「君の長所は、私を愛してることだよ」   作:ルシエド

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 何故世には医者が必要なのか。

 それは、人間は根本的に、自分の手当てを自分で行えないからだ。

 若葉は毎晩ズタボロにされつつ自分の手当てを自分でするしかなかったリュウを見て、もう何もかもが見ていられなかった。

 

「来い。包帯を巻き直してやる」

 

 リュウを連れ、若葉はかなり大きな部屋に入る。

 部屋は物置のようで物置ではない、よく掃除された綺麗な部屋でありながら、ありとあらゆるものが積み上げられた場所だった。

 右を見れば、本が詰め込まれた本棚に、その前に置かれたアウトドアグッズ。

 その左には道場で使うような道着があって、その前にゲーム機が積み上げられていた。

 古びた楽器に、西暦のアイドルグッズ、刀や銃らしきもの、他にも様々な物が整理整頓されて置かれて、『乃木若葉の七十年』が感じられる部屋だった。

 

 リュウはそこで椅子に座らされる。

 

「脱げ、リュウ」

 

「……え」

 

「老婆に見せて困る肌などないだろう。早く脱げ」

 

 有無を言わさず脱がし、若葉はリュウの手当てを開始した。

 包帯を外し、皮膚と一体化しているガーゼを剥がし、痛みに呻くリュウに「男だろう、耐えろ」と優しい声をかける。

 膿を出し、丁寧に拭いて清潔にし、出血がある場所は丁寧に止血する。

 骨が折れている部分は、部位によってバンドや添え木で補完した。

 薬を塗り、湿布を貼り、薬剤でなんとか消炎鎮痛消毒などの対策をするが、焼け石に水でしかないことは手当てをしている若葉が一番よく分かっていた。

 

 即時入院が必要だ。

 今生きている事自体が、奇跡的なバランスで成り立っている。

 自らの傷を治す超常の力を持たない者は、戦う度にこうして消耗していくことを、乃木若葉はその経験からよく知っていった。

 

「よくもまあこんな手当てで戦い続けようと思ったな……

 一人でやったと考えれば及第点はやってもいいが。キツく締めるぞ」

 

「お褒めいただきあいだだだだだだだイデェッ!?」

 

 数秒間息が止まりそうなほどの痛みに、リュウは歯を食いしばって耐える。

 だが若葉の的確な手当て、特にリュウが自分の手を届かせられなかった背中側の傷の手当ては、リュウの体を大分楽にしてくれていた。

 痛みが柔らかになり、傷と欠損で動かしにくくなっていた部分は、十分な止血と固定によってかなり楽になっていた。

 一例を出すと、リュウの足の甲には穴が空いていたが、若葉がガチガチに固定した上で、足首に障害者用の板バネを入れることで、痛みに耐えられれば歩くことくらいはできるようになった。

 走ることは流石に無理である。

 

「色々置いてあるンすね」

 

「そうだな。私も長生きしすぎてしまえば、ボケでどこに何があるかを忘れてしまいそうだ」

 

「今は全部覚えてるンすか……御年九十とかそんくらいでは……?」

 

「どうだ、いくつに見える?」

 

「酒に酔った大人みたいな雑話題振りやめましょうよ」

 

「む、すまない。

 大昔にこの話題振りをやっている者を見て、当時の私は羞恥でできなくてな。

 今思い出したからちょっとやってみたくなった。お前と話していて思い出したようだ」

 

「えー、まあ、思い返して不快にならねェ思い出があることはいいンじゃねッすかね」

 

 愉快なお婆ちゃんだな、とリュウは思う。

 不思議なものだ。

 今日会うまでは、世界に希望を残した大英雄を、心底尊敬していたはずだったのに。

 実際に会ってからは、親しみしか感じていない。

 若葉の会話のテンポ、話のノリ、気の良い在り方が、とてもリュウの肌に合っていた。

 

「オレのオリジナルってどんな人だったンすかね」

 

「それは聞いても意味の無いことだ」

 

「じゃあ、友奈のオリジナルは?」

 

「それも聞いても意味の無いことだ」

 

「えー……そッすかね……?」

 

「今を生きているお前達には何の関係もないことだ。

 過去は過去で、今は今。

 大切なことはそんなところにはなく、ゆえに聞いても得は無い」

 

