーカーから響いた。

 

『……はい』

「お祖父ちゃん、久しぶり」

『おお、花太郎。入った入った』

 

 変わりのない声に安心しながら、鍵を回して扉を開ける。

 丁寧に整理された玄関に、綺麗なフローリングかが伸びた廊下。目に見えるところにはホコリ一つ無い。

 相変わらず、祖父は欠かさず掃除好きなようだった。

 

 靴を脱いで整えると、祖父はのしのしと奥から歩いてきた。

 

「久しぶりじゃの花太郎」

「うん、久しぶり」

 

 今年で79歳を迎える祖父は、それ相応に皺の深い相貌ではあるが、その立ち振る舞いは高齢であることを感じさせないくらい軽やかだった。

 

「これ。親父からお土産」

「ほぉ、北海道……態々すまんのう」

 

 早速紙袋を差し出すと、祖父はありがたそうに恭しい手付きでそれを受け取った。

 

「どう? 最近」

「変わらんのう、寝て起きて遊ぶ毎日じゃから」

「最高じゃんそれ」

「おうとも、最高だとも」

 

 胸を張って祖父は答えた。

 個人的な見解として、僕の祖父は老いてもなおリア充だった。

 妻にこそ先立たれてしまっているけど、毎日友人と外に出かけてスポーツだボードゲームだと順風満帆に過ごしてるのよ、とは母の言葉。同年代のご老人を見習ってもう少し大人しくしてほしいとも夕食中に良く愚痴っていた。

 

「じゃあ、僕帰るから」

「ちょっと待ちなさい」

「ん……? どうしたの」

 

 用事を終えて僕は踵を返そうとすると祖父はそう言った。

 紙袋を持ってリビングへと引き返して行き、2分ほどあちこちと引き出しを開けて何かを探すような物音が聞こえたかと思えば、何かを片手に戻ってきた。

 

「少し早いが、クリスマスプレゼントじゃ」

「何それ」

 

 ほれ、と乱雑に投げられたので慌てて受け止めてるみると、それは古色蒼然とした高級そうな懐中時計だった。

 何を突然……と疑問に思いながらも蓋を開けてみる。時計盤の中央部分の背景は透明で、中で金色のゼンマイが刻を打つのが目に見えた。

 

「クリスマスプレゼントなんて今まで無かったじゃん」

「この前掃除してたら突然出てきたんじゃよ、貰っときなさい」

「ふーん」

「じゃがな? タダの時計じゃあないんじゃこれは」

「……どういう意味?」

 

 僕は言ってる言葉が分からず、首を傾げた。

 

「この時計はな、過去に戻ることができる時計なのじゃよ」

 

 祖父は神妙な声で、僕の右の掌に置かれた時計を見遣る。

 

「……お祖父ちゃん、少し会わない内にボケた?」

「わしゃボケとらん。本当のことじゃよ」

 

 狂言とも受け取れる発言に思わず疑わしい視線を送ると、祖父は強く否定した。

 視線をスライドさせて、時計をジッと見てみる。

 縁は金属のシルバー色が光沢を放っていて、文字盤は灰色がかった濃いグリーン。金色で刻まれた文字はi〜xiiとローマ数字で記されている。中央はガラスが張られていて、やはりゼンマイは針を動かしていた。

 

 360度、どう見ても普通の懐中時計だ。

 陳腐な感想として値段は高そうには見えるけど、それだけで。

 

「過去に戻るって……アニメじゃあるまいし」

 

 とだけ言って、僕は懐中時計をコートのポッケに突っ込んだ。

 

「無条件ではないぞ。使う度に、大事なものが消える」

「大事なもの?」

「ワシの場合……カネじゃったかな」

 

 懐かしそうに祖父は笑った。

 お金を消費して過去に戻る、言葉にしてみれば嫌に俗っぽいタイムマシーンだ。まだドラえもんに頼んだ方が夢がある。

 

「本当なら面白いけどね」

「本当じゃよ。あともう1つ条件があったかのう」

「一応、聞いても良い?」

「過去に強い悔恨が残っていることじゃ。願えば、この懐中時計は聞き届けるじゃろう」

「悔恨、かぁ……」

 

 心当たりは、とてもある。

 どう定義すべきか分からないけども、心の中で燻った名前も付けられないこの恋心。

 それを悔恨と呼ぶならば、そうなのだろうか。

 

 ともかく、過去に戻れるとかSFチックな話はさておき。

 一般的な懐中時計として見れば、デザインはシックで高級感があって中々カッコいいじゃないか。

 普通に良い物を貰ってしまった。

 

 絵空事みたいな有り得ない話を打ち切るように僕は小さく咳をした。

 

「まあ、うん。……ありがとうね」

「おうよ」

「また来るね」

「今度はちゃんと土産話でも持ってくるのじゃぞ」

 

 

 

 

 

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 冬場の空はすぐに鉛筆で黒く塗りつぶしたような色へと変化する。

 コンビニで買った板チョコの入ったビニール袋を片手に、何となく非現実的な気分に陥って上空を仰ぐ。

 都会に近い街並みだから星々は殆ど観測出来ない。目を細めて、シリウスが何とか分かる。中学時代に理科で習ったけど、シリウスは−1.5等級で一番明るい星らしい。こうして目を天に向けて初めて座学で習った無機質な単語の羅列が実学なのだと、少し感動してしまう。

 

 

 

 家に帰って、それからは何時ものように日々の些事を熟す。

 夕食を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて。

 あとは寝るだけとなった段階で僕は自分の部屋に戻る。

 

 衣装棚のコートから取り出していた懐中時計を机に出して、再び眺めてみる。

 凝視する内に僕はどんどんと胡乱な気分になってきて、夜の寒気が部屋に浸透してきたところでエアコンのリモコンを手に取り暖房のボタンに指をかける。

 

 この時計が、過去に戻れる───。

 

 それが真ならば、僕は戻りたい。

 上から目線かもしれないけれど、彼女の自殺を止めたいという僕の心情は本物だった。更に欲を重ねるならば告白して、カップルとして付き合いたい。

 

 だけど。自分で思っている以上に僕の目は冷徹に現実を見ていた。

 見てくれは立派な懐中時計。でも過去に戻れるという効果は、いつだかに父が中東のお土産で買って来たマジックアイテムのそれより胡散臭い。

 だって戻れるはずがない。時は不可逆的だ。宇宙ひも理論だとか、ワームホールだとかブラックホールだとか、どれも机上の空論で無理難題。輝夜姫の5つの難題並みの難易度に太刀打ちする科学力が人類に無いことくらい僕だって知っている。

 

 自己反芻していると、知らぬ間に僕の身体から熱が抜けているのに気付いた。懐中時計への興味が雲散霧消したのだ。懐中時計にその価値以上の意味を見い出せなくなるのも当然で、僕は息を零した。我ながらその溜息はさながら本気で期待した人間のそれで、余計に僕は落ち込む。

 こんな腥い思考に嵌るなんて、今日は駄目なのかもしれない。

 

 午後9時26分。

 何時もより2時間以上早いにも関わらず、僕は布団を被り、部屋の電気を消した。

 

 

 

 

 

 

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 夢を視ている。

 僕は石で、学校の屋上から彼女が身を投げるのをひたすら見ている。

 

 まるで同じシーンを巻き戻している気分。

 彼女が死んだあと、唐突にテープを逆再生するみたいに彼女の身体が地上から持ち上がり、彼女の血や肉が空中でグチュグチュとくっついていく。その様は傍から見ると不死身の化け物のようだった。

 

 不思議なことに僕は彼女の身体が再生する度に喜びで歓声を上げそうになるほど、落下防止用の柵から身を乗り出しそうになるほど、興奮して脳内麻薬(エルドフィン)で溢れ頭の中が無茶苦茶になる。

 彼女が身投げすると、全財産や社会的地位を剥奪されたような、酷い怒りと焦燥感で全身が満たされ、やっぱり頭の中が無茶苦茶になる。

 で、ふと思考が冴えた時にはいつも自分が石である事を何かから突き付けられた。路肩に放り出された小石。トラックに容易に引かれてしまう小さな小石。

 

 何度も何度も、その光景は繰り返される。

 徐々に視界が擦り切れて、やがてプツリと景色は潰えた。

 

 

 

 

 

 

 

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 目覚まし時計の単調な音が脳内に鳴り響いて、目が覚めた。

 隠しきれない欠伸が口から漏れ出ると、枕から拳2つ分横にあった目覚まし時計の頭頂部を軽く叩いてけたたましい音を止めて、手の届く場所に置いていたスマホを持つ。

 次第に鮮明になる思考に僕は頭の中を整理する。

 今日は12月23日。木曜日。

 明日がクリスマスイブということもあって、テレビなんか付ければその話題一色のはずだ。

 そこはかとなく鬱になりながら、スマホを握りしめつつ両腕を上に伸ばしてノビをすると、手を下ろして手元の画面に視線を這わせた。

 

 

 

【6:25 12月14日(火)】

 

 

 

 僕の口から「えっ」と言葉にならない言葉が滴り落ちる。

 記憶が定かなら、今日は12月23日。クリスマス・イブイブ。

 

 しかしスマホのスクリーンは僕の日付感覚を否定していた。時間だけは無情に過ぎ、26分へと画面の文字がうつろう。

 

 ……スマホがバグったのだろうか?

