真田屋のお手伝いに行かなくなって1週間。休日に時間が余って仕方がない。ショッピングに行く気にもならず、かといって家にいると余計なことを考えてしまってよくない。
柔はかおりから聞いていた、美味しいケーキ屋さんに行ってみようと電車に乗った。マフラーと帽子で顔をかくしているので、誰にも声を掛けられることなく目的地に到着した。
ケーキ屋「エトワール」は大きな店で販売の他にも喫茶スペースが奥にあった。柔はそこへ行くとケーキセットを頼み、ケーキを選びにショーケースを見に行った。そこには色とりどりのケーキが並び、どれも綺麗で美味しそうだ。
「随分変わったのね」
柔がどれにしようか悩んでいると、聞いたことある声が聞こえて振り返った。
「あら? 猪熊さん?」
相手も柔に気付き驚いた顔をしていた。
「時間があるなら一緒にどう?」
「はい」
「あたしはチョコレートケーキとコーヒー。奥で頂くわ」
長い黒髪がつややかで、いつも見るよりも化粧も綺麗にしてあって柔は一瞬本当に誰だかわからなかった。でも、声はいつも聴いてた。ちょっと低いけど、通る声で柔のことを気にかけてくれていた。的確な指示と指導により柔はみるみる上達したのだ。彼女は真田屋の揚げ物担当の浅野だ。柔よりも一回りは上くらいの年齢だからか、姉のように感じていた。
「ここ、家から遠いんじゃないの?」
「ええ。友達に教えて貰って来てみたんです。とっても美味しいって聞いて」
「そうなの。じゃあ、大丈夫ね」
「あの、浅野さんは……」
「あたし、結婚前はケーキとかパフェとかを食べ歩いてはノートにまとめたりして、みんなに紹介してたの。今はね自分で稼いだお金でこうやってたまに食べに来るの。それでここはちょっと思い出の店で最近思い出して来てみたら随分店の様子もケーキも変わってて驚いたわ」
テーブルにケーキとコーヒーが運ばれてきた。お皿に盛られたケーキは美しく装飾されて食べるのがもったいないくらいだ。
「去年、先代から店を受け継いで改装したんですよ」
ウェイトレスがそう言うと、浅野は質問をした。
「ケーキも全て一新したんですか?」
「いいえ。先代のケーキをお好みのお客様もいらっしゃるので、一部人気商品は今も作っていますよ。ケースにある商品名の横に星マークがあるのが昔からあるケーキですよ」
「それは安心しました。ここのケーキは本当に美味しくて、昔はご褒美に食べてたんですよ。だから今も思い出すんです」
「ありがとうございます」
「家が遠くなってからはなかなか来られなくなったんですけど、これからはまた来たいと思います」
「お待ちしております」
ウェイトレスが去っていくと、浅野はケーキを眺めてメモを取っていた。
「猪熊さんのは、苺タルトね。とても綺麗だわ」
浅野はそう言いながらノートにメモを取っていた。サラサラとペンを走らせ美味しそうなイラストも描いていた。
「お上手ですね」
「ありがとう。写真はお金がかかるからイラストにしてるの」
「イラストの方が可愛くて、記憶にも残りますね」
「そうなの。でも、急がないとケーキがどんどん美味しくなくなっちゃうの。よし、できた。さあ、たべましょ」
「はやいですね」
「慣れよ」
ケーキは聞いていた通り美味しくて、柔は幸せな気分になる。
「いい表情するのね」
「そ、そうですか」
柔は恥ずかしそうに俯く。
「褒めてるのよ。美味しい物を美味しく食べれる人は幸せよ」
浅野は微笑む。
「猪熊さん……柔さんって呼んでいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、柔さん。あたし、誤解してたの。玉緒さんがあの店で自分の都合だけで仕事してると思ってた。女将さんたちに気に入られてそれに甘えてるんじゃないかって思ったの」
「でも事情を知らないならそう思っても仕方ないですよ。それに実際、以前はそんな風に働いていたわけで。あたしも、母が働いていたことは知らなくて……」
「柔さんの家だとも知らなかったから事情を察することも出来なかったけど、あなたが来てくれるようになってからはテレビや新聞で事情を知ることもあって玉緒さんが言えなかった理由もわかったし、あたしもまだまだ子供だなって思ったわ。いい年したおばさんだけど」
「そんなことないです。うちは色々複雑と言うか、変と言うか」
「お父さんがいなくなって、お母さんが探しに出て行ったこと?」
「はい」
「その娘がオリンピックで金メダルを取って、国民栄誉賞まで受賞したこと?」
「……はい」
気まずそうに柔は返事をする。面と向かってそんなことを言われたことはない。
「あたしは、とても普通の人生を送って来たよ。高校卒業して短大に行って就職して、この頃からケーキを食べ歩く趣味をやってたの。周りのみんなは結婚のために着飾ってたし、そのために就職したの。大体、20代の半ばくらいで結婚ね。そうじゃない人もいてそう言う人は極稀で、仕事が物凄く出来る人よ。あたしは、そのどちらにもなれなかったの」
「どうしてですか?」
「できればね、仕事で自立していきたいと思ってたんだけど、そこまで出来は良くなかったし、お給料もそんなに貰えないから無理だったの。結構早い段階で気づいたんだけど、今更後輩たちに交じって着飾ってコンパとか行きにくいし、意地はってたんだけどなんだかんだで彼は出来たし安心してたの」
「それで……その人と結婚を?」
「ううん。それでもいざ結婚って言われるとなんか、踏ん切りがつかなくて別れてね。年上は向こうも適齢期だからすぐ結婚しようとするのよ。その後何人か付き合ったけどみんなそう。だから気の合う後輩が誘ってくれたコンパに行ったときに出会った年下の彼と付き合ったわ」
「年下ですか。それなら直ぐに結婚ってならないですね」
「ええ。あたしは年上ってことで押しかけ女房的に彼の世話をしてたし、彼もそれに甘えてたと思う。それでよかったの。しばらくはね」
「どういうことですか?」
「あたしは自分の好きなことをしたいとか、人と同じ道を歩みたくないって心の奥で思っていながら、やっぱりそう言う生き方が怖くなってたの。取り残されていく怖さって言うのかしら。気づいたら友達も後輩もみんな会社を辞めてた。寿退社ね。そしてあたしは28になってた」
遠い目をする浅野。彼といるときは楽しかった。忙しい人だったけどたまの休日に公園に行って、ボートに乗ったりした。腕が痛いと言いながら一生懸命池の真ん中まで行く姿がかわいいと思っていた。
「それで結局、あたしのほうが彼に切り出したの。『結婚の意志はあるのか』って。そしたらね、彼は『今は結婚する気はない』っていうのよ。仕方ないわよね。彼は年下でまだ仕事初めたばかりだもの。でも当時のあたしはそれでプツリと何かが切れてね、この人じゃダメだって思ったの。それで別れて親が薦める縁談で結婚。彼と別れて1年後にはもう名字が変わってた。おかしいでしょ」
ケラケラと笑う浅野に柔は戸惑う。笑っていい所なのか。
「今からもう10年くらい前のことよ。今は夫との間に子供がいるし、またこうやって趣味もはじめられてあの時結婚してよかったなって思うわ。あたしにはこの生き方しか出来ないみたいだし」