 若葉はリュウから剥がしたガーゼや包帯を捨てながら、己の考えを述べていく。

 

「命はたった一つだ。分かるか?」

 

「まァ、そンくらいは。……オレの場合は、模造品の失敗作ッすけどね」

 

「死ねばお前も、赤嶺友奈も、そこで終わりだ。

 お前達の因子の元になった人間もそうだ。

 復活も、再生も、同じ者を作ることもできない。

 誰もが命は一つで、人生は一つなんだ。

 だからこそ……皆必死に生きて、皆懸命に命を守ろうとするんだ」

 

 若葉は自分の生まれを知り、状況の最悪さもあって悪い方、悪い方へと考えるリュウを正しい方向へ導いていく。

 

「お前はお前で、赤嶺友奈は赤嶺友奈だ。

 この世にたった一つの命なんだ。

 それを忘れるな。

 死んだ者とは二度と会えない。

 失われた命の価値は取り戻せない。

 お前が自分の命と存在価値を軽んじても、私はその考えを否定する」

 

「……」

 

 若葉とリュウの視線が、自然と周囲の物にいく。

 七十年以上収集され溜め込まれたもの。

 遠い昔から守られてきた思い出。

 この中のいくつが乃木若葉の友の遺品なのか、仲間の遺品なのか、大切な人の遺品なのか……少し怖くて、リュウは聞く気になれなかった。

 

「死んだ人に会いたいとか、思わないンすか」

 

「死んだ人間との、終わった話だ。

 死んだ者は蘇らない。

 ここに来ても失ったものは戻らない。

 私がかつての……昔の自分には決して戻れないのと同じように」

 

 古びた手甲や古びた木刀、経年劣化を経た木の盾に木で出来た模造の鎌……部屋に置かれた様々な物に、若葉が愛おしげに触れる。

 模造品の武器が置いてあるのは、かつての戦友の遺品だろうか。

 

 時間は過去には戻らない。それが原則だ。

 人間は過去を変えることなどできやしない。

 過去に誰かと触れ合って得た成長はなかったことにならず、過去に友と重ねた思い出はいつも胸の奥にあり、過去に死んだ者を生き返らせることは出来ない。

 

 だから若葉は、今を生きて、今大事な人を守ることが最も大事であると考えている。

 それを見失い、今を見られなくなった者が、必ず皆不幸になることを知っている。

 

 若い頃の若葉は過去ばかりを見ていた。

 過去に殺された人間の復讐のことだけを考えていた。

 その時若葉を導いてくれたのは、高嶋友奈を初めとする若葉の大切な友だった。

 今のリュウは未来ばかり欲しがっている。

 未来に殺される友奈を守ることだけを考えている。

 彼を導いてくれる友は、赤嶺友奈は、彼の敵に回っている。

 

「あれ、なんだこれ……初めて見ンな」

 

 リュウは若葉が部屋に置いていたものの一つを手にとった。

 それはかなり大きな、こけしのような人形だった。

 開いてみると、その中に少し小さくて少し表情の違う人形が入っていた。

 その中にも、少し小さくて少し表情の違う人形がある。

 開いて中身を出せば出すほど、新しい人形が次々ぽんぽんその姿を現して来る。

 

「マトリョーシカだな。ロシアの民芸品だ。それも私の仲間の遺物の一つだ」

 

 ロシアから来た避難民でもいたのか? とリュウは思う。

 

「へぇこれがあの……今となっては超貴重品じゃないンすかこれ」

 

「そうだな。いずれは人類の誰もが、マトリョーシカなんて忘れてしまうだろう」

 

「面白いのに誰も作れないなンてもったいねー……」

 

 リュウはちょっと楽しそうに、人形の中の人形を取り出していく。

 新しい人形が出る度に少しずつ人形の表情が変わって、それを何気なく楽しんでいるリュウを若葉が見ていて、ただそれだけで、彼女も楽しそうだった。

 

「まるでお前だな。いくつもの顔を持っている」

 

「?」

 

「初めて会った時は悲しみに満ちた顔。

 庭で見た時は改めて見つめた絶望の顔。

 料理を食べて喜べば年相応。

 さっきまでは私を親しみの目で見ていた。

 そして今は、私の話を真面目に聞いて、誠実に自分の中で受け止めている」

 

