始まりの天使 -Dear sweet reminiscence- 作:寝る練る錬るね
前回までのあらすじ
エレシュキガルの部屋でとある一室の鍵を発見したアンヘルは、その部屋の中で巨大な箱と、それに組み込まれた自分の『何か』を発見する。正体すら分からない郷愁に駆られて『何か』へと手を伸ばすアンヘルだったが、その思いは届かず、逆にその声をエレシュキガルに聞かれて拒絶されてしまう。
一方、ゴルゴーンによってハーメルンを失った立香は、
何秒かの沈黙。驚愕と羞恥と様々な感情が入り混じった嵐のような激情の中で、マシュ・キリエライトはその光景を呆然と眺めていた。
大切な人の唇が、謎の
暫くしてから、ついてこなかった感情が一気に追いついてきて、マシュの脳をシェイクした。
「あわ、あわわわわわわ………」
止めるべきなのだろうか。いやでも、しかし。
無限にループした頭がグルグルと目ごと回転し、わけもわからずただ脳味噌がオーバーヒートする。色恋というものにとんと無縁だったマシュに、目の前で起こった事象はあまりにもハードすぎた。
思考、停止。思考、停止。そもそも思考しているのかすら曖昧な中、一歩も動けずただグルグルと試行。めちゃくちゃにかき回された頭が、何をどうすべきかも完全に忘れさせた。
………口づけが終わったのは、一体いつのことだったろう。
気がつけば
その
「………あの。ええと?」
数分ほど待っても微動だにしない
呼ばれた
たっぷり1分、自分の体と周囲の状態を確認した
ほんの少し。少しだけ、悲しそうな顔をして。得心がいったのか、数度頷いてゆっくりと立ち上がった。
「………ああ………終わりだ。こっから先はこいつ次第だ、です」
「………先程のき、ききき、キスで!?本当にそれだけですか!?」
「……これ以上できることはねぇよ、です。これで助からなかったら、そん時はこいつにそれだけの
再びフードを被り直し、
は入口から外へと出ていく。
マシュはたまらずその後ろ姿を呼び止めようとしたが、追いかけて外に出ても人影は残っていない。一瞬で跡形もなく消えてしまったのだ。
「………先輩……」
突然、立香の体が黄金に輝き、神秘的な光と共に目を覚ます。
そんなわかりやすい奇跡が起これば良かった。けれど、大切な人は相も変わらず眠り続けているだけだ。
脈には変化がない。毒を盛った、ということは無いのだろうが。一体、
「………お願いします。起きてください、先輩」
結局。マシュはただ立香の手を握り、必死に呼びかけて願うしか無いのだった。
自分を心配してくれる声があった。
心の底から、自分を気遣ってくれる声もあった。
『あまり一人で抱え込まないで。悩みすぎることはよくないです』
『君は悩み苦しんでいるんだろう。君みたいな子供が、そんなことをしなくてもいいんだ』
…………悩むのをやめられるなら、どれほど楽だったろう。考えるのを止められるのならば。どれほど幸せだっただろう。
そうなったら、全てが終わってしまうというのに。
『君は本当は優しい子だ。だから、そんな無理をしなくてもいいんだよ』
『君は強くなんてない。本当はとっても弱い、寂しがりなんだろ?』
だったらなんだ。優しくて寂しがりだったら、大切なものを守れるとでも言うのか。そんなものに、価値があるわけがない。
『随分と時間が経った。もう、自分を許してあげてもいいんじゃないか』
…………どうして。
どうして、お前が。
お前なんかが。
勝手に、自分を許せると言うのか。
自分自身ですら許せない、この身を。
この罪を。
「………ぁ………くぅ………」
憎悪が溢れる。それを涙に変えて、なんとか堪えた。
破綻した涙は、銀の宝石。
忘れない。忘れない。
何一つとして、壊していいはずがない。
例えこの世界の誰もが自らを知らずとも。
例え、彼方の思い出を無くしてしまったとしても。
「………ウチは、ウチは、そう。ウチは……僕、です」
遥か遠いあの日の夢の欠片は、未だ鮮やかにこの胸に残っているから。
「いらっしゃい、藤丸立香」
密室には、その少年が一人だった。簡素な部屋。最低限の道具しか配置されていない。まるでこの一室が、丸々小