 

 こういう時こそ冷静に、現状を確認するべきだ。

 ロックを解除して、ニュースやアプリを起動してみたりSNSの履歴を見てみたりする。そのどれもが今日が12月14日である事を明々白々と示しており、確認し終えると僕は身体を起した。

 視線を机の上にある懐中時計に向ける。

 

 

 どうやら、僕は過去に遡ってしまったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝間着を畳みながら、教科書と時間割を見比べる。

 

 12月14日。火曜日。

 それは冬休みを来週に控えた普通の平日で。

 

 ───そして、雨峰風璃が自殺する1日前だ。

 

 制服に着替えて一階に下りると、父は既に出たようで、母はキッチンに立ってパンを焼いていた。

 妹はリビングのソファーに座ってテレビをぬぼーっと眺めている。

 

「おはよう」

 

 声を掛けると、気怠げに妹は首を捻って。

 

「あ、ぉ兄ちゃん……。おはょ……」

 

 と、肩まで掛かった栗色の髪の毛をあちらこちらと跳ねさせて、非常に眠そうな声で言った。

 旱山明呂(ひでりやまめいろ)は僕の妹で、高校1年生。とは言っても僕とは違う高校で、距離的には僕の通う学校より少し遠い。

 

「一段と眠そうだけど大丈夫?」

 

 と、僕は聞いてみる。

 聞いたのは良いけどそのすぐ後に僕は弾かれたように思い出した。一周目の記憶を。

 14日、その日の朝は確か明呂は学校のレポート課題に追われていて寝てなかったはず。

 

「うん……たぶん」

 

 妹の虚ろな視線に後髪が引かれる思いになりながらも、ダイニングテーブルに置かれた朝食の匂いに勝てず僕は椅子へと座る。

 香ばしく焼かれたバタートーストを齧りつつ、考えに耽った。

 

 

 

 ───マジで過去に行けるとは思わなかった。

 テレビのニュースアナウンサーが『おはようございます。12月14日、火曜日のニュースです』と淡々と話し始めるのを横目に、呆然と思う。

 

 半信半疑どころか無信全疑くらいな心情で昨晩は寝入ったのに、起きたら本当に過去に戻れてしまった。

 宇宙ひも理論とか、ワームホールとかブラックホールとか、そんな曲がりなりにも科学的な考察など一切関係ないとかなぐり捨てんばかりにすんなりと現代の奇跡は起きてしまった。

 起きてしまったのだ、僕の身に。

 

 こうなってくると気になるのはあの懐中時計。

 一体全体、あの時計は何なのだろうか。

 昨日、と言うか23日に見た時は何の変哲も無い外見だった。そのどこに、そんな途方も無い力を秘めていたのだろうか───。

 

 ふと、昨日の出来事を思い返していると祖父の言葉が浮かび上がった。

 

『無条件じゃないぞ。使う度、大事なものが消える』

 

 ……大事なもの。

 それは、何なのだろう。

 僕が大切にしているものと言っても日常使いしてる文房具とか、現在読み途中の文庫本とか、思い付くものを脳内で羅列してみてもいまいちパッとしない。家族は居なくなってないし、家だとか資格だとかそういう事でも無さそうだ。

 祖父は確か「金」と言っていた。

 まあそれも大切と言えば大切だけども……。

 

 ムズムズとした、隔靴掻痒とした気分が収まらず、僕は一旦朝食を中断して2階の自室へと戻る。

 

 部屋は僕が起床した時と変わらず整然としていた。

 いや、けれど所々に違和感はある。

 最近買った本が無かったり、棚に仕舞っておいた教科書が一冊も無かったり、部屋の隅に置いていたスクールバッグが勉強机の横にあった。

 それが過去に戻る代償……ではないと思う。

 どちらかと言えば、12月14日の僕の部屋の状態に回帰した感じだ。教科書は普段学校のロッカーに置いているし、スクールバッグも使う時は手短な場所に放っといている。

 

 祖父の言葉を頭に浮かべながらおもむろに机の引き出しを開けて、財布を取り出すと中身を確認してみる。すると違和感から僕は束の間、茫然自失とベッドに座り込んでしまう。

 

 財布の中身は、減っていた。

 小銭の数とかポイントカードの枚数とか、そういうのは全く昨日の状態から変化していない。もうその事実からおかしいのだが、それ以上に、財布にあった一万円札が消失しているのが目の前の違和感の確固たる正体だった。

 

 気を取り直すと、一応無意識に部屋のどこかに置いていた可能性を考えて、僕は座ったまま部屋中目を走らせる。

 机、無し。ベッド、布団の下、枕の下も無い。

 手を使って更に探してみるけど、10分ほど続けて僕は漸く理解した────。

 手元から、いや、この世から僕の持っていた一万円札が無くなっている。

 つまり、それが対価。

 過去に戻るなんていう、トンデモ現象を引き起こす代償なのだろう。

 

 僕は財布に入った千円札を見つめながら、やがて机に置いた。

 正直、安いと思わなくもない。

 タイムスリップの駄賃がたった一万円札なんて、昨今のそういうSF映画だってもっとマシな等価交換を設定するはずだ。

 

 でも、言葉を尽かすくらい馬鹿げた事に、そんな超次元現象は為されてしまった。

 覆水が盆には戻ることは、もうない。

 

 

 

 

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 それから、なるだけ僕は一週間前にしたのと同じような行動を心掛けて云為を図った。

 細かい箇所は覚えていないから分かるところだけ、分からない部分は有り余る自分らしさでカバー。多分、そんなに差異は出てないと思う。

 

 朝はそんな感じに過ごして、平日だからそのまま登校だ。

 

 折角の冬休みが巻き戻されて平日になってしまってしまった訳だが、そんなのは今の僕にとってミジンコより小さな問題だった。

 それより心の大半を占めたのは、彼女が未だ自殺してないということ。

 ───雨峰風璃、彼女に告白できるということである。

 

 ドキドキと心拍数の上がる胸に高揚感を覚えつつ、矮小で単細胞プランクトンみたいな自分の脳味噌が少し嫌になる。

 

 明日自殺する人間に告白する、それって自分勝手過ぎやしないだろうか?

 僕は彼女が自殺する本当の理由を知らない。

 なのに呑気に恋だの愛だのに浮かれて、この気持ちを押し付けて本当に良いんだろうか?

 

 イヤホンコードが絡まったように、僕の感情は複雑さを増してこんがらがっていく。

 

 とにかく、学校に行かないと何も始まらない。

 僕は深く呼吸をすると、横断歩道を渡る。路肩には向日葵の花がゆらゆらと踊っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 僕の通う陽凪高校は変わらず安穏としていた。

 いつも通りの喧騒感。いや、長期連休前だからだろう、心なしか普段より騒がしく感じる。

 逸る心臓を抑えて、僕は教室に入る。2年D組、昇降口付近の階段からだと一番奥にある教室だ。

 

 そして、僕は見つけた。

 

 近寄れば良い匂いのしそうな長い黒髪、その両サイドの触覚が窓から吹き込まれる風にゆらゆらと揺れている。

 肌はシミ一つない健康溌剌とした薄いオレンジ色で、目鼻立ちも僕の覚えている彼女らしく、完璧というほどに整っていた。

 寒いからかYシャツを第一ボタンまで締め切り、その上にキュッと青いストライプ柄のリボンが結ばれている。髪を結んでいる向日葵色のリボンは彼女のトレードマークだった。

 同年代の女子より若干低い身長に、僕は確信を深める。

 

 雨峰風璃───雨峰さんは、窓側の黒板沿いで同じクラスメイトと会話をしていた。

 楽しげに笑んでいる姿に、僕は知らず知らず視界がボヤケてくる。

 邪魔臭いなって思って視線を下げずにそのまま目を擦ると、指に何か濡れた感触。

 確認して、知った。

 僕は……泣いていたのだ。

 