「あァ、なーるほど」

 

 リュウは自虐的に、乾いた笑いを浮かべる。

 

「どうせ中身は空っぽなンだよなァ。オレみたいにさ。こういうのはそういうのが相場だ」

 

 そうして、マトリョーシカの中心の、最後の一つを開けて。

 中からからんからんと音がしていなかったから、空っぽだと思っていたリュウは、最後の一つの中から写真が転がり出てきたことに驚いた。

 

「え」

 

「空っぽな人間など居ない。

 私にも、お前にも、あるものがある。

 それは思い出だ。

 大切な人との記憶だ。

 それが私達を、どんな苦境の中でも戦わせてくれる」

 

 それは、一枚の写真だった。

 経年劣化しないように表面加工がされていて、それがマトリョーシカの幾重にも重なる人形の壁に守られて、色褪せずそこに収められていた。

 中心に居るのは少女達。

 六人の、笑顔の少女達。

 その周りに大人の男や年頃の少年などが居て、皆笑顔で写真に写っている。

 写っているのはおそらく三十人に届かない程度で、服装を見る限り、食堂で食事を作る料理人や大赦の男達など、様々な者達が集合写真に入って来ていることが窺えた。

 

 皆笑っていた。

 皆楽しそうだった。

 皆仲が良さそうだった。

 "この時は誰もが勝利を疑っていなかったんだな"と―――リュウは、眉をひそめる。

 

「こいつァもしかして」

 

「ああ。仲間達との集合写真だ。確か、誰かの誕生日を祝い、勝利を誓った日の写真だ」

 

 リュウがその写真の中で真っ先に目を惹かれたのは、写真の中心。

 写っている人達の中心は六人の少女達で、その少女達の中心に、『皆の中心』と言える二人の少女が居る。

 その片方が、赤嶺友奈に瓜二つの姿をしていたから、リュウの目は真っ先にそこにいった。

 

「……友奈? いや、これは」

 

「高嶋友奈だ。その隣が私だな。友奈の左が郡千景で、私の右が上里ひなただ」

 

「えっ……若葉さん美人系の美少女だったンすね」

 

「若い時はな。もうすっかりしわくちゃのお婆ちゃんだ、ふふっ」

 

「若くない若葉ッすね」

 

「ぷっ」

 

「あ、こういうの好きなンすか?」

 

「いや、今のは不意打ちだったから笑ってしまっただけだ。次は笑わん」

 

「そこ張り合うンすか……」

 

 この人が友奈のオリジナル、と、リュウは不思議な気分になる。

 写真の中の高嶋友奈を見れば見るほど、不思議な気分になった。

 その周りの人達を見ているだけでも、不思議な気分になった。

 そして次に目が行ったのが、若葉と友奈の後ろに居て、二人の肩に手を置いている男。

 青年と少年の中間に見えるその男は、鷲尾リュウと似た顔をしていた。

 

「……これが」

 

「そうだな。おそらくそいつが、お前の中の因子の元の人間だ」

 

「オレより顔が良いの腹立つなこいつ……クソが」

 

「そこ張り合うのか……」

 

 その写真は、光だった。

 何も知らないリュウが見ても、光だった。

 皆幸福そうで、楽しそうだった。

 敗北なんてなんとも思っていなくて、勝利だけを信じていた。

 この写真に写っている全ての人間が、揺るぎなく未来の希望を信じていた。

 

 けれども。

 もう、若葉を除いて、全員が死んでいる。

 彼らの戦いは敗北に終わり、この写真には悲しみが付随してしまった。

 

 この写真を撮った時は、希望しかなかったはずだ。

 そのはずだ。

 けれど、戦いの結末がこの写真に余計なものを付けてしまった。

 おそらくは、この写真を見ているだけでも若葉は辛い気持ちになってしまうのだろう。

 だから、マトリョーシカの中に封印した。

 そうでなければ、若葉が簡単には見られないところにこの写真を封印した理由がない。

 

「そういえば、この写真に写っている男共で、私を美少女と言ったのは一人だけだったか」

 

「え、マジですか。ホモばっかだったのか……その人が将来の旦那とか?」

 