冷たいインクの匂い。生活感を感じさせる暖かさ。それが少しだけ、立香のささくれた心を和らげて。
それでも。そんなものがなんの慰めにもならず、立香はその場に崩れ落ちた。
「………う………ぁぁぁ!!」
世界そのものを否定するかの如く。立香は地を叩き、大きく声を上げて嘆いた。
ここにはない。
ここではない。
違う。
こんなところに、いたいわけじゃない。
だってここには。
ここには、ハーメルンがいない。
目など、覚めなければよかった。目覚めることがなければよかった。意識など、モヤのように霞んでいればよかったのだ。
あの夢の微睡に、ずっと浸かっていればよかった。
こんな辛いことを、思い出すくらいなら。
こんな辛い思い出を、抱かなくてはいけないなら。
「……辛いことが、あったの?」
慮るように、慈雨のような声がかけられた。目の前の少年からだ。年端もいかない彼が、立香を見下ろすようにして立っている。
その声色から優しさが感じられて、失われたものを探し求めるかのように、立香は少年を見上げて情けなく頷いた。
「………そう。君も、なんだ。……僕もね。大切な誰かを、無くしてしまったんだ。おかしいよね。僕には、あの人しかいないはずなのに。それが、僕の全部だった、はずなのに……」
その端正な
「……君も、そうなのか?」
今度は、立香が尋ねる。
もしかしたら。
それに気がつくのは泡が弾けるように一瞬で、覚めるのはもっと早いかもしれない。
それでも。たった一瞬でも。同情、馴れ合いという安らぎを得られるのかもしれないと。立香は、目の前の少年へと希望を抱く。
弱い者同士で、傷を舐め合うことくらいは。
「……うん。大切なものをなくして、忘れちゃった。僕も、君みたいに泣いたら良いのかな」
途方に暮れたようにそう溢した少年を前に。立香は、自分の心の奥底に昏い喜びが芽生えたのに気がついた。
そんなことがあってはならないと思いながら。それでも、辛い思いをしているのがこの場では自分だけじゃないという事実が、微かな喜びを立香に植え付けていた。
お互いの事情を吐ききって、なんの意味もない慰めを交互に口にすれば。この傷から目を逸らすことができるのではないかと。
そう、手を伸ばしかけて。
「…………でも。僕と違って、君は生きなくちゃならない」
立香と同じように。弱いはずだった少年は。
そう見えていただけの子供は。
「…………は?」
立香に無慈悲かつ、あまりにも高潔過ぎる裁定を下した。
認めたくなかった。彼が死んだことなんて。自分を親と慕ってくれていたあの子が死んだことなんて。それだけは。
立香はどうしても、認めることなんてできなくて。
「………いいか。その子は死んだ。誰かが悪かったわけじゃない。ただ君を守って、死んだんだ」
ずっと嫌だった。
墓を掃除したあの日。人間の悪意を目の当たりにしたあの日。
あんな人たちのために。他人に泥を投げつけて喜ぶような人たちを。自分が守っているだなんてことが嫌で嫌で。
大切なものを傷つけるものまで守らなくてはいけなくて。その末にあの子が死んだというのなら。
もう、いっそ。
「いいや。君が守らなくちゃいけないのはそういう人たちだ。お世辞でも綺麗なんて言える奴らじゃない。君が世界を救ったところで感謝してくれる連中でもない。でも、君が救うと決めたんだ。だから、救うんだ」
潔癖な声を浴びせかけられる。
強くて。高潔で。全てを白く染める強者の声を聞いた。
上に立つべき、持ち得る者の声を。
全てをねじ伏せ、それでもなお進める才あるものが、上から目線で語る高説を。
自分の心に、無遠慮に差し込まれて。勝手に知ったようなことを言われて。何もかも悟ったような正論を投げつけられた。
「もう黙ってくれっ!!」
限界を迎えるのは、あまりにも早かった。
「そんなの!生きるか死ぬかなんて、俺の勝手じゃないか!」
耳を押さえて蹲る。自分勝手に叫ぶだけ叫んで、他人の意見を受け入れまいとするその姿勢は、自分から見ても醜悪だ。
そんな言葉が聞きたいわけじゃなかった。
そんな言葉を願ったわけじゃない。
わかっている。わかっているとも。自分の状態が異常だなんてことは、他ならぬ自分が一番わかっている。