 その事実を理解した途端、頭が急速に回らなくなる。とにかく底無しの羞恥心が僕の心臓を覆う。

 僕の席は窓側の後ろから二番目。

 俯きながら早歩きで席につくと、カバンを机の横のフックに掛けて前傾姿勢で椅子に座った。

 倒れこもうとして、後ろから声をかけられる。

 

「旱山? 朝からどうしたんですか?」

「……おはよう未白」

 

 振り返ると、後ろの席に座っていた友人、未白大吾(みしらだいご)は怪訝そうな顔をして僕を見ていた。

 

「ちょっと、奇跡が、ね……」

「はぁ? 奇跡ですか?」

「うん。気にしないでくれると助かる」

「……まあ良いですけど」

 

 興が削がれたように未白は掛けていた眼鏡を取り外すと、懐からシルクの布切れを出してレンズを拭き始める。

 未白は高校一年からの友人だ。

 と言っても仲良くなったのはここ一年の話で、去年の秋に催された文化祭の際に同じ係になって何故か良く話すようになったのである。

 そういう訳で、中学時代からの友人とは違って互いにまだ一線を引いている。と、僕は思っている。まあでも未白の性格的に、放課後に一緒にカラオケで遊ぶ、なんて未来は予想出来ない訳だけども。

 

 暫く黙っていると涙が乾いてきたので、僕は適当な話題を未白に振った。

 

「未白は好きな人とかいないの?」

「はぁ? 何ですか唐突に?」

「いや、そろそろクリスマスだからさ。未白にはそういう浮ついた話、無いかなぁって」

 

 未だレンズを拭きながら、しかつめらしく眉根を寄らせると、

 

「無いですね。冬は冬期講習と自習で詰まっているので、暇なんてほぼ無いです」

 

 と、淡々と言った。

 

「相変わらず真面目だな未白は」

「当然です、来年の今頃には受験ですよ? 旱山君こそ勉強すべきだ」

「僕は程々で良いよ。程々がこの世で一番適度なのさ」

「その分だと来年苦慮するでしょうね」

 

 来年の事は来年悩めば良いじゃん、と思ったりもするけど。未白のその勤勉さにはやっぱり勝てない。

 未白の発言は何もコケ脅しではない。

 何せこの進学校───というと少し過大評価な気がするから、自称、と付けるのが適切だったりする───で学年主席の成績を誇る。常日頃からの努力の賜物で、その座は一度も崩落したことが無い。

 

 もしかしたら、未白なら、何か分かるかもしれない───。

 

「ところで未白、タイムスリップとか信じるタチだったりする?」

「……今日は強引な話題振りが多いですね」

「良いから、良いから」

 

 一縷の期待を込めて、僕は未白の白粉を塗ったあとみたいな白い顔を見つめる。

 未白は訳が分からないとでも言いたげな顔をして、それでもこめかみに親指を押し付けているのを見る限り真面目に考えてくれているらしい。

 少しして、疲れたように口を開いた。

 

「……無いですね。タイムスリップなんて不可能極まりないと思いますよ、現代の技術だと」

「その心は?」

「素粒子タイムマシンは知っていますか?」

「知らないけど……」

 

 素粒子タイムマシン。脳内で反復しても、ド文系の僕には無縁の単語だ。

 未白は神妙な表情で頷く。

 

「タイムマシンというのはその実、素粒子レベルではもう実現しているんです。例えば大型ハドロン衝突加速器、これによって素粒子を限りなく光に近い速度に加速させることが出来ます。それによってその素粒子を我々は未来に送り出している、という訳です」

「……んん、と?」

 

 上手く飲み込めず呻く僕に、未白は「ああ、そうでした」と少し悔いるような表情で眼鏡をかけた。

 

「そういや忘れていましたね……旱山君。タイムスリップする方法って知ってますか?」

「あ、それはどっかで聞いたことあるかも。確か、光の速度で動くとか……そんな感じの」

 

 中学時代に理科の教師が言っていた気がする。

 時間というのは速度によって縮んだり伸びたりするから、理論上タイムスリップは可能とかなんとか。

 

「ええ、そうです。これが一般相対性理論の一部だったりするんですけど、それは置いておきましょう。つまり早く動く物体ほど、時間の流れも早くなる」

「それで、未来に行けると」

 

 未白の説明に、漸く合点の行った僕は手を合わせた。

 未白は眼鏡をくいっと持ち上げる。

 

「理論上、西暦3000年の未来に行きたいならば光速に近い宇宙船を作って乗れば、SF上で言われるタイムスリップに似た現象は自然に起こすことが出来るらしいですが……まあ、仮定の話ですね」

「え? 行けるんでしょ?」

「亜原子粒子、原子よりも小さい粒子を日常的に光の速度まで加速する技術が確立されれば可能ですけど、無理ですね。100年後に出来てるかも怪しいものです」

 

 そこまで言い切ると、未白は小さく息をついた。

 西暦3000年……途方も無い、遠い未来だ。

 僕なんてたかが一週間ちょっとタイムスリップしてしまっただけなのに……と考えて、ふと思う。

 今の話は、未来へのタイムスリップの話だったな、と。

 

「ねえ未白、もう一つ聞いても良い?」

「何ですか……これ以上の知識は僕にはありませんよ」

「少し違ってさ。過去へのタイムスリップって、可能だと思う?」

 

 今度は俊巡もせずに口を開いた。

 

「それは有り得ないですね。マイナスの速度なんてものはこの世に定義されてないですから、少なくともこの論じゃ説明つきません。ワームホールを作るとか、もっと超科学的な事をすれば可能性はありますけど」

 

 ───それこそ、非現実的です。

 未白がそう話を締めるのと同時に、チャイムの音が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

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 恙無く授業は数学、英語、日本史、現代文と進んで行き。

 迎えた昼休み、二度目となる同じ授業にそこはかとない気怠さを感じながらも僕は伸びを一回。それから雨峰さんの方を覗いた。

 

 廊下側から二つ隣、一番前に座る雨峰さんは良く笑う女の子で、今も友人との穏やかな微笑みを溢していた───。

 

 でも彼女は、明日自殺する。

 

 ギュッと注連縄(しめなわ)で肺が締め付けられるような束縛感に、僕は思わず胸に手を当てた。

 

 あの笑顔の裏には悲痛な感情を抱いてるのには違いなかった。

 そしてそれが自殺するに至ってしまうほど、重く、暗澹たる思いをその華奢な容姿に内包している───そう考えるとより僕の胸は軋む。ブリキのおもちゃが動き出して、巻かれたゼンマイが逆回転するみたいに、ギチギチと。

 

 未だに僕の心は晴れない。

 告白して良いかどうか、なんて青春ライトノベルの主人公みたいな事をウジウジと、考えてしまっている。

 だからこそ普段みたいに学食に行くこともせず、自分の席で冬場のカブトムシの幼虫みたいにジッと固まっているままで。

 

「……どうしました?旱山君」

 

 不思議に思ったのだろう、未白は現国のノートを閉じると僕の肩を叩いた。

 

「いや、ちょっと……ほっといてくれ」

「はぁ……そんな鬱病患者みたいにいられると僕も困るんですが。折角のオムライスが景観が損なわれているせいで台無しになってしまう。パパッと解決して下さい、僕の為に」

 

 ちょっと見てみると、今日の未白の弁当の中身はオムライスのようだった。黄色い卵の上にケチャップが掛かっていて、脇には色鮮やかなレタスとトマトが盛り付けられている。

 僕は未白が自分でお弁当を作っていることを知っていた。

 相変わらず器用なこって……とか思いつつ、口を挟む。

 

「じゃあ未白は学食か屋上で食べれば良いじゃん。ここは僕の席、つまり僕の領土だ。領土内なら何処にいても僕の勝手でしょ?」

「そこは公共の場所、厳密には私立陽凪高校の所有物なので違いますね。公共の福祉を慮るのは旱山君も例外じゃありません」

 

 口先だけは達者だなぁ、いや、頭も良いんだけどさ。

 僕は小さく溜息を溢して頭を振ると、少し気分が楽になった気がした。

 

「……もし、もしもなんだけど」

「はい」

「死のうとしてる女の子が告白されたとして、その子は何を思うと思う?」

 

 解れた口から出てきたのは、上手く纏まらなかった僕の思考そのものだった。

 未白はやはり能面とした表情で、数秒ほど時間を空けてから顔を上げた

 

「……僕は人の心とか、そういうものは得意じゃないですが、多分。関係ないと思います」

「関係、ない」

「告白されたら、嬉しい。そう思うのが人間なんじゃないでしょうか」

 