「流石に私でも戦死した人間と結婚はできんよ」

 

「……すンません」

 

「気にするな。そんな昔のことで傷付く婆など、どこにもおるまい」

 

 若葉は笑う。

 自然な笑いではない。

 無理して浮かべた笑いでもない。

 慣れた笑みだった。

 悲しみを隠すことに慣れた笑みだった。

 悲しい思いをした時に浮かべ慣れた笑みだった。

 その笑みは、ごく自然に若葉の悲しみの上に乗せられている。

 

「辛かったが、苦しかったが、楽しかった。

 絶望と喪失に満ちていたが、得たものもあった。

 楽しいと思える時間、好ましく思えた仲間、得たものを失っていくような過程だった」

 

 若葉は写真を手に取り眺めている。

 昨日まではあまり目にしたくもなかった。

 けれども今日は、写真を見て思い出に耽り、その時の気持ちを語る気になっていた。

 悲しみだけではなく、喜びもあったことを思い出しながら、若葉は気持ちを口にする。

 それはきっと、彼が隣に居るから。

 

「あの日の敗戦からずっと、私の人生は終わらない夜で……

 負け続け、喪失し続ける日々に入るまでの私の人生は、光に包まれていた。

 ああ、今更になって語るのは恥ずかしいことだが。

 きっとあの日負けてしまうまで、私は仲間と一緒に世界を救えると、夢見ていたんだな」

 

 それは、叶わなかった夢。

 バッドエンドの過去の思い出。

 希望が尽きた日の前のことと、後のこと。

 

「幼馴染のひなたが居なければ、私は自暴自棄になって何をしていたかも分からない」

 

 希望が尽きて、一人ぼっちになった者は、何をするか分からない。

 

 鷲尾リュウにも、かつての乃木若葉にも、希望が尽きた瞬間があった。

 だから今、リュウにはかつての若葉の気持ちが少し分かるし、若葉にも今のリュウの気持ちが少しは分かる。

 "ここからどうすればいい?"

 そう考えても、答えは出ない時間が続く。

 それが希望が無いということだ。

 けれども何もしないなら、希望が尽きたその瞬間から、『次』には繋げられない。

 

「皆が私の光であり、私を照らしてくれていたのだと気付いたのは、全て失ってからだった」

 

 乃木若葉は、希望が尽きたその瞬間から、『次』に繋げた偉大な勇者だ。

 

 そういう意味では、この世の他の誰よりも―――今のリュウを導くに相応しい。

 

 若葉は写真を胸に抱き、目を閉じ、かつて仲間達と過ごした日々を想う。

 今は、リュウを見ていると思い出す、一人の男を想う。

 

「お前はお前で。

 この男はこの男だ。

 同じになることはないだろう。

 ただ、私にとって、この男は光だった……そう、思う」

 

 リュウの服の内側で、闇を孕むダークリングが、鈍く煌めいた。

 

「この男にとっては、私が光だったらしいがな。

 まったく、見る目のない男だ。

 私の何を見てそう言ったのか今になっても分からん。

 それなら友奈の方がよっぽど光だっただろうし、そんなだから千景も……いや、どうか」

 

 案外何も考えずに言ったのかもしれんな、と、言いかけたところで、若葉は口ごもる。

 

「お前には分からない話を続けてしまった。礼を欠いたな」

 

「いえ、なンとなくッすけどニュアンスは分かったンで」

 

「思わず老婆の口をついて出た未練など、聞くに耐えん醜悪だ。反省せねば」

 

 こほん、と咳払いをして気を引き締める若葉。

 乃木若葉は己を恥じる。

 リュウに聞かれた時は答えなかったのに、話している内にどんどん口を滑らせてしまい、リュウが分からないような内輪の話までしてしまうところであった。

 それは彼女の理性が昔の話に意味はないと"正しく"判断しており、彼女の感情がついつい過去の思い出話をするという"間違い"を犯してしまっているからだろう。

 

 若葉が思い出話をすると、リュウには何も分からない。

 分からないのだが、胸の奥に何かが微かに響くのだ。

 若葉が話している人間のことが分からなくても、若葉から滲む感情があるからだろうか。

 