だが、それがどうした。だからといって、何だっていうんだ。
それを誇らしげに突きつけてくる目の前の子供が、恨めしい。憎たらしい。
「俺は言ってない!生きたいだなんて、一言だって言ってない!!言ってないだろ!?どうしてそんなに関わってくるんだ!放っておいてくれよ!!」
腕を払って、つい先ほどとは全く矛盾した言葉で闇雲に嘆いた。
生きている価値があるのか。
果たして、あんな醜い世界に。
それこそが、立香を苦しめる暗示の鎖だった。
あんな汚いものを見るくらいなら目を閉じて。あんな汚い声を聞くくらいなら耳を塞いで。あんな辛い思いをするなら、あんなに痛い気持ちになるのなら。
何も知らないまま死んだ方が。よっぽど楽だったと。そう思わずにはいられなかったのだ。
数秒、沈黙が流れて。
「僕が放っておいたら。現実が、君を放っておいてくれるのか」
「─────」
一切の反論すら許されない。一分の隙も、ほんのわずかの隙間もなく、容赦すらない言葉の正当性に。正しさという名の暴力に。
立香の心は、押しつぶされた。
「今なお見てるこの現実が、真実なんだよ」
ハーメルンが、死んで。立香は死んだ今なお、誰かのために立ち上がらなくてはならなくて。名前も知らない、自分たちを傷つける誰かを。守るために、立たなくてはならない。
そんな残酷すぎる真実を、眼前に容赦なく突きつけられた。力の抜けた腕が、必死に塞いでいた耳から、力なく落ちた。
その隙を、清らかすぎる子供は逃さなかった。手を強く握られ、耳を塞ぐことも許されないまま、真っ向から言葉が胸を打つ。
「いいか!それが現実だ!!現実なんだよ!!苦しいだろ!?目を背けたいだろ!!いやで、いやで、逃げたくて、苦しくて!!それでも逃げられない!!これが現実なんだ!!現実なんだよ!!」
逃れられない。その深紅の目を、吸い込まれそうなほど見つめさせられて。背けることすら許されず、痛すぎるほど正しい言葉が立香を抉った。
「逃げたっていい!!ただ、逃げたとしてもまた先で逃げることになる!どちらを選んでも、ずっと逃げることは許されない!!絶対にいつかはやらなくちゃならないことなんだ!!」
例え立香が涙を流そうと、問答無用にその声は立香の心の門をこじ開け、すり抜けるように入り込む。
まるで、必死に立香に訴えかけているかのように。
「逃げずに立ち向かうことには勇気がいる!!平等なんかじゃない!!差なんてものは絶対にある!!」
けれど。
その言葉の持つ意味合いは。強さは。重さは。それでも。認めることは、出来なくて。
立香が背負うには、あまりにも大きすぎるもので。
「いやだ………そんなの………そんな冷たいものを……俺は、もう……見たくない……」
茫然自失して、うわごとのように呟く。
それはある種の妄言だったが、確かに立香の本音で。
そんな世界に。そんな人生に。いいことなんて、ないのではないか。そんな冷たいもののなかへ。立香に戻れと。そう言うのか。
「そうだよ!!現実は非常だ!!残酷だ!!誰も助けてくれない!結局は一人ぼっちだ!最後の最後には、絶対に自分一人が決めなくちゃならない!」
そう断じて、強く歯を食いしばる子供。言っていることがあまりにも残酷で。冷酷すぎるほど正しくて。ただ、その目には正しさだけじゃない。誰かを想う強い力が篭っていたから。その熱に炙られるかのように、立香の胸がチリチリと疼いた。
「それでも……それでも………その中で、もがき続けることが悪か!?悪いことか!?醜いか!?汚いか!?」
必死の訴えに、立香を苦しめている見えない何かが、また小さく疼いた。
「起こったこともなにもかも!全部無くなったりしないんだ!全部本当なんだよ!本当だから現実なんだ!いつか夢みたいに消えて、元通りになるだなんてことはないんだよ!!」
息を切らしながら。自らの行動にいっそ涙すら流してまで、少年は続ける。
強い力が、立香の胸のつっかえを。自分が設けた心の壁を。なんの障害にもせず消し去っていく。
「戦えなんて言わない!強く在れなんて言わない!ただ、己の全部を認めて!目の前の人生にちゃんと向き合え!自分の心から目を逸らすなんてことは、他の誰でもない僕が許さないっ!」