 スプーンでオムライスを掬い上げて咀嚼すると、更に未白は話を続ける。

 

「まあ条件に依るとも考えますが。その女の子が世界的美女なら告白なんて億万回されているでしょうし、億劫なだけかもしれませんけど」

「えぇ……ちょっと良い話だったのに」

「ですが、そんな特殊ケースを考えるよりもっと簡単に分かる方法があります」

 

 気落ちしかけたけど、未白の言葉に僕はもう一度前を向いた。

 簡単に分かる方法……。

 

「……それって?」

「その女の子の性格です。もしその女の子が性悪なら一考の価値はあると思いますけど……違うなら、喜ぶんじゃないでしょうか」

 

 そこまで言うと、もう話す気は無いようでオムライスを静かに食べ始めた。

 雨峰風璃の性格……。

 思い出してみても、誰にでも優しく穏やかだった。激高する姿など一度も見たことが無い。

 裏が無いとかあるとか、勘繰ってみるがすぐにそれが仕方ないことだと気付く。

 

 これは感情の押し付けかもしれない。

 身勝手な行為で、相手の事など1ミリも考えていないのかもしれない。

 

 

 ──────それでも、僕は今日、告白する。

 

 

 そう決めると、力が自ずと身体の何処からか沸き立った。

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

 

 昼休みにした僕の決意は泡沫と消えた。

 それはもう、呆気なく弾けてしまった。

 

 ───あの、さ。雨峰さん、放課後に時間ある?

 ───花太郎くんごめんなさい……これから委員会あるから……。本当にごめんなさい……。

 ───そ、そっか……良いんだ。大した用じゃ無いから……。

 

 以上、回想。

 なーにが"大した用じゃ無いから"だよ、過去の僕。

 話しかけといて直ぐにヘタれた自分に少し苛つきつつ、作戦を練り直す。

 

 時間は既に授業がひとしきり終了した放課後で、今日雨峰さんと話すことは叶わないだろう。校門の前で出待ちすれば確定だけど、100%印象が下がるのは恋愛偏差値2くらいの僕でも分かる。

 

 しょうがないから今日は帰ろう。

 スクールバッグを肩に背負って、教室を後にする。

 普段は未白と帰ったりもするが、おりあしく今日は部活動。文芸部の癖に土曜日も含めて週5で活動とか本当に何してるんだろうか……?

 

 

 校門を後にして、家までの道程。

 歩きながら色々と見回してみる。

 すれ違う外国産の高級車に、明るく髪を染めた女子大生っぽい女の人。

 多分、この景色を見るのも二度目なのだろう。授業とは違って流石に見覚えなんて欠片も無いけど、一度全く同じものを見たと思うと少し感慨深い。

 

 あっ。14日の放課後と言えば…………。

 

 僕が思い出すよりも先に、背後から鈴の鳴るような可愛い声が響いた。

 

「あ、お兄ちゃん……今帰り?」

 

 振り仰いでみれば僕の妹、明呂(めいろ)が制服に身を包んで首を傾げていた。

 明呂の高校は徒歩圏の僕と違って、電車で三駅ほど離れた場所にある。だから通学路でこうして出会うのはとても珍しく、僕もこの事を一応覚えていたという訳だ。

 

「うん。一緒に帰ろっか」

「うーん……1回1000円貰えるなら」

「JKビジネスなの? お兄ちゃん少し怖くなったんだけど」

「冗談だって。私、お兄ちゃんならお金取らないよ」

 

 そう言って明呂は握るように手を繋いでくる。

 …………JKビジネス、マジでやってたりしないよね?

 明呂の言葉に疑懼を懐きながらも、明呂の表情に少し違和感を覚える。

 

「……あれ、朝は凄い眠そうだったけど何か今は調子良いね」

「そりゃ当然、私だって授業は真面目に受けるのです」

「さては寝てたな?」

「さっすがお兄ちゃん。天才では」

 

 尊敬の念を送るような目付きで僕を見てくる明呂に僕は肩を落とした。

 僕より頭は優秀だけど、思考回路がちょっと残念な愛すべき妹。それが明呂だった。

 

「頭痛がしてきた……」

「大丈夫? 妹揉む?」

「揉まないよ。そんなおっぱい揉む? みたいに言われても僕は困るって」

「じゃあ耳たぶ揉む? 足先の親指でも良いよ?」

「何で段々ニッチな場所になってってるのさ」

 

 僕にそんな特殊性癖は無い……! とか思うのも多分二度目。

 何かもう、一周回って何一つ変わらない妹に安堵感すら生まれる。

 僕は掴まれているのとは反対の手で髪をガシガシと掻くと、明呂は狐みたく目を細くして口を開いた。

 

「思ったんだけどさ、お兄ちゃんってどんな人がタイプ……?」

「何だよ藪から棒に。少なくとも明呂じゃないよ」

「二言目には否定とか早くない? まあ良いけどさ、で。どうなの」

「どうなのって……」

 

 ───この質問も覚えてる。

 確かその時の僕は「まあ……可愛い人かな」とか、適当にはぐらかした気がする。今と違って明確に好きな人の容姿とか反射的に浮かばなかったし。

 でも、今の僕はそうでもない。

 完全に雨峰さんの陰影が脳裏で浮かんでいる。

 

「まあ、好きになった人かな」

「へー、ふーん」

 

 と、明呂は僕の顔を下から覗き込んでくる。

 カラスの濡羽色に光る双眸が僕の眼をじんわりと見つめる。探るような瞳に感じるんだけど、とか思っていると明呂は唇を戦慄かせた。

 

「いるんだ?」

「まあそりゃ、ね」

「その女の子、クラスメイト?」

「そうだよ」

「名前なんて言うの?」

「……恥ずかしいから、教えたくないな」

 

 矢継ぎばやの質問に、逃げるように僕は歩く速度を早める。

 妹ながら、その食いつきようはちょっと怖い。みんな女の子っていうのはここまで恋バナに興味があるものなのだろうか、とか考えて僕は心の中で首を振った。こんなに兄の恋路に食らいつくのはラノベキャラと明呂くらいだ。

 明呂はすぐさま追いすがって僕の隣に並んだ。

 

「良いじゃん妹なんだからそれくらい教えても。情報公開法って知ってる?」

「それ、個人情報は対象外だぞ」

「妹へは例外なのです」

「とんだ越権行為なんだけど。黙秘権を執行する」

「えーっ……」

 

 頬を膨らませて不満を訴えるが、僕は聞こえなかったふりをする。

 

「むぃ、じゃあ今日は諦めるね」

「今日は……って」

「絶対に探る、探るのです」

 

 表情を見なくとも刺さるほど感じる、冷たい音色に包まれた確固たる意志。何が妹をここまで狩り立たせるのか。果たして、僕にそれが分かる日は来るのだろうか。

 

 会話をしている内にも家へ到着した。切妻屋根の、白い外壁に疎らに四角いスライド窓がついた一軒家。玄関扉は和風モダンっぽく、温かい雰囲気のある高断熱の木製ドアだ。

 

 ガチャ、と鍵を回して扉を開ける。

 すると何故か、後ろから明呂が追い越して先に家の中に入った。

 

「ただいま」

「おかえり!」

「寸劇がやりたい訳じゃないんだけどなぁ」

 

 お風呂にします? それとも私? とか言い出す妹を無視して靴を脱いで、二階へと上がる。ご飯はどこに行ったよご飯は。

 自室に入ってスクールバッグを机の横にドサリと置くと、僕は椅子に座った。机の上に目を落とす。

 

 懐中時計は家を出たときと変わらず、勉強机の主であるかのような存在感をもって机上に鎮座していた。

 その盤面とスマホの時計を見比べて、時刻は見事に同期していることが分かる。本当に、見た目は何てことない時計。

 未だに夢見心地でピンとは来てないけど、これが原因で僕は過去に来てしまった───。

 

 

 僕は懐中時計を手に持って、傷一つ見逃さまいと舐めるようにその表面を眺めた。

 掠った跡も、ぶつけて塗装が削れた跡も無い。側面も緩やかな曲線美を描き、銀色に煌めいている。

 更に裏面にひっくり返すと、「んっ?」と思わず僕は声を上げた。

 

 二万。

 なにか針みたいな、鋭いもので裏面にはそう刻まれていた。手作業でやったにはその文字は職人技の如く精確で、フォントは明朝体に近いが、留めやハネが力強く強調されていた。

 

 何のことだろうか、と惚けたいところはあったけど、しかし意に反して僕の脳味噌は何となく想像がついてしまっていた。

 昨晩、タイムリープした時には一万円が消え去っていた。だから単純に、次に逆行するならばニ万円寄越せということじゃないか、と。

 もう一回タイムリープ出来るかどうかなんて分からないけど、心当りといえばそれくらいしか無いのである。

 