 今の話題には、特にそれを感じる。

 言葉の節々から感じられる熱。

 理性で制御しきれていない感情。

 軽くバカにしているようで、確かな好意を感じる語り口。

 リュウは軽い口調で、ほんの軽い気持ちで、本気の欠片もない冗談を口にした。

 

「オレのオリジナルと付き合ってたりとかしてたンすか?」

 

「そんなわけがあるか」

 

 そして、すぐに後悔する。

 返答の語調が一気に変わった。言葉の重みが一瞬で変わった。

 どこか優しげだった若葉の言葉が、強い語調の断言になったことに、リュウは若葉の中の譲れない何かに触れてしまったことを感じ取っていた。

 

「全く。最近の若い者は大事な人への想いを語ればすぐこれだ」

 

「あ、ごめンなさい」

 

「構わん。若い頃は惚れた腫れたの話が好きなものだ。私にも覚えがある」

 

 若葉の語調は一瞬で戻った。

 だが今の一瞬、若葉が見せた一面をリュウは忘れない。

 若葉がその後にどんな言葉を続けても、リュウには下手なごまかしにしか聞こえなかった。

 

「私とこの男の間にはそういう感情は一切なく、信頼できる親友として……」

 

 不器用な人だと、リュウは思う。

 

「……いや、どうだろうな」

 

 嘘をつききれない人なんだと、リュウは思う。

 

「あの男に伝えたかったことや、告白しておきたかったことがあった気がする」

 

 ぽつり、ぽつりと、リュウが知らない思い出話ではなく、今ここに居る乃木若葉の胸の中の想いが、細々とした言葉として漏れ出して来る。

 

「だが、大切な想いは生きている内に伝えなければ、初めから無かったのと同じだ」

 

 想いは、告げる側と、告げられる側によって成立する。

 想いを伝える前に片方が死ねば、それは永遠に成立しない。

 初めから無かったのと同じ、虚無に成り果ててしまう。

 

 乃木若葉はそうなった。

 鷲尾リュウと赤嶺友奈は、そうなるかもしれないが、まだそうなってはいない。

 過去は過ぎ去った動かない事実。

 未来は未だ来ていない明日だ。

 

「もう七十年以上が経った。

 結婚もした。

 子も作った。

 孫も残した。

 世界を守り戦う子孫は残した。

 やるべきことを全て果たそうとしたら、七十年かけてもまだ終わらなかった」

 

 何故、そんなことをそんな表情で言えるのか、鷲尾リュウには分からなかった。

 

「……口にしたかった想いなど、もう忘れてしまったよ」

 

 何故胸の奥が締め付けられるような気持ちになるのか、リュウ自身にも分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 友奈は静を気遣って口を開かなかった。

 静は友奈を気遣って口を開かなかった。

 そんな沈黙が数分続いて、けれど沈黙に耐えられなくて、友奈と静は口を開く。

 差し込む朝日が目に痛かった。

 

「……帰って来なかったね」

 

「……せやな」

 

 弥勒蓮華は昨日彼女らの下に帰って来るはずだった。

 だが家を爆破し連行され、途中で逃げ出し乃木若葉に連絡するも更に捕まり、弥勒蓮華は大赦の独房にぶち込まれてしまっていた。

 帰る目処は立っていない。

 蓮華は友奈や静に何を話すか分からず、明確に鷲尾リュウの味方もしていた上、リュウが封印を解いた状態なら神の力も使える一級の危険人物である。

 大赦としてはこのままの流れでリュウが友奈に殺されるのが一番で、その後情報操作で事態を軟着陸させるのが最も世界のためになるのだから、妥当な采配だろう。

 

 大赦は弥勒蓮華の体に精密検査で怪しいところが見つかったため、念の為別の病院で長期検査を行うという連絡をしていた。

 友奈は蓮華を心配した。

 静は真に受けた反応をしつつ、怪しんだ。

 友奈は根幹が他人を信じたい子で、他人を心配する子だったから。

 静は今日まで、友奈が探しているのに街で顔を隠してうろついているリュウ、蓮華の反応、違和感のある戦いの流れなど、疑う理由を心の中に積み上げていたから。

 