強い波動が。音色が。
ずっと塞いでいた。ずっと封をしていた、立香の心のある一箇所に、触れる。
「……何を……言って……」
「だって!」
心当たりのないことに。……否。その事実を認めるのが怖くて。惚ける立香の。
脆すぎる最後の砦に、白金は。
「
何の躊躇もなく、踏み入った。
心とは、聖域である。
他人の誰もが、踏み入れることは許されない。許さない。自分以外の侵入を防ぐ、強固たる結界だ。
その聖域が。美しい聖域が穢れていくのを見るのは。
天使にとっては、あまりにも見るに耐えなかったのかもしれない。
「どうしてこんなところまで来た!?どうしてこんな風になったんだ!?君は一体、何がしたかったんだ!?」
何がしたかったのか。
その問いが。あまりにも深く。
至極簡単に、立香の心の底を見透かしていた。
(…………あぁ、そっか。俺)
そう言われてしまって。呆気のないほど、自分でも驚くほど冷静に、立香は自分がああも乱れていたのかを理解した。
認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。
だって。その原因を考えることは。
つまり、彼の死を。
その事実を。受け止めるしか、ないと言うことで───
「もっと一緒にいたかった……もっといろいろなことを、教えてあげたかった」
一粒。そう漏らした。
それこそが、心の決壊の証だった。
今更。
果てに。こうなってから。
「もっと、本当の意味で愛してあげたかった」
死んでしまってから。立香も、ハーメルンも。二人ともが、死んで。
どうしようもなくなってから。
「家族で、いたかった……」
立香の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れた。言い訳だけが積み重なった山々。棘の庭園を抜けて。
「一緒に、進んで行きたかったよ、ハーメルン……!」
それだけが、立香の持つ真実だった。
散々積み上げた言い訳のレンガの果てに眠る、ただ一つの本当。
どれだけのもので自分の感情を飾り立てようと。根本にあるのは、きっとそれだけのことだった。
「どうして、俺を置いていったんだ……なんで、消えちゃったんだよ……!」
恨みでもない。怒りでも、痛みでも、苦しみでも無い。
今になって湧き上がってきた悲しみが、大きな奔流となって、立香の感情を端から洗い流していく。
「ハーメルンがいなかったら……何も、出来ないじゃないか……」
自分を庇って。自分を守って死んでしまったあの子が。あの子に。
城壁で交わした約束も、一緒に過ごした日々も。何もかもが。
遠い、遠い思い出になって、消えていく。
「星を見ることも。いっぱいご飯を食べることも。一緒に寝るのも……ずっと、楽しみだったのに……」
笑う彼が好きだった。怒る彼が好きだった。いつもは無愛想な彼の見せる、可愛らしい感情が大好きだった。
あの笑顔が、何よりも眩しかった。
「もっと、いっぱい。これからだったじゃないか……!まだまだ、楽しいことなんていっぱいあるんだって。世界は、君に優しくするためにあるんだって…教えてあげたかった……!」
ハーメルンが背負っていた重すぎる過去を、ようやく知ったところで。ここから、今まで辛い思いばかりをしてきた彼を。
幸せに、してやりたかった。
「俺はお前に……消えて欲しくなかったよ……ハーメルン……!」
愛しい思い出に縋るように。縋って。それでも、それが叶わないと知って。
「俺はもっと……君の親で、いたかった……」
涙と共に、そう嘆いた。
どうしようもない。全くどうしようもない、あまりにも遅すぎる慟哭が、それだったのだ。
後悔と無力感が、熱いものとなって目の奥から際限なく溢れてくる。絨毯を濡らすそれを意識すると、より一層。こんなことになってしまった自分が、許せなくて。
「僕は。……君の気持ちをわかってあげられない。わかってるなんて、簡単に言ってあげられない」
少年は、感情の伺えない声音でそう答えた。……暗がりに映るその顔は、声とは裏腹に、そのことを心の底から悔やんでいるように思えた。