「お兄ちゃん、何やってるの?」

 

 考えていると、部屋のドアが開いて明呂が中へと入ってくる。

 室内だからか、制服の上は脱いでYシャツとスカートの格好だ。外と比べてここは暖かいから分かるけど、ただ第3ボタンまで開けてるのは兄としてどうかと思う。

 

「不法侵入だぞ。てか服くらいちゃんと着替えろって」

「私はこれが過ごしやすいからいーの。それよりそれ何? その懐中時計。お兄ちゃんには似合わないね」

「ほっといてくれ。貰いもんだよ、貰いもん」

「へー、何か中二っぽい」

 

 その感想は止めて。僕も少しそうなんじゃないかって思ってたから。

 明呂が部屋に入ってきたから一旦懐中時計を弄るのは中止して、机上へと置き直す。明呂の視線は物珍し気に僕の指先から机上へと向かった。

 

「高そうだね。何円なの?」

「だから貰いもんだって、知らないよ。でも十万くらいは絶対しそうだよね」

「十万……! 売れば新婚旅行50回は行けるね!」

「売らないし行けないから。明呂の中の日本はどんだけ通貨がインフレしてんの?」

「え? でもスパセンなら一回1000円だし」

「スーパー銭湯が新婚旅行ってお手軽過ぎる」

 

 学生の貧乏カップルだってもっとマシな場所行くでしょ。

 ちょっと見せてー、と言いつつ明呂は手を伸ばして、ほっそりと白く伸びた親指と人差し指で何かばっちいものを触るみたいに懐中時計を摘んだ。

 

「へー、ほうほう」

「何ちょっと老齢の鑑定士みたいな唸り声だしてんの」

「良く見るとデザインが洗練され過ぎてて逆に通販サイトとかで売ってそう。2980円くらいで」

「中国製とかじゃないって」

 

 少しの間コツコツと叩いたり、蓋をパカパカとしてみたりしていたけど、やがて興味が失せたのか「んっ」と僕に押し付けた。

 

「……んで、何しに来たの?」

「暇だったから漫画でも借りようかな〜って」

「ならさっさっと持ってってくれ」

「お兄ちゃん冷たい! そんなんだから彼女の一人もできないんだからね!」

 

 この(あま)……言わせておけば……!

 容赦無く10冊くらい積み重ねて持ち運ぶ明呂を無言でねめつける。明呂は気にする事なく、えいさっえいさっ、と漫画一式を持って行ってしまった。

 

「……一週間前も、こんなんだったかな」

 

 思わずポツリと、ひと言が溢れた。

 どのやり取りも既視感があるような無いような、曖昧さがある。一週間という時間は記憶を完全に黒く染めることは無いが、一点の濁りすら無いほど無欠でもない。特に日常生活の些細な記憶なんて、それこそ虫食い状態なのだ。

 カチリ、と懐中時計の長針と短針がすれ違った。

 

 

 

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 

 

 特段、二度目の12月14日は僕の記憶から逸脱していなかった。

 何か大きなイベントがある訳でもなし、逆に二度目となって無くなったイベントがある訳でもなし。敢えていうならば取り留めのない会話の内容は前と違ったとは思うけど、それは気にしても詮無き事だろう。

 

 それから就寝時間まで進展は無く、無為に一日は過ぎた。

 

 で、翌日となった今日。

 12月15日。水曜日。

 右手で口元を覆いつつ欠伸をして、スマホを確認すれば時は着実に刻まれたみたいだった。

 

 よし、と僕は自分の意志を再確認する意味合いも含めて鋭く声を上げた───。

 今日だ。今日が雨峰さんの、自殺する日。

 両頬をパチンと叩いて、跳ね起きる。

 僕が何かすることによって雨峰さんを救えるだなんて思い上がってもいないし、告白すれば万事解決だなんても思ってもないけれども。

 それでも、千載一遇のやり直しのチャンス。

 結果の是非も理非直曲も後から考えれば良い。今は愚直に、雨峰さんの事だけを考えよう。

 

 

 

 

 

 15日は雨だった。

 紺色の長傘を持って、バサッと広げると僕は外に出る。

 無意識に興奮状態にあるのか、居ても経っても居られなかった僕はいつもよりニ時間以上も早く家を出てしまった。おかげで朝ご飯も食べてないし、お腹も少し空いてる。後で学食で何か買おう。

 

 予想通り、早朝の学校は生徒は誰もいない。

 無人の校門をくぐり、広々とした校内を見渡す。

 幾ら今日が決行日といえ早すぎた、そう少し後悔しながら雨空を仰いでみる。

 曇天の空からひとしきりの雨粒がザーザーと雪崩落ちるように地へと降り注ぎ、校舎の壁には伝って流れる流動的な水の質感が見て取れた。

 

 すーっ、と視線を上へ上へと寄せてみる───。

 

「………………えっ」

 

 暗く濁った雲の下、屋上に何かいる。それは落下防止用フェンスの外側で、ヒラヒラとスカートがはためいている。

 良く見るまでもなく、少女がいた。

 目を細めて、それから直ぐに僕は駆け出した。

 

 ───雨峰風璃が、自殺しようとしていた。

 

 …………一周目の話だ。

 雨峰さんは放課後の屋上から飛び降りた。宵闇深い時間帯で、当時学校に残っていた教員も警備員も一切気付かなかったらしく、その自殺は発生から30分後に当直の英語教員が発見。

 クラスメイトは勿論、彼女の両親さえも自殺理由に心当たりが付かないこともあって、校内が騒然としたまま冬休みへと突入した。

 

 走りながら思い返してみて、一条の疑懼を抱く。

 今は朝、それも早朝。

 なのに雨峰さんは屋上で、この強い雨の中。俯きながらその身を落とすか落とさまいかという段階まで来ている。

 放課後までは大丈夫だろう、と少し余裕を持っていた僕を嘲笑うように彼女は屋上で棒立ちしていた。

 何でだ……。何でなんだ……!  

 疑念が焦燥感に変わって、傘を投げ捨てると縺れそうになる足を無理矢理前へ前へと動かす。

 

 僕は校内へと土足で踏み入れる。

 下駄箱を無視して、運動靴のまま一段飛ばしで階段を駆け上がる。咎めてくる教師はいなかった、まだ朝練の部活生すらいないのだからそれも当然なのだろう。

 

 一年生の教室がある三階から更に上がって、屋上の扉のドアノブに手を掛ける。すると鉄のノブにほんのり温かさが残ってるのに気付いて僕は一瞬躊躇うと、すぐに気を取り直してドアをブチ破る勢いで押し開ける───!

 

「雨峰さん!」

 

 雨に髪が濡れて、前髪が目元に垂れ下がるのが鬱陶しい……!

 我慢しながら僕は視線を前へ向けると、雨合羽を着た雨峰さんは驚いたように小さな口を楕円形に開けて、こちらを凝視した。

 

「花太郎……くん!?」

「雨峰さん!駄目だ、死んじゃ駄目だ!」

 

 水溜りを踏み締めて、ぴちゃんと水滴がズボンへと跳ねるのも介さずに、駆けた。

 屋上の際までたった100mも無い、短い距離。

 なのに僕の心臓は爆音を立てて、ハーフマラソンを完走するよりも素早く脈を打っている。

 

 そして、雨峰さんの居る落下防止用の鉄柵の手前まで辿り着く。

 

「ぜぇ、ぜぇ……雨峰、さん」

 

 改めて息を付くと、余計に言葉がスムーズに出てこない。呼吸は荒々と乱れているし、血が頭に行ってないから思考も真っ白。

 日頃の運動不足が祟ったのかもしれない、今はそれが恨めしい。

 

「花太郎くん……何でここに?」

 

 数学で分からない問題を訊くみたいに、雨峰さんは鉄柵に手を掛けた。

 僕は繰り返し、叫ぶ。

 

「死んじゃ、駄目だ!僕は君に生きていて欲しい!」

「……死にたくないよ、私は」

「……え?」

 

 雨峰さんの言葉に、僕は動きを止めた。

 こんなところに突っ立って「死にたくない」って、どういう事だろうか。

 凛然とした寒さのなか雨に打たれたからか、漸く熱を持った思考回路が冷えてくるのを感じる。

 

「それ……本当に?」

「ホントだよ。っていうか花太郎くんビショビショ。寒くない? 大丈夫?」

「だいじょうぶ……うん」

 

