柔の周りにはあまり普通の人がいない。だからなのか、浅野の生き方は柔にとっては普通とは思えない。
「憧れます。結婚して子供がいて、趣味を楽しむ人生っていいですね」
「ないものねだりよ。あたしは、柔さんのように特別な人って羨ましいわ。多くの人がそう思うわ」
「そういうものでしょうか……。じゃあ、もしその年下の彼が待っていて欲しいって言ったら待ってました? 適齢期から更に遠のいて、果たされるかわからない約束を待っているという選択肢は普通とは違うと思いますけど」
浅野は思わぬ質問だったのか、驚いた表情を見せた。
「待たないわ。あの頃のあたしはもう、みんなと同じでいないと不安だったもの。あの時の彼を支えて献身的な女でいる事の意義を失っていたから、結婚という見返りがなきゃ尽くせないと思った。でも、その意思がないと言われたら心が離れたわ。これで見返りもなく尽くせたらあたしは普通ではない女になってたけど、愚かな女になってたかもしれないわ」
「見返りが必要ですか?」
「そうじゃないときもあるし、必要な時もある。あたしが彼と同じ年だったら何も言わなかったし、数年は結婚という見返りはいらなかった。ただ無条件で人を愛せる人は少ないと思うわ。それこそ恋愛初期くらいかしら。だんだん人は欲が出るから。お互い様だけどね」
欲が出る。その言葉にドキリとする。耕作に対して欲が出てきた。電話が少ないとか、用件だけで終わるとかそんなことを思うようになっていた。前は電話してくれるだけでも嬉しいと思っていたし、それで満足だったのに。
柔が柔道をやっている理由の半分は、耕作だ。それなのに柔道をやっても以前のような満足度が低いのは耕作が近くで応援してないからだろう。出来ないことは分かっているのに、それが時折とても不満に思う。何のために柔道をやっているのかわからなくなる時がある。
「こう言ってもあたしも旦那には見返りを求めてるわ。今日、こうやって外に出られるのも旦那が子供を見ててくれるわけだし。そのために、家事育児を頑張ってるの」
「優しいご主人ですね」
「そうね。わがままだと思ってるかもしれないけど、あたしにはあたしの自由があると思ってるから、やるべきことをやったらその自由を行使してもいいんじゃないかなって。旦那はそれを理解してて、許してくれてるから優しいのよね」
結局最後はのろけていた。幸せそうな笑顔は柔の望む笑顔だ。ないものねだりとはよくできた言葉だ。本当にそうなのだから。
お土産のケーキを買って柔は駅に向かう。浅野は他にも行くからと店の前で別れた。その顔は嬉しさが全面に出ていた。
電車の中で見返りのない愛とは何かと考えていた。好きな人に好きになって欲しい。好きでいて欲しいと願うことはいけないことか