それでも。その顔に明確な慈愛と、深い思いやりが込められていることは明らかで。
「君が抱いた感情は、君だけのものだから。例えそれがどれだけ辛いものだったとしても、君以外が背負うわけにはいかないでしょう?」
伸ばされた細い指が、軽く立香の頭に触れる。
瞬間。流れ込んでくる光景があった。
狭い部屋。眠っている男。………それは、紛れもない自分自身で。その手を、誰かが握っている。
桃髪の。大切な後輩。涙を流しながら、未だ立香の帰還を願う、あの少女の姿。
見えたのはその一瞬だけ。即座に現実へと引き戻され、立香の視界は元に戻った。
「何か、見えた?」
「………泣いてた。………マシュが、泣いてた」
そう。一瞬だけだったが。
「帰らなくちゃ」
それでも、立香にそう判断させるには、十分すぎるくらい長い時間だった。
立香が倒れたら、彼女がああなることくらい。立香にも、わかっていたはずだったのに。
涙を拭って、立たなくては。もうこれ以上。あの優しい後輩を、悲しませずに済むように。
「……そう。なら、立てるよ。君なら、きっと何度だってやり直せる」
少年は、立香の答えに安心したように頷く。
そんな風に言われると、それがどれだけ非現実的な言葉でも、本当にそうなのではないかと信じてしまいそうだった。
「君が生きたいって思えるその時まで、死ぬ選択肢は置いておくといい。人生の目標は生きることじゃなく、生きた意味を死んだ後に見つけること、だからね」
人差し指を立てて、満足げにそう説く少年。……きっと、忘れられない教訓になるだろう。
しかし。いつまでも、蹲ってはいられない。いい加減、立ち上がらなくてはいけないが。
「……でも、俺は………」
この場所から脱出する方法が、欠片たりともわからないのだ。冥界というのなら、立香は一度死んでいる。そこから蘇るとなると、生半可でない対価か何かが必要になるのではないか、と。少しの覚悟を決めて少年に向き直る。
が、予想に反して、少年は軽いトーンで声を放った。
「ううん!だいじょーぶ!今の君はまだ死んでない。ちょっと魂が身体と離れちゃってるだけ。その子との
確信めいた表情で、立香に微笑みかける少年。………ついさっきまで、立香を怒鳴りつけていた相手とは思えない、その優しげな顔。
その二つがあまりにもかけ離れているのに。不思議と、そのどちらともが彼なのだと思わされる。
「……僕が助けられるのは、この一回だけ。きっと、もう一度やったらエレシュキガル様にバレちゃう。こんなこと、バレたらクビじゃ済まないけど……うん。君は、救われてもいいはずだ!」
ピン、と指を立てて、立香に何かを仕掛けていた少年が、その動作を終えた。
「じゃあ、おまじない。とっておきの
「魔法?……魔術じゃなくて?」
「そう、魔法」
少年は、ついさっきやったように、指先を立香の胸元に当てる。そうして、押し当てるように、確かめるようにして。ゆっくりと、立香の胸元を撫でた。
「ちゃんと、自分のことを認めてあげて。君は……君という存在は、とってもすごいやつなんだって。そう、認めてあげて。誰かの理想の形である必要なんてない。無理をして装わなくてもいい。自分自身、ありのままでいいんだ」
微笑みが、優しくて。
太陽よりも眩しいその笑顔に、自然と立香の心が暖かくなる。
「自分という存在を大切にすることは、君にしかできないんだ。どんなやつにだってできっこない、特別な魔法なんだよ。痛い時は痛いでいい。辛い時は辛いでいい。嫌な時は嫌でいい。無理に我慢することない。ただ、それを正面から受け止められたなら、それでいいから」
それだけは、忘れないでね。
そう溢す少年は、郷愁に満ち溢れた表情をして。
まるで、ここではないどこかを見ているかのようだった。
「……最後にさ。また、あの名前を聞かせてくれない?」
言いづらそうに訊ねるその雰囲気。そうして、そのお願いが、一体何を指しているのかに思い至る。
「……………君は、覚えてるかな」
いつか、冥界で初めて会った時の最後のように。
二つの名前を口にする。……特異点に入って初めて聞いた、その二つの名前。孤高でありながら、友愛を深める王と。死してなお、その名を残し、残滓を感じられる緑の友の名前を。