 少し心配そうに見遣る雨峰さんに、僕は手を上げて答える。

 ……一応笑みを作っているつもりだけど、作れているだろうか。どうにも色々な事が起きすぎて、僕の許容量をオーバーしちゃっている。表情筋がちゃんと仕事しているか不安だ。

 雨峰さんは僕の履いてるローファーから頭のてっぺんまで確認するように目を動かして、唇を震わせる。

 

「そっか……。なんで、ここに?」

「それは、雨峰さんに死んでほしくないから」

「なんで?」

 

 再び同じ言葉が反芻される。

 その表情を見れば、今度は心配というよりも少し敵意すら感じる刺々しさが孕んでいるのが見て取れた。

 

「なんでって…………そんなの、クラスメイトが死のうとしてたなら止めるに決まってる」

「……それだけの理由で止めたの?」

 

 感情が削がれたような、人形みたいな表情で雨峰さんは首を傾げる。

 それだけの理由、とか聞かれたら違うに決まっていた。

 ただのクラスメイトなら、自殺しようとしていたら勿論止めはする。説得だってする。だけどその前に教師や救急とか、スマホを使って大人を頼るだろう。

 

「違う…………けど」

「なら、どうして? 折角、怯えてた自分が薄れてきたから決心が付いて、ここまで来れた私をどうして止めようとするの?」

「それは……」

 

 言葉にするかどうか迷って、言い淀んでしまう。

 決まってる、決まっているのだ。

 僕が彼女を止める理由なんて一つしかない。

 しかし臆病な僕は唐突に訪れた機会に、それを口にするのを躊躇してしまう。

 

「……それは?」

 

 雨峰さんは僕の言葉を待っているようで、透き通った声でオウム返しする。

 視線の置き場に困って、彼女の雨で濡れた相貌を見てみる。

 小さい躰を黄色い雨合羽で包み込んで、すらりと服から出ている肌色の指先は鉄柵を軽く掴んでいた───。

 僕はその出で立ちは幻想的で、儚いと思ってしまった。触れたら溶けて水になって何処かに霧散してしまうような錯覚さえ感じた。

 

 それは多分、正しい。

 彼女は本当に自殺する意志を持っているのだから、儚くて当然だ。存在すら幽かに思えてしまうのは当然なのだ。

 

 ゴクリ、と生唾を飲み込む。

 突如こんな状況になったけど、やっと僕も意思が固まった。

 

「それはさ、僕が雨峰さんが好きだからだよ。ごめん、付き合ってほしい」

 

 手を差し伸べながら、彼女の瞳を見れなくなった僕は頭を下げた。

 

 雨音だけがコンクリートを打つ、長い、長い静寂な時間が過ぎる。

 まだ1分も、それどころか30秒も経ってないだろう。なのに精神的には10分は過ぎているんじゃないかと考えてしまうほどには僕の心はピンと張り詰めていた。

 

「そうなんだ……好き、か。そっか……」

 

 不意に、確かめるように呟いたのが聞こえてくる。

 改めて繰り返されると、こう、恥ずかしい気持ちがある。何せ勢いでしてしまったけど、告白なんて人生で初だ。初告白だ。僕が人生で愛した人間は、家族を除けば彼女一人だけだ。

 

「……私、花太郎くんと付き合いかったなぁ」

「……どういう意味?」

 

 思わずそんな言葉が緩んだ口から流出して、反射的に口を閉じるけど既に遅し。

 脈のアリそうな言葉が返ってきたのにバタートーストみたいに猜疑心をたっぷり塗ったくった発言をするとか普通ないだろ僕! としゃがんで頭を掻きむしりたくなる衝動に駆られて慌てて抑え込む。

 幸いにも雨峰さんは気分を害す様子は無く、ただ寂しげに笑みを咲かせると、

 

「私ね、凄く嬉しいの。花太郎くんに告白されて、今まで考えてた事がどうでも良くなっちゃうくらい。だからそんな、勘繰られると悲しいかな……」

 

 と、柵の向こうから言った。

 

「そ、そういう訳じゃなかったんだ……ごめん雨峰さん」

「その、「雨峰さん」っていうのも辞めてほしいな」

「じゃ、じゃあ…………風璃」

 

 戸惑ってその名前を口にすると、馴染まないながらもしっかりとその音は形を結ぶ。

 風璃。旋風の風に瑠璃の璃。

 名前を呼ばれた彼女は、心底嬉しそうに満面の笑みを咲かせる。でも何故だろう。彼女の濡烏色の瞳は雨の日に濡れた紫陽花からポツリと落ちる水滴みたいに潤っていた。

 そしてその疑問はすぐに氷解する。

 

「でもゴメンね。付き合えない、不可能なんだ」

「えっ──────。」

 

 雨音で掻き消されそうな言葉は僕の心を大きく打った。

 成功するという自信は大してなかった。でも僕なんかでも告白して、上手く行くとか、ちょっと考えてしまったのは事実だ。

 動力の伝わらない自動車の車輪みたいに感情が空転して、それから唇が弱々しく戦慄いた。

 

「な、何で……?」

「花太郎くんにはね、未来があるの。それはきっと、ううん。絶対に素晴らしい未来。高校を卒業して、多分大学にも通って、社会に貢献できる立派な人間になるの」

「……何を言ってるのか、さっぱり分からないんだけど」

「ふふ……っ。そうかもしれないね」

 

 風璃は降りしきる雨粒を歯牙にも掛けず微笑んで、びしょ濡れの制服をヒラリと舞わせるように一回転した。タンチョウがスケート靴を履いて氷上を踊っていたのだ。

 

「ねえ、花太郎くん」

 

 彼女は騒々しい雑踏の中で話すみたいに声を張って言った。

 

「ここはね、夢なんだ。夢。無限で遠大な、夢幻の中。でもね、これは悪い夢じゃないよ? 懺悔とか君の願望が滲み出た訳でも、未練タラタラな想いが導火線に火を付けた夢でもないの。奇蹟が起こして出来た南柯之夢」

 

 突拍子の無い発言。なのに不思議とすんなりと心に染み込んでくる。言っていることを全て理解出来たわけじゃない。

 でも、段々と脳に浸透して、意味を紐解いて理解が進む。記憶の海馬が強引に脳味噌の外壁を、一点に集中し雨垂れが石をも穿つように、掘削し空間と空間を接合する。

 分かってしまった。完全に、理解してしまった!

 時を遡るなんて未白も言ってたように現実出来っこないし、そもそも僕の祖父は去年の夏に他界している……!

 

「理解した……かな?」

「……そっか。僕は、僕は」

 

 

 ──────12月22日の月曜日に交通事故に遭ったんだ。

 

 

 泥濘に手を突っ込んだ、そんな感触が全身を覆い尽くしてベトベトに塗り潰す。

 僕は歩行者だった。交差点で減速せず飛び出してきたトラックに跳ね飛ばされて。それから先は記憶が無い。

 

「……死んだのかな、僕」

「ううん。花太郎くんはまだ生きれる。ただちょっと今は休憩が必要なだけ、でも安心して? もう醒めるよ」

 

 もう醒める?

 それは、そっちの方が───悪夢じゃないか。

 

「……それは駄目だ。風璃と会えなくなる」

「私はもう過去の存在だからさ、忘れて?」

「───簡単に忘れられる訳、ないだろ!」

 

 まるで間欠泉から吹き出した煮え滾った源泉だった。

 仮にここが夢だろうと、今この世界が虚構だとしても! 今この時間を嘘にしたくはない!