 嘘くさいと静は考えていた。

 何故なら、蓮華が自分の声で連絡してこなかったからだ。

 弥勒蓮華は義理堅い。

 「帰れなかった不義理を詫びるわ」とわざわざ連絡してきて、「そんなことでわざわざ連絡してきたんか、まー健康第一にな?」と静に笑われる方がそれらしい。

 帰ると言って帰れなかった不義理を気にするのが弥勒蓮華である。

 

 友奈は心配の方が先行しているため気付いていない。

 他人の心の機微に敏感で、恋愛的な話には鈍感で、他人が抱いている悪意にも鈍感なのが赤嶺友奈である。

 だからこういうところに気を付けるのは自分の役目だと、静はちょっと思っていた。

 

「お祝いは、また今度かな」

 

 友奈は冷えた料理にラップをかけ、冷蔵庫にしまっていく。

 蓮華が戻って来たことを祝うために作られた豪勢な料理があった。

 蓮華が帰って来たら、三人で楽しくお祝いをしようと思っていた。

 楽しい時間になるはずだった。

 暖かな時間になるはずだった。

 けれど、蓮華が帰って来なかったから、できなかった。

 

 静は「食べちゃってまた作ればいいやん」と言っていた。

 友奈は「レンちが帰って来るまで待つよ」と言っていた。

 何時間も待って、大赦が連絡して、帰って来ないことが分かって、蓮華を待ちたいという気持ちと、すぐには帰って来ないという理性が釣り合ったまま、二人は傍に居た。

 寂しさと、心配と、不安と、隣に居てくれる友達への感謝があった。

 そして、朝が来た。

 

 友奈は気丈に笑っているが、静にはその裏にある心配が分かる。

 静は、この戦いに最初から何か違和感を覚えていた。

 その正体が何か分からないままこのまま流されていていいのか、とも考えていた。

 弥勒蓮華の未帰還が、彼女の背中を押していた。

 

「ちょっと用事思い出したんで出かけてくるわ。遅くなるかもしれんけど、気にせんといて」

 

「あ、はい。いってらっしゃーい」

 

 リュウは、静の前でこう言った。

 

―――何もしてないと気が変になりそうだった

 

 静はその時、その言葉に共感した。

 そして今、その言葉を聞いた時よりもずっと、強く共感していた。

 まず探すべきは弥勒蓮華。見つかるなら鷲尾リュウも。

 探して見つけて、その後どうするかまでは思いつかないが、見つけられなければ友奈のこのごまかしの笑顔はなくならないと……そう、思ったのだ。

 

 この何もかもが不透明な状況で、友奈の大切な人を探しに行くのは危険があるかもしれない。

 暗闇の中に何があるか分からないまま踏み出すようなものだ。

 けれども、静は行く。

 それが友情であると、桐生静は思っているから。

 

「大丈夫やて。きっと、何もかんも大丈夫や」

 

 友奈の髪を撫で、くちゃくしゃにかき混ぜる。

 

 撫でた手を振って、静は街に出掛けて行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 若葉はリュウを布団に寝かせていた。

 有無を言わせず、眠気がなくてもとりあえず寝かせて、体力の回復に務めさせる。

 若葉が有無を言わせない強情さを見せると、リュウはなんとなく逆らえなかった。

 初代勇者の貫禄、恐るべし。

 祖母がバーテックスを見て精神を壊してしまったせいで、リュウの誕生の前には死んでしまっていたため、こういう老女の扱いにリュウはいまいち慣れていなかった。

 

「あンの、布団に血が付いて汚れるンじゃ……」

 

「洗えばいい。多少のシミなら気にせん」

 

「ッてか、この布団かなり高いんじゃ……」

 

「お前の体調の値段よりは安いだろう」

 

 なんだこいつ一々かっこいいな、とリュウは思い、心中で「なんだこの御方一々凄くかっこいいな」と言い直した。

 不敬不敬、と自分をこっそり戒める。

 

「体を動かすと治りかけの部分が壊れかねん。

 この先何をするにしても、その時体が動かなければ終わりだ。

 体は人生の最初から最後まで自分を支えてくれる宝であることを忘れるな」

 

「はいッす」

 

 リュウは布団に寝かされ、無言の時間が始まった。

 リュウは大人しく寝ていて、その隣で若葉が無言で花瓶に花を刺している。

 無言だったが、無音ではなかった。

 無言だったが、不快ではなかった。

 静かな時間が流れていくこの空気を、リュウも若葉も心地良く感じている。

 

 一時間ほど経った頃、リュウは頭に浮かんだ言葉を、そのまま口に出した。

 

「人道的な非人道、って言うンすかね、あれ」

 

「大赦か」

 

「はい」

 

「そうだな……そういう表現も、また正しい」

 

「少数を犠牲にして多数を生かす、理屈では分かるンすよ」

 

 リュウの語り口が、理性は納得していたが感情は納得していないものであることに、若葉はちゃんと気付いている。

 

「その人らがそれやらなきゃ終わるッてンのも。

 オレらが理想の代案出せてねェッてのも。

 お前らは間違ってンぞと言うだけなら楽なのも、分かってンすけどね……

 正直、友奈の代わりに専用の人間作って戦わせるってなッたら、オレも賛成しますし。

 でもきっとそうなったら、友奈の代わりの戦士は、オレ恨んだりもすンだろうな……」

 

「私も根本的には同類だ」

 

「へ?」

 

「西暦の最後、奉火祭というものがあった。

 何の罪もない、汚れなき無垢な少女の巫女を何人も生贄に捧げた。

 それで天の神に許しを請うたんだ。

 私は結局、それに何の文句も言わなかった。受け入れた。私も同じようなものだな」

 

「え、いや、それは違うンじゃないすか。

 少なくともオレはそのおかげで今も生きてられンだから、感謝してるし、間違いでは……」

 

「それは、死んだ者もそう思っているのだろうか」

 

「―――」

 

「そういうことだ。生き残った者は感謝し、犠牲になった者は恨むのだ」

 

 若葉が語るのは、道理である。

 そんな道理が通る世界を否定する響きがどこかに見える、そんな語り口であった。

 

「生贄にされた者は

 『ふざけるな』

 と言う。

 生き残った者達は

 『あなたが苦渋の決断をしてくれたおかげで助かりました』

 と言う。……戦いが終わった頃に、感謝を皆に言われる日々が、苦痛だった」

 

「……」

 

「罵声の方がまだ気分は楽だったな」

 

 何もかも奪われた屈辱の敗戦と。

 とりあえず停戦でも戦いを終わらせた感謝と。

 世界を取り戻せなかった無能な勇者への罵倒と。

 自分を責める乃木若葉。

 そんな終わりがあった。

 

「……全て私が背負って終われたら楽なのにな、と何度も思ったよ」

 

「分かります。オレだって、そういうこと何度思ったことか」

 

「困ったな。私が全て背負うなら良いが、お前が全て背負うとなると寝覚めが悪い」

 

「なんじゃそりゃ」

 

 両者共に、溜め込んでいた苦悩を吐き出して、答えの出ない重い話題を広げて、けれど気持ちが同じであることがなんだかおかしくて、二人は冗談めかして笑う。

 

「バトンを繋いだつもりだった。

 勇気のバトンを。

 希望のバトンを。

 だが、お前と赤嶺友奈を見ていると思う。私は……

 ゴールに向けて血みどろのまま走らせる、生贄のバトンを渡してしまったんじゃないか、と」

 

「……いや、若葉さんが後に繋いだのは、希望と未来と勇気だけなンじゃないすかね」

 

「そうか? お前がそう思っているという気持ちだけは、受け取っておこう」

 

 リュウはふと、あの時叩きつけられた言葉を思い出す。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「せいぜい良い気になっているがいい。

 お前も私達と同じだ。

 世界を壊す気が無いなら……

 世界の仕組みは変わらない。

 ただ"先と後がある"だけだ。我々が先で、お前達が後」

 

「『社会に要らないものを消す』。

 そのやり方を当然のものとして続けるなら……

 お前達もいずれ、我々と同じ場所に立つことになるだろう」

 

「因果応報だ。必ず、必ずそうなる。絶対にな」

 

「先に地獄で待ってるぞ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 バトンが放置されることはない。

 バトンは人から人へと渡され続け、受け取った者は苦しみながら血みどろになって走り、死というゴールで次の人へと渡される。

 勇者から後世の勇者へと、受け継がれる勇気のバトンではない、生贄のバトン。

 世界を救うために常に続けられる生贄のリレー。

 