「…………あぁ。思い出せない」
その反応は、変わらない。知人の名前を聞かされたように。明確な解を聞いたときのように、劇的とは言い難いものだ。
「………思い出せないけど………でも。知らない名前じゃ、絶対にない」
けれど、その瞳には確信があった。
喉が、声が、口が。その発音を覚えている。きっと、何度もその名前を呼んだ。その綺麗な名前を、何度も、何度も。
「………ありがとう。この名前を、僕に教えてくれて。……僕に、思い出させてくれて」
宝物を抱きしめるように、ゆっくりと、その名前を口ずさんだ少年。不可解ながらも、その笑みはどこか満足げで。
花が咲くように、その顔を綻ばせた。
「……お礼としてはなんだけど。僕の名前を教えておくね」
そういえば。立香は、目の前の少年の名前を知らないのだったか。……今更すぎる自己紹介だ。
でも。その名前に、おおよその検討はついていたから。
「僕の名前はね──」
その動く口を、人差し指で制した。彼が話す代わりに、立香が名乗る。
「……俺の名前は、藤丸立香。人類最後のマスター。たまたまカルデアに残って英霊たちと肩を並べただけの、ちっぽけな一般人だ」
そう。それだけだ。
たったそれだけが、今の藤丸立香を構成する、ちっぽけな称号だった。それは決して、六つの特異点を解決してきた英雄なんてものじゃない。
「うん。でも、それは……?」
知っている、と頷き、今度は困惑顔になる少年。
「だから。俺はまだ、君の名前を聞いてない。名前を聞くのは、今度会った時だ。今度はこの言葉のお返しに、君の口からその名前を聞かせてくれ」
約束だ、と。立香が差し出した小指を、少年は嬉しそうに結んだ。そんな繋がりがなければ。いつか、この関係すら無かったことになってしまいそうだったから。
そうして。離れた立香の指の代わりに、少年から手を差し伸べられる。白磁の腕が、存在を主張するかのように淡く輝いた。
「頑張れ、立香!僕も、できるだけ頑張ってみるからさ!」
さぁ、手を取ろう。差し伸べた手を取れば、きっと立香は世界ごと放逐される。
暗い世界。先の見えない未来の前でも。この温もりと答えさえあるなら。
きっと。
「いってらっしゃい!その王様に、伝えて。必ず……
向日葵のようなその快活な笑みが眩しくて。
少しだけ、目を細めた。
聴き慣れた
「親様。ねぇ、親様」
そう。
それは、きっと。秘密の音色。
立香だけが知る、あの笛の音。
「………違う」
だからこそ。
立香はこの真実の音を、否定しなければならない。
この音を本物と認めてしまうことは、消えてしまった彼への裏切りになるから。
「君は、そうじゃない」
「………え?」
「ハーメルンは、君じゃない」
目の前の黄色いレインコートを纏う
「え?……え?親、様……?」
その呼び方が、何よりも嬉しかった。その呼び方が、何よりも愛しかった。
その彼は、もう。
「………君は、ハーメルンじゃないんだ」
焼きついた記憶。もう、誤魔化すこともない現実。それら全てを、一切の躊躇なく受け入れて。少しだけ深呼吸をして、吐く。
「……………ハーメルンは、もう死んだんだ」
一言。棘が刺さるような明確な痛みと、それとは正反対に、どこかストンと腑に落ちる感覚。
悲しみと、納得と。絶望と、漫然とした認識。
「俺を守って。死んだんだ」
再度。
寂しそうな彼に、別れの言葉を告げる。おずおずと差し伸べられた手を、どうしても取ってやりたくて。……でも。右手も、左手も。今の立香は、埋まってしまっていた。
どんな言葉をかけられるだろう。
百通りの呪詛。思いつく限りの罵倒だろうか。
それでもいい。彼の姿をとったものになら。きっと、そんな言葉をかけられても受け止められる。
覚悟を決めて、しっかりと。目の前の蜂蜜色の少年に向かい合った。罪の意識はある。何をやっても償えない。償える気もしない。
でも。
現実から目を逸らすのは、もうやめる。
「………痛い?苦しい?辛くない?」
蕩けるような甘い声で、ハーメルンの姿をしたものが、立香を心配するように覗き込む。
その言葉に甘えたくなってしまう。全てを委ねたくなってしまう。常に一緒にいられたとしたら。それはどれだけ嬉しかっただろう。