 

「ねえ、花太郎くん。私たちの世界はどう思う?」

 

 唐突に風璃は僕を見上げて言った。

 

「どうって?」

「あそこはさ、人間には不便な世界だと思わない? 人間は進歩を希求する生き物、自分たちの生存欲求とか生理的欲求よりも進歩の方が高次の目的になってるよね。だってこれ以上科学的に発展しても不便なんか100年前、ましてや50年前より感じない世の中になってるのに未だに進捗を求めてる。その行為が地球という自分たちを外敵から守る鳥籠を壊すと知っていて、なおも続けるんだよ? 本当に嫌になっちゃうよね。進歩と環境はトレードオフの関係で、進歩をすればするほど自分たちの巣を荒ませる結果になるのにさ。まるで文明の奴隷じゃん、私たち」 

 

 本音から話しているのだろう。人間を愚かと思ってならない目が僕の双眸を貫く。

 人間は、見たくない真実から目を背ける生物だ。それは国単位でも同じ。地球温暖化が深刻の事態になっていても、国益のために、或いは政治家としての自分の利益のために、見えないフリをして都合のいい現実ばかり目を向ける。真実は弾丸で、欺瞞は弾除けだ。

 

「……だから、自殺したの?」

「そう……だね。下らないかもしれないと、思うけど」

 

 そんなことは無いよ、なんて歯の浮いた言葉は出せなかった。下らないとは思わない。でも、それが自殺する理由なんて、あんまりじゃないか。

 と、考えてスルリと僕の心室に冷気が雪崩れ込んでくる。その寒さは昔、小学生の遠足で訪れた山梨の氷穴を思い出す。薄暗くて気温は三度とかで、小学生が歩いてもたかが20分の道のり。それに関わらず僕はラビリンスに閉じ込められたアステリオスだった。氷穴という箱は僕の存在を現世から切断して、地獄へと接続を切り替える変換器だった。それが僕は恐ろしくてたまらなかったのだ。

 それと類似した感覚が今、僕をくるりと包みこんでいる。

 自分自身が怖いのかもしれない。結局この、自殺して欲しくないと今思った思考も僕自身の恣意的なエゴだ。好きだったから、僕の為に死んでほしくなかった、それだけで感じた醜い感情だ。

 だから、僕は嫌いな思想に行きつく僕が怖い。

 風璃は全てを見透かしたような、自然と視線を惹きつける眼で、

 

「そんなことないよ」

「え?」

「花太郎くんは、そうやって自分を戒められる。それだけで私は安心できる」

 

 ねえ、花太郎くん、と故郷から去ってしまう幼馴染に語るように風璃は呼びかけた。

 

「この世界は私がいなくなれば無くなる。私が基準点だから、この世界を支える大黒柱なのだから」

「じゃあずっとここで……!!」

「ごめんね、それは出来ないんだ。だってそしたら、本当には花太郎くんは死んじゃうから、ね?」

 

 そう言って風璃は雨で濡れた髪の毛を探ると、「これ、さ」と髪に留めていた黄色のリボンを解いて、僕へと差し出してくる。それを受け取って、目を落とす。

 彼女のトレードマーク。向日葵色のシミ一つに無い布切れは、ぐしゃぐしゃに水分を含んで萎れていた。

 

「これは……?」

「私の居た証、かな。……花太郎くんとはカップルになれなかったけど、何か残したいと思って」

「だからって」

「ごめんね? こんなものしかあげられなくて。でも花太郎くんが唐突に、こんな土壇場で告白してくるのが悪いんだよ?」

 

 土壇場。

 その言葉が意味するところはつまり、彼女はやっぱり。

 

「───死のうとしてたんだ」

「花太郎くんには分かっちゃうか」

 

 寂し気な一言がコンクリートを打つ雨音とシンフォニーを奏でる。

 死にたくない、という言葉に嘘は無いかも知れない。けど、死なないとは一度も風璃は言っていない。

  

「私が死なないと花太郎くんは前に進めない。永遠にこの時空に囚われることになるの。知ってる? ここが何回目の世界か」

「何回目?」

「そっか……気付いてないのね。ループしてるんだよ? この世界」

 

 ループ…………?

 その言葉は井戸に石を投げたみたいな空疎な音に思えた。僕が経験したのは、生まれてから12月22日までの17年あまりの長い人生。切り取ってみれば多少は空白もあるかもしれない、それでも完全なる無は含有されていない。

 でも仮に繰り返されている世界で、僕が過ごした時間が1分でもあったとして、その時間が巻き戻ったらどうなるのだろう? 分かってる、それこそ虚無だ。

 ハッと僕は視線を懐に入った懐中時計に向ける。

 

「……もしかして」

「その通りだよ、流石だね。花太郎くんが持ってる懐中時計、何か数字が刻まれてたでしょ? それがループした回数、君がこの一週間をやり直した回数」

「───なんだよ、それ」

 

 僕はクシャリと萎れたリボンを握る。ビロンビロンに繊維が伸び切った向日葵のリボンは力無く重力によって垂れ下がり、天から受けた雨粒を漏斗みたいに地面へ注ぎ込んでいた。

 2万。懐中時計の裏に刻まれた文字だ。

 それはお金だと思ってた、随分安いタイムトラベル代だなと思ってた。でもそれが、ループした回数? 僕は2万回ループしたのか? 2万回同じ時間を過ごしてたのか?

 ───2万回、風璃の自殺を止められなかったのか?

 

「違うよ。私が死ななかったの」

 

 どこまでも淡々とした風璃に、暴走車両と化していた僕の思考は今度こそエンストした。僕はプツリと切れた思考を繋ぎ合わせようと錯綜する中、風璃は無視して言葉を続ける。

 

「私はこの世界の基準点なの。死ねば世界は崩壊するし、世界は死ななければ存命する。君は私を守り続けてくれた、数えるのも出来ない人にとって無限に等しい回数をね。でもこの世界に12月22日より先は無いの。その先は絶壁で、暗闇の奈落へと落ちる前にまた戻される」

「…………じゃあ、この時計は?」

「君がメアリ・スーになる為の舞台装置……って言っても分からないかもね。簡単に言っちゃえば、その懐中時計という便利アイテムのおかげで君は私が自殺することを死ぬことを知っていたんだ。──────そろそろだね」

 

 漸くギチギチと錆びた歯車みたく回り始めた思考回路を他所に、世界の天井は抜け落ちていた。それは比喩でも隠喩でもない、雨雲はポリゴンのように立方体状にバラバラに分解され、確かな質量を持ってグングンと速度を上げて地面へ落下してきている。落ちる速度は雨雲によってムラがあるようで、それによって出来た雨雲の隙間から見えるはずの太陽の光は徐々に暗く、紅く、不気味に発光していた。

 

 世界の終焉があるとしたら、きっとこんな感じなのだろう。

 風璃は同意するように微笑んだ。

 

「私が死のうとしてるから世界も応えてるんだよ。……ちょっと派手だけどね、これだと魔王みたいじゃん、私」

「………死ぬんだ」

 

 ポツリと漏れた言葉に、少しの時間を置いて頷く。

 

「うん。……花太郎くんも、誰も覚えてないけど、この世界も楽しかったの。幻想と分かってても満たされてた。だからさ、もう高校を卒業しなきゃならないの」

「そんな………」

「ねえ花太郎くん。卒業式、してくれない? 現実でも私死んじゃったし、こんな場所だけど卒業式挙げたいな」

 

 ……現実も夢も非情だ。

 ホントは一番絶望しただろうに、悲壮感を一切出さずに振る舞う風璃を前にそう思わずにはいられなかった。現実世界に失望して、この何でもありな夢の世界でも失意に塗れなきゃならない。僕の好きになった人は感受性が高いのだ、世界からの悪意すら嗅ぎとって心を痛めてしまうほどに。

 直感的に悟った、これが最初で最後の頼みだと。そんなの、断れるわけがないだろ。

 

「分かった……どうすれば良いんだ?」

「ありがとう。そうだなぁ……卒業証書を渡すフリをしてくれれば良いよ。あとは適当、雰囲気とノリで」

「……おっけー。じゃあ早速始めるよ」

 

 一回大きく息を吸って、吐く。いつの間にか雨は止み、暗澹たる雲はある一定高度で霧散して黒い煙となり校舎を除く地表を覆い隠していた。僕の家も、良く使うコンビニも、全て黒くスプレーで塗り潰したかの如く視認が出来なくなっている。天井からは赤黒い、二酸化炭素混じりの血液のような光が筋となって降り注ぐ。最早僕はその数々の天変地異に感嘆すら覚えていた。同時に、哀愁もひっそりと感じる。これが一つの世界の終わりか、と。

 大きく口を開いて、僕ははち切れんばかりに叫んだ。

 

「これより終末卒業式を行う! 卒業生、雨峰風璃! 前へ!」 

「……はい」

 

 腰ほどの高さの、転落防止用の鉄柵へと風璃は一歩進んだ。

 

「貴君を我が校を立派に卒業したものとしてこれを授与する! 12月24日、旱山花太郎!」

 

 卒業証書など無いはずなのに、差し出した手のひらに紙切れが収まっていた。空気を読んでくれたのだと直感する。

 風璃は卒業証書に驚きながらも、左手、右手と掴み、一歩下がると一礼した。長い一礼だった。きっと走馬灯が脳裏で駆け巡ってるのだと思った。彼女の表情は俯いていて確認できないけど、言葉通りに受け取るならその内心は悲壮に満ちたものではないのかもしれない。なんて考えるのは傲慢だろうか、と考えていると彼女は顔を上げた。

 覚悟を決めた、とても良い顔付きだった。

 

「ありがとうございます……ううん、ありがとう。花太郎くん」

「……うん」

「じゃあ、さよならだね」

 

 地上の構造物は全て溶けて埋没する。既に黒い煙は有象無象を呑み込み、4階部分に当たる屋上へと迫っていた。

 ……さよならなんて、やっぱり受け入れられない!!