 それは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンであると言えた。

 

「……」

 

 少し、会話が止まる。

 

 会話が途切れて、無言の時間が過ぎる。

 

 無言が続くが無音ではない時間の中、風が木を揺らす音が途絶えた瞬間、若葉が口を開いた。

 

「お前に、反面教師にするべき男のことと、ある女の遺言を伝える」

 

「?」

 

「ある男が居た。

 不器用だった。

 不器用過ぎた。

 周りの人を大切に思い過ぎた。

 民衆を大切にし過ぎた。

 誰よりも強く在り続ける男だった。

 皆を怪物から守り、疲労と負傷を過剰に溜め込み……

 ある日の戦いの後。

 幼い頃から付き合いのあった女を庇って、民衆に暴行され、死んだ」

 

「! それは……」

 

「不安と恐怖にかられすぎた民衆の暴走、というやつだ。

 ……強い男だったよ。

 疲労がなければ、傷がなければ、守るものがなければ、相手が民衆でなければ、きっと……」

 

 風がまた吹き始め、木々が揺れる。

 

「英雄は、人々のためにあるのだろうか。

 人々の何かを損なえば、人々に否定されれば、生きてはいけないのだろうか。

 民衆の期待に応えられなければ、希望を守れなければ、死ぬべきなのだろうか。

 そんなことはないと私は思う。

 少なくとも、私は……

 世界の全てを敵に回してでも、抵抗して欲しかった……いや、抵抗して良かったと思う」

 

「……」

 

 言い直す前の言葉と、言い直した後の言葉に、乃木若葉の倫理と、祈りがあった。

 目には見えなくとも、言葉で明言せずとも、そこにはあった。

 

「上里ひなたという女が居た。

 私の幼馴染でな。

 前線には出ていなかったから、終末戦争も生き残っていた。

 彼女が支えてくれなければ、私もどこかで折れていただろう。

 ……だが、無理をする女だった。

 先程話した男が殺された時も、墓前で一人で泣いていたよ。

 私の前では決して泣かなかった。

 その時思ったことも、きっと誰にも言わなかった。

 だが、死の直前……安らかに眠るように死ぬ前に、その時の気持ちを口にして逝った」

 

「……その人は、なんて?」

 

「『貴方はもっと自分勝手でよかった』……だそうだ」

 

「―――」

 

 リンチされて死んだ男と。

 その男に対し思ったことを、朦朧とする死の直前まで黙っていた女と。

 そのどちらとも仲が良かった乃木若葉がいた。

 もう、若葉しかこの世には生き残っていない。

 

「歳を取ると、世界の流れを見ていると、思うこともある」

 

「……何を?」

 

「命を捧げて世界を守った人間には、その世界を滅ぼす権利もあるのかもしれない、とな」

 

「……!」

 

「ああ、世界の滅びを願っているわけじゃない。

 皆が守った世界だ。

 これで最後に残った世界が滅びてしまえば、何もかもが無になってしまう。

 皆が生きたことも。

 皆が戦ったことも。

 皆が死んだことも。

 だから私は、世界の存続と、かつての世界を取り戻すことを願っている。だけどな」

 

「だけど……?」

 

「死んでいった私の仲間達には。

 人々のせいで犠牲になった者には。

 今の世界の滅びを選ぶ権利がある……とも、思ってしまうんだ。歳のせいかもしれない」

 

 若葉は布団に横になったままのリュウに、マトリョーシカの写真を渡す。

 

 受け取ったリュウは、貰った写真を重く感じた。

 

 ただの写真なのに、とても、とても重く感じた。

 

「私はお前の選択を受け入れるだろう。

 もう今の私にはお前を止める力はない。

 止める気も、止める権利もない。

 ―――願わくば。今度はお前が、己と大切な人の幸福を掴めることを願う」

 

 写真を持つ手が震えた。

 

 世界を救った勇者ですら、リュウを間違っていると断じない。

 

 世界の平和と存続を願う者ですら、リュウの選択を受け入れてくれる。

 

 "何が正しいのかなんて誰も教えてはくれない"という現実は、何をどうして何を選べば良いのかも分からなくなっている今のリュウには、とても重かった。

 

 

 




 若葉が語らなかった感情を、鷲尾リュウが知ることはありません

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