「痛いよ。苦しいし、辛いさ」
誤魔化すことはしない。そう。ずっと痛かったとも。やめたいと思ったことも、なかったと言えば嘘だ。
「……それでも進む。それが、俺にできる精一杯のことだから。誰かを失う痛みを、苦しみを、辛さを知ってる俺が。他の誰かに、それを教えない方法だから」
新たな決意と共に。
光り輝く道標。暗闇でも道を教えてくれる
もう、立香は迷わない。
「───そう。あなたにはもう、僕はいらないんだ」
頷く。
残酷すぎる肯定が痛くて。それでも現実から逃げることだけはしない。
どんな言葉も、表情も、忘れないと誓う。それがどれだけ立香を傷つける物だろうと。大切にしまい続けようと。
「よかった………」
「─────っ……!」
その心がけも。願いも。
何もかもを包み込むような。安堵に満ちた声が、立香の心を強く揺さぶった。
声が出そうになる。目の前のハーメルンが偽物だと知っていながら。それでも、枯れた喉が何か音を発しようとして。流れる涙と、止まらない嗚咽を飲み込んで。
言わなければならないことが、まだ。
「最後に、一つだけ」
時間だ。
視界が薄れていく。体が消えていく。
立香の体がどんどん薄くなって。光の粒となって、世界から弾き出される。
喉が消える。音が消える。
この世界を構築するなにもかもに、ヒビが入って、塵となって崩壊する。
無音。無明。
ホワイトアウトしていく視界。世界の中で。
──ボクに、あなたを助けさせてくれてありがとう。
絶対に聞こえないはずの二つの声を、確かに立香は聞いた。
『…………助けて………』
少年が、こちらを見つめていた。白金の髪を持つ、人並外れた美貌の少年。
『………助けて………げて……』
助けを求めているように聞こえた言葉。何かを求めるように思えた言葉。ただ聞いていれば、それだけに聞こえていただろう。心のどこかで彼を避けていれば。きっと、そんな風に聞こえたはずだ。
だが。耳をすませば、それは全く別の意味へと変わる。
『……を…助けて……あげて……』
悲哀のように見える慈愛に満ちた目で、少年は涙をこぼした。
『………な……あのひ……を……助けてあげて』
意識が、光へと引っ張られる。
最後に、耳へ届いた言葉は───
『大好きなあの人を、助けてあげて』
死んでなお、大切な誰かを慮る言葉だった。
「………せん……ぱい……?」
声が聞こえる。
聞き慣れた声。大切な人の声。
守りたいと思った相手の。守ってほしいと願った相手の。ずっと、一緒にいたいと。誓った相手の。
優しい、後輩の声が。
そうだ。
ここからまた。やればいい。
過去は無くならない。一度起こってしまったことは、何があっても覆らない。
なら。その過去を塗りつぶすほどの幸福を、新たに立香が築き上げたのだとしたら。
その事実も、何があっても覆らないのだ。
何があったとしても。いずれそれは消えてしまう。消えるまでは、ずっと立香の元に残り続ける。
消えてしまっても。立香の心で、生き続ける。
もう一度。もう一度だけ。
やるだけ、やれるだけ、やってみよう。
だって立香は。
「おはよう、マシュ」
まだ、彼女の先輩として立ち上がれるのだから。
二ヶ月ぶりほどですね。お久しぶりです。後書きにて。作者です。
ちょっと書いてるリゼロ小説の方がびっくりするくらい反響いただいてしまって、更新する暇がなかったのです……遅くなってしまって大変申し訳ない。
とりあえず、八節はかなり切りがいいので、今週中にでも完結させます。その後も少々期間が空いてしまいますが、第0節にあたるとある番外を書かせていただき、いよいよクライマックスとなる九節以降を書く形になります。
亡霊くんちゃんの真名は一体何なのか。ハーメルン君の過去とは。アンヘル君は冥界から脱出できるのか。そもそも、なぜ冥界で記憶を失い、生活しているのか。伏線等を回収する後半節。お待たせしてしまいますが、気長にお待ちくださると嬉しいです。
桜霞(現在は塚帖)さんが書いてくださっているアンヘル君です。これでラフというのだから驚き。素敵な絵をありがとうございます!清書版、心待ちにしております!