 僕は鉄柵の向こうへ手を伸ばそうと意識する、なのに手も足も鉄柵の向こうに届かない。まるで鉄柵の向こうとこちら側で位相がズレてるように、空間が不連続性を持って行く手を阻んでいた。

 死と生、その境界線なのかもしれない。僕は生者で彼女は死者、なのに同じ空間に実在している二律背反の歪みがこうして次元に現れているのかもしれない。だから互いが互いに肉体的に干渉できない、触れない。

 

 その刹那の瞬間、防波堤に打ち寄せた津波を彷彿とさせる黒煙の濁流が天井から齎される。

 

「ありがとう……さようなら、花太郎くん。好きだったよ」

 

 と、彼女は最後に小さく呟いた気がした。そう言ったのかもしれないし、言ってないのかもしれない。ただこんな世界で唯一確かなのは、彼女は僕の必死に伸ばそうとした手の正面に、自分の手を向けたのだ。手を合わせるみたいに。

 

 言葉を紡ごうとした僕を待たず、彼女は幸せそうな向日葵の笑顔で屋上から飛び降りた。瞬間、黒い波は押し寄せる。飛び降りた風璃のみならず屋上を容赦なく飲み込み、世界は漆黒に染まる。

 手足の感覚、心臓の鼓動の感覚、呼吸の感覚が須らく精神から消失していく。黒い煙はきっと剥離剤だった。肉体から精神を見事に剥きだされ、残ったこの自我は僕の魂なのだろう。

 

 そして意識すらも、煙突の先で空気と混ざって消える白煙みたいに靄がかってくる。抵抗出来ない。する力も気力も思考も僕には残されていなかった。

 その代わりに願った。

 今度こそ、風璃は優しい世界に辿り着きますようにと───。

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

 

 

 

 

「ここで良いんですか?」

「はい、ここが良いんです」

 

 タクシーの運転手に、駅前から少し離れた何も無い田舎道までのお代を払うと僕は車外へと身を乗り出す。

 ジリジリと滅入る熱気に、ミーンミーンと蝉の合唱団が響く炎天下。バタン、と自動で閉じるタクシーのドアを尻目に主要道路から脇に伸びた荒れ道を歩き始めた。

 

 12月22日から半年以上が流れた。今は8月13日、お盆の真っ只中。夏休みの渦中でもある。といっても来年受験の関係上、僕は夏休みをライバルが犇めく予備校で謳歌していた。未白なんかは今まで通りの勉強でも問題なく志望校に受かる見通しがあるとか言って全然勉強のペースを変えていないんだけど、僕はといえばそうも行かない。ここのところは去年まで真面目に取り組んでいなかった埋め合わせをするかのように勉強詰めで、ふとした瞬間に高校生活もラストスパートなのだと哀愁に浸ってしまったりもして。

 そんな針に糸を通すような暇を縫って、僕は誰もいない霊園に来ていた。

 

 霊園までの道のりはコンクリートで舗装されておらず、車が雑草を踏み分けて通った後だけが鮮明に見て取れる土の道だ。道中、錆が縁に浮かび上がった看板には「ここより500m 陽野霊園」と掠れた黒文字で書かれていたのだが、既に明らかにその指定された距離よりも歩いている気がする。嫌がらせだろうか? とか思ってしまうけど、田舎ならばこういうのも珍しくないと思い直す。どうせ看板を作った人間は正確に計測しておらず、体感で適当に書いたのだろう。しかし、あてにしてはいけないと分かっていても想定していたより長い距離を歩いたからか、どうしようもなく精神が摩耗する。何より夏の気温は体に悪い。

 

 暫く歩いていると、漸く大きな看板が見えてきた。───風璃の墓石がある、霊園だ。

 風璃の墓を知ったのは今年の一月のことだった。親族に電話をしてみれば、電話に出た母親の春奈さんは快く教えてくれた。

 風璃の墓は県外の田舎町───どうやら風璃の父方の祖父母の地元らしい───に埋葬したとのことだった。しかも駅から歩けば二時間は掛かる場所で、バスすら通っていない辺鄙な所だ。でも風璃に合っているかもしれない。とか思ってしまうのは何だか、我ながら不思議な気分になってしまう。だって僕は風璃と現実で話した回数なんて数えるほどしかないのだから。

 そう思うと本当に不思議な関係だと思う。

 12月25日、僕は病院で目を覚ました。12月22日に交通事故に遭って、奇跡的に命に関わるものではなかったものの三日の間ずっと眠っていたらしい。夢の中では何日も、それどころか風璃の話では二万回も繰り返したのがたった三日。僕の願望が表層化した夢かと思ったけど……。

 向日葵色のリボン。それが目を覚ました時、入院していた僕の手のひらにいつの間にか握られていたのだ。明呂も「なにこれ……昨日来たときは無かったよ?」と不思議がる始末。

 つまり、僕だけが知っているのだ。あの終末世界で卒業式をする前に、僕へとリボンを渡したことは。あの世界での出来事は現実でもないが完全たる夢でもない、区別するとしたら夢の世界とでも呼称すべきなのか。だから風璃との思い出は嘘じゃない、僕はそう考えている。これも願望なのかもしれないけど。

 

 墓石を探して敷地内を歩く。周囲は森で、自然豊かな木漏れ日香る霊園だ。そこまで大きな霊園ではないけども意外に管理はちゃんとされているらしく、墓石を結ぶ小道も墓石の中も小綺麗に整えられている。良い場所だなぁ、とぼんやり考えながら霊園をぶらりと散策する。

 少ない墓石の中、風璃の墓は容易に見つけることが出来た。

 

 ……うん、これか。

 立派な墓だった。墓石である五輪塔はツヤツヤとしていて、つい最近誰かが来てこの墓石を誠心誠意込めて拭いたのが見て取れる。供え物としてソーダ缶が置かれているけど、風璃はソーダが好きだったのだろうか?

 火の付いた線香を立てると僕は懐から向日葵色のリボンを出して、左手で軽く握りながら右手でポケットを探る。銀の懐中時計だ、あの時のとは色も形状も微細に異なるけど。

 手を合わせて、数分祈って。それから何を話そうか、たった半年なのに沢山話すことがあるんだよ風璃。

 誰もいない霊園で、口を静かに開く。

 

「このリボンを持ってると、なんか君が近くにいる気がするんだよね……ちょっと気持ち悪いかもしれないけど。ともかく、アレから色々あったんだ。風璃のリボンが僕の病室にあったことを君の家族に聞かれたり、事故についての事故処理だったり。君の自殺と僕の交通事故にスピリチュアルな関連性を見出して追いかけてきた三流雑誌記者なんかもいたんだよ? ホント、失礼だよ。ってもスピリチュアルってのは当たらずも遠からずなのは少し、言い辛いところだけどね。それでさ、その懐中時計。お祖父ちゃんの家から出てきたんだ、形とか似てるよね。残念ながら時を巻き戻す、なんてことは出来ないけど、あの思い出を残すことだけはできる」

 

 僕はそこまで話して、一旦踏み留まる。

 半年経つと妙に不安になる。あの夢の世界で、僕と風璃の関係性は築かれた。けど、それは本当に本物なのかって。

 でもそんなことを墓前で言う必要もないだろう。代わりに聞きたいのは───。

 

「ねえ風璃、向こうの世界はこっちよりマシ? この世界は相変わらずだよ」

 

 額に流れる汗を袖で拭って、僕は立ち上がった。記憶は全て戻って、2万回の一週間の記憶があると言っても結局それは僕を大人たらしめるには足りなかったようだった。

 

「また来るよ、次はクリスマス前にでもね」

 

 僕はそう言って墓前を後にしようと反転して、ふと思い出して再び墓前に向き直る。

 

「そうだ。これを忘れてた」

 

 買ったばかりのサイドバックのチャックを引っ張って、中から花を取り出す。一輪の向日葵。サンリッチ・マンゴーという種類のそれは、ガーデニングなど欠片もやったことなかった僕でも比較的簡単に花を咲かせる事ができた。

 そっと、銀時計の手前で寝かせる。向日葵はそよ風に花弁を揺らした。

 

「じゃあ、またね」

 

 今度こそ振り返らない。

 時間は無情にも進んでいく、進めば進むほど風化していく。物も、記憶も、歴史も。

 きっと毎年ここに来られるのを風璃は望んでいないだろう。だから、風化してここに来る意味を忘れるまで行こう。それが旱山花太郎の初恋の覚悟だ。

 



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