始まりの天使 -Dear sweet reminiscence- 作:寝る練る錬るね
A.崩壊しているので異聞帯も何もありませんが、限りなく異聞帯に近い並行世界です。人理が掻き消えているので特に伏線とかはありません。
クタ市は、一夜にして崩壊した呪われた街とされている。
ウルク王政は、一枚岩ではない。政治に関することはおおよそすべて王権によって行われているが、その他に祭祀場、巫女場が権力を持ち、三権分立が成り立っている。……まぁ、その二つが中々頑固であったため、昔の
とにかく、それなりに権力を有する二つのうち一つ、巫女場は、王令よりも都市神。イシュタルを優先することが多い。
信心深いことは結構なことだが、その信仰が暴走したのか。或いは一部の権力者が身に迫る危険に狂ったのか。巫女達は魔獣戦線形成前、本拠地を置いていたクタにて神降しの儀式を行った。
それが成功したのか、失敗したのかは判らない。だが結果的に、イシュタル神はバビロニアに現界し、代償としてなのか、クタ市からの交信の一切が途絶えた。
そして後日。クタへと向かった調査隊が見たのは、外傷や争った痕跡、どころか苦しんだ様子すらない死体が大量に転がった、変わり果てたクタ市の姿だった。
それから暫くして、
───という憶測は、ウルク市民の間では有名な話である。
以来、クタは呪われた街として誰も寄り付かなく………といっても、このご時世にわざわざ街の外に出る人間の方がよほど珍しいが……なってしまった。
だから。……だからだろうか。話を聞いた牧場主は、立香たちが少し心配だった。心配で、印象深かったから………彼に尋ねられた時に、いらぬことまで答えてしまった。外に行ったとでも言えばよかったのに。わざわざ市の名前を答えた。答えて、しまった。
「……親、様………?」
「それで……えっと、なんの御用かな。お客様」
アンバランスの中の芸術品。その表現が、一番だろうか。儚くか細いのに、その目や身体からは強者故の芯の強さを感じる。柔らかい物腰であるのに、こちらをじっと観察している様子からは一切の隙を感じることができない。
彼を構成する全てのものに対の概念があり、その相反する二つのものを無理矢理混ぜ合わせたような。それでいてきちんと存在として成り立っていて。でも、
「……あの?……え〜っと?お客様〜?」
こちらを覗き込む紅い目と銀……いや、白金の髪。周囲が暗くても見事に輝くその絹のようなプラチナブロンドは、一生に一度でいいから触れてみたくなるほどに美しい。血のようなワインレッドの瞳も、好奇心と困惑、そして立香自身を映して吸い込まれるような妖しさを伴っていて。………困惑?
「……お客様ぁ……?……む、無視………?」
「……え?あ、あぁ!ごめん!」
かなり寂しそうな声をあげられて、ようやく意識が現実へと戻ってくる。よくよく考えてみれば、名前すら知らない初対面の相手をジロジロと観察するなど、完全なマナー違反だ。慌てて頭を下げて謝罪する。
「どうしたの?体、どこか悪いの?」
「…いや、その………お恥ずかしながら、見惚れてて……」
少しだけ照れながら、顔を逸らす。男相手に何を、と思う。気持ち悪がられても仕方がないとも。だが、反応は全くの別物だった。
「…………ふぅん。変なお客様。冥界で美しいものなんて、メスラムタエアと
心底不思議そうに首を傾げる少年。メスラムタエア、あの方と、知らない単語が色々と出てくるが、それ以上に聞き捨てならない言葉。
「め、冥界!?ここが!?」
改めて、周囲を見渡してみる。確かに、冥界っぽく暗くはある。光らしきものは地面にしかないし、街のように整備された感じも失われているが。でも、想像していたものの数倍は静かで、数十倍は厳かな場所だ。
想像していたよりも暑くないし、想像したよりも赤くもない。イメージでは血の池や針山だとかの物騒なものが並んでいたが。ただただ何もなく、無限のような静寂が満ちている。
「……あれ?知らずに来ちゃったの?そうだよ、お客様。此処は冥界。地の底に眠る死と腐敗の世界。喪われた命たちが集う場所。ちょっと遅れたけど、改めて。いらっしゃいまし、お客様」
「お客様って……えっと、俺は藤丸立香。こっちの子は、フォウ君って言うんだけど……」
「フォ!フォウ!」
「あぁ、そうなんだ!よろしくね、藤丸。でも、ごめん。冥界で生者に名前を語ることは、あまりいいことじゃない
少年は、少しだけ申し訳なさそうに顔を伏せて、そういった。気にすることないよ、と返答すると、少しだけ嬉しそうに微笑む。そして次は、立香の肩のフォウ君へと顔を近づけた。
「……フォウ君……?でもこれ、どう見てもアルトルージュのま……」
「フォッ!」
「ぷぺっ」
何かを言おうとした彼の顔面に、眼前にいたフォウの肉球が突き刺さる。彼の口をちょうど塞ぐような形で炸裂したその一撃は、あまりにもタイミングが良すぎたのか。少年はそのまま地面に尻餅をついて倒れ込む。
「わわわ、ごめん!」
「いったた………いや、いいよいいよ」
突然のことに反応できず、慌てて手を差し伸べる。だが、少年は首を振って自力で手をついて立ち上がろうとして。ふと、体の動きを止めた。
「………アルトルージュって……何?……僕、今、何を言おうとしたんだっけ……?」
首を傾げながら、考え込み始める。どうにも、何かが噛み合っていないような。そんな印象だ。
「えっと?」
「……あぁ!ごめんごめん!何でもない!何でも、ないんだ…………」
再び、語尾を陰らせて何かを考え始める少年。その様子からは、少なくとも何でもないなんて雰囲気は微塵も感じられない。大切な事を考え込んでいる顔つきだった。
だが、数秒してブンブンと首を振った彼は、そこから何事も無かったかのような平然とした顔に戻った。
「……大丈夫。ごめんね。それで、藤丸立香。君は、何をしに冥界に来たの?見たところ、武器らしきものも持ってないみたいだけど」
「何をって……俺、クタの街にいたはずなんだけど……よくわからないうちに、こんなところまで来ちゃって。冥界っていうのも、よくわからないんだ」
「……クタ?……なぁんだ。てっきり、神殺しの類の人が冥界下りにやってきたのかとばっかり」
「神殺し?」
「うん。昔はいたみたいだよ。藤丸みたいに生きた人が突然、なんてのは聞いたことないけど、名誉か何かを目的に冥界に乗り込んできた、神を殺せるだけの頭の悪い人。もしくは恥知らずにも神様そのものとか。神の癖して浅はかだよね〜」
「……ははは」
……お客様と呼んでいたり、動作になにかと気品を感じるから礼儀正しいのかと思いきや、存外お口は悪いようだった。もしくは神に何かしらの怨みでもあるのだろうか。こういうところは、少しだけマーリンと似ている。とりあえず困った時用の乾いた笑いで返しておく。
そんな風に何気ない会話をしていると。ようやく現状に頭が追いついてきて、現実感が持て始める。そうなると、気になることがいくつか。その最もなものを、おずおずと尋ねてみる。
「……ところで………俺って、ホントに生きてるかな?実は記憶がなくて死んでる……とか、ない?」
物語なんかではよくある話だ。死んだ人間が死んだことを忘れていて、おかしなところで冒険していたら実はそこは死後の世界だった。なんてこと。もしかしたら自分も同じ現象に陥っているのではないか。なんて。
杞憂であって欲しかったが、言われてみれば確かに冥界に入る前の記憶は曖昧だったような気がしないでもない。自分の足もしっかりついているが、それでも怖いものは怖い。
だが。
「……面白いこと言うね。それが、何?」
眼前の少年は、その言葉を否定してくれなかった。少し怪しく微笑んで、まるで何か含むところがあるかのように、立香から目を逸らしてクスクスと笑う。
まさか。本当に死んで───
「……なんちゃって。大丈夫大丈夫!藤丸はしっかり生きてるって
──そんなことはなかったらしい。どうやら見た目相応の悪戯だったらしく、先程の怪しい雰囲気は霧散し、ちょっとおかしそうに笑っていた。お茶目がすぎるのではないだろうか。
「……ほ、ホントに死んでたのかと思った!?」
「ふふ、ごめんごめん。これはほら。
「そんな物騒な礼儀はこの世に存在しません……というか、よく知ってるね、そんなこと」
「……ん。ホントだ。僕、なんでこんなくだらないこと知ってるんだろ……そんなネジが吹っ飛んだ本読んだことないし……」
「あ、くだらない自覚はあるんだね……」
今度は悩みこむことはせず、まいっか、と自己完結したらしい少年。たしかに、考えれば千日手のようになりそうではある。知識というものは、自分の知らないところで身についていることも多いものだ。
「……というか、わかるって?見分ける方法でもあるの?」
ふと、先の発言で気になったことを口に出す。わかる……ということは、何かしらの見分ける手段があると言うこと。目の前の彼は出会った当初から立香を生者と認識していた。つまり、一目でわかるような何かがあったということだが……。
「見分けるって……そんな大層なことじゃないんだ。ただ──」
無邪気に。あくまで、常識を伝えるかのように。彼は、矛盾に矛盾を重ねたかのようなことを言う。
「冥界じゃ、
最初は、その矛盾に気がつかなかった。ただ、へぇ、ぐらいの。ちょっとだけ見聞が広まったなぁ、ぐらいのつもりだった。
だが、その理論に則るとしたら。その理論から最も外れた存在が、ほんの目の前にいることに気がつかされる。
「ちょっと待って!それなら君は何なの?死者じゃないなら……もしかして、サーヴァント、なのか?」
そうだ。その理論に則れば、目の前の少年が存在すること自体があり得ない。もし彼の言葉通りとするならば、死者である彼は言葉も交わせず、目の前の姿さえ保っていられないことになる。だが、そんな様子はない。普通に喋っているし、容姿が崩れている、もしくは身体がだんだんと薄くなっている、なんてこともない。
では。彼は。冥界に顕現した、聖杯に呼び寄せられたサーヴァントということに………
「
ならなかった。手でバッテンのマークを作って、頬を膨らませた彼からハズレの効果音鳴らされる。立香の見当違いだったのだろうか。と肩を落とした。だがフォローのつもりなのか、少しだけ偉ぶったような口調で少年が言う。
「……まぁ、召使いって意味のサーヴァントなら、ちょっとだけあってるけどね。僕はホントに単なる死者だよ。それに、サーヴァントみたいな強い魂をもっていたら、冥界でも形だけはそのまま、なんてこともあるみたいだし。
「ははっ!ありがたき幸せ…………じゃなく。なら、何で君はこうやって喋れるの?」
サーヴァントでもなく、本当にただの死者なら。彼が先言った通り、言葉を喋るどころか姿を保つことだってできないはずだ。
少年は、少し言葉に困った風で、顎に手を当てながら細かく補足を加えていく。
「えっと。そもそも、冥界には知的生命体の魂が入ってくるんだ。そのうち冥界にいなきゃいけないのは神様と人間。
「へぇ、魂なんでもかんでもってわけじゃないんだね」
「当たり前だよ。虫の魂まで来ちゃったら、数日で冥界がパンクしちゃうもん」
……たしかに、それはそうだ。一寸の虫にも五分の魂ともいうが、そうなれば冥界は駆け込み寺が如くひっきりなしに魂がやってくることになってしまう。カルデアもびっくりの過労体制の完成だ。
「それで魂の質から、冥界の居場所を決める。神様みたいな凄い魂を適当なところに入れちゃうと、冥界から脱出されて死の概念がなくなっちゃうからね」
これの作業がまた大変でさぁ、と話が逸れかけ、それを指摘すると、少年は慌てて軌道修正を行う。先ほど召使いと自称していたが、言葉通り、彼もなかなかに苦労しているようだった。
「でも、僕はちょっと特殊でさ。死ぬ前の記憶が一切なかったんだ。それで仕分けのとき魂の扱いに困った冥界の偉い神様が、特別措置として身体を与えて、僕をたった一人の召使いにしてくれたってわけ」
というのは、僕も覚えてなくて、その方に聞いただけの話なんだけどね。と付け足して。少年は言いながら感動したのか、噛み締めるようにうんうんと何度か頷いた。
(───雑ぅっ)
簡潔に感想を述べるのであればそれ。雑っ。語り手の腕もあるだろうし、簡略化された神話なんてものが大体そんなものなのかもしれないが、いやいやいや。子供に聞かせる昔話じゃないんだから。
付け足された最後の一文が致命的なまでに前の言葉の説得力を無くしている。他人から聞いた、それもその原因の神様から聞いただけの話。疑わしいにもほどがある。しかもたった一人だけとか。死んだショックで記憶喪失になる人がそんなにいるわけではないだろうが、少なからずいはするだろうに。素人の立香が考えただけでも、これだけの矛盾点が見つかる。
もちろん、彼が嘘をついているだなんて思ってはいない。むしろ立香が疑っているのはこの話を教えたらしい『あの方』なる存在だ。立香の脳内では『この子騙されてるんじゃないだろうか』疑惑が著しく湧き上がっていた。記憶がなくて見目麗しい子供とか、絶好のカモすぎる。カモネギどころか包丁とガスコンロセットみたいなものだ。児童誘拐。その言葉が脳裏を過ぎる。
「…………………………………………………………………………随分と、優しい神様なんだね」
「うん!すっごくいい人……じゃ、なかった。神様なんだ!」
数十秒ほど悩んでなんとか絞り出した褒め言葉らしき一言に、少年は全肯定の笑みを浮かべる。これは、ますますその『あの方』とやらが疑わしくなってきたような。
(……いやいや。あんまり何も知らない俺が疑っちゃうのは、それこそ失礼だよな)
「最近は一緒に寝たりしててね。あとは……その……」
「
若干頬を染めながらもじもじと恥じらう彼を前にして、最後の砦はあえなく崩壊する。『てめーも似たようなことやってんじゃねぇか』なる怪しい電波を受信しかけるが、それはそれ。親子の関係なのでセーフというやつだ。
「……突然叫んでどうしたの?」
「君騙されてる!絶っ対その神様に騙されてる!!絶対何かしらで嘘つかれてるから!!」
ガッシリと少年の肩を掴み、わっしわっしと揺さぶりながら全力で説得にかかる。側から見たら犯罪者は立香の方である。
「えぇ……そんなことないって。……多分」
「多分じゃないよ!絶対騙されてるから!!思い当たる節があるんだろ!?」
「……う、うぅーん?あ、あるような……ないような……?」
目を閉じて、うんうんと頭を抱えながら悩みこみ始める少年。やはりこれは、そういうことなのだろうか。そういうことなのだろう。
「無いにしても、こんなところに子供が一人だけでいるだなんて問題すぎる!!こうなったら、
その瞬間。……何が起こったのか、一瞬理解ができなかった。
自分の発した言葉が、残響となって冥界に消えていく。それに続く音は、ちょっとした衝突音。音が、感覚より先にやってきていることだけがわかって。
「……………え?」
体が、2、3歩ほど少年と離れていた。彼の伸ばされた手が。数瞬、自らの腹に感じた痛みのない違和感が。彼に、立香が押し飛ばされたのだと、そう理解できて。
伏せられた彼の顔からは、感情が覗けない。ただ、押されたということは、彼に何かしらの不満があったということで。
「あ、ごめん。痛かった……かな?それか……怒った?」
少し頭が冷えて、冷静になる。自分のとった行動が、失敗だったのだと思って。底冷えするような感覚に襲われる。
だが、そのどれもが違うのだと。それこそ全くの見当違いなのだと。上げられた彼の顔を見て悟った。
「……ギル……?王……?…………何、え?……いや。……違う。……そんな…………しん…ゆう……
その顔に刻まれた壮絶な、荒れ狂うような感情を、どう表現すれば良かっただろうか。驚愕、困惑、焦燥、苦慮、悲哀………郷愁。その全てが混ぜ合わさって、ごちゃごちゃになって、それを無理矢理一つにまとめたかのような。
肌は蒼白になり、紅の目ははちきれんばかりに見開かれ、唇が小刻みに震えている。伸ばされた手はそこで固定されたかのように動かないまま。何かのワードを止めどなく口にして、それらが意味をなすことなく垂れ流される。ただ、自分が発した何かの言葉が、彼に影響を与えたのだと理解した。
あまりにも変わり果てた姿に驚きを隠せない立香の襟首に、伸ばされたままだった少年の手がかかる。
「……今、なんて、いった……?」
「………何、って……」
鬼気迫る表情。その美しい顔が色とりどりの感情に彩られ、ぐちゃぐちゃになって。とんでもない迫力で立香を睨んでいた。
「今、なんていったって、訊いてるんだ!!」
あまりにも、ちぐはぐな光景だった。身長も、体つきも、立香の方が上のはずなのに。少年は、常人とは思えない膂力で立香に掴みかかっていた。サーヴァントを思わせる凄み、というよりかは、殺気を放って。必死になって立香から『何か』を得ようとしているかのような。
そして、奇跡的に。立香は、特異点最初期に聞いたその一言を思い出す。
『……最後、は。……
「フォウ!フォーウ!」
「あっ!……はな、れろっ!」
ずっと立香の肩で様子を見守っていたフォウ君が、顔面に飛び降りて少年を立香から引き剥がす。衝撃でふらふらと数歩後ろに下がった少年は、腕ずくで顔の上の障害物を立香へと跳ね除けた。その力まかせな様は、
飛んできたフォウ君をなんとかキャッチして。ずしりと身体の重さを感じた………その途端、体に違和感を覚える。
「あれ、浮いてる……!?」
「フォウ!フォッフォッ!」
体が、自分の意思に関係なくどんどんと上に上にと上がっていく。地に足がつかず、抱えているフォウ君ごと地中の空へと舞い上がっていく。
「なっ!?待て!君にはまだ、訊きたいことが!」
少年がこちらを呼び止めるが、立香がどう足掻こうと上昇は止まってくれない。違う。違うのだ。逃げたいわけじゃない。こんな風に逃げることは、立香の本意ではない。
だが、上昇の勢いは止まらない。高さはもう十メートル以上にもなって、少年の姿が小さくなってしまっている。
だから。
「君は、覚えているか!?ギルガメッシュと、エルキドゥのことを!!」
「……ッ!?」
全力で、その言葉を叫ぶ。立香の言葉ではない。あの亡霊を名乗った少年の、遠い遠い伝言。伝える理由も、結果もわからない。だが確かに言葉は伝わり、眼下の少年は動きを止めた。今やるべきことは、少なくとももう終わった。
そのちょっとした安心感と、言葉を伝えきれなかった後悔に包まれながら。立香の意識は、純白の光に包まれた。
生者の旅人は、光に包まれて消えた。残されたのは、記憶を失った哀れな天使。
「………エルキドゥ?……ギルガメッシュ?」
その言葉の効果は、覿面。少年はたちまち記憶の波に流され、頭を押さえて蹲る────
「………
そんなことは、別になかった。残ったのは純然たる疑問と、心に残る不快感だけ。決して、記憶を取り戻すなどという地点には至らない。頭を振るえば落ちてしまいそうな。所詮その程度の痕跡しか、彼は残せなかった。
「……余計なお世話だったかな?……お爺ちゃん」
彼が、虚空に向かって話しかける。何もないかに思われたそこには、ローブを纏い、杖をつく老軀が射殺さんばかりの目で天使を観察していた。
「……………彼の者に光あるならば、我に言うことはあるまい。その任を果たすれば尚のこと。強いて言うなれば、借りを返し損ねたというところか」
その老爺は、静かに少年を見据える。その目に映るのは、少年の決意か。或いは──その魂に刻まれた、死の運命か。
「……そう。貴方みたいな人に借りを作るなんて。藤丸はきっと、鍵なんだね。凄いや、やっぱり」
「汝の道行に、移ろいはありや」
「………うん。……ちょっとだけ。ちょっとだけ、勇気を出してみるよ。……それまで、お爺ちゃんは待ってくれるのかな?」
「我は裁定者にあらず。ただ鐘の音に従い、執行を
「………なら、なるべく早くしないとね。エレシュキガル様には気が引けるけど。藤丸はきっと、嘘をついてない」
その返答が気に入ったのか。或いは、その先を知って嘲笑っているのか。年老は笑みを携えてその姿を消し、少年はたちまち一人となった。
「………調べなくちゃ。疑って、疑って。じゃないと、信じ、られないもんね」
苦悶を堪えて、少年……アンヘルは、女神の残る神殿へと戻る。その耳に届く鐘の音は、もう誤魔化しようがないほどに、大きく響き渡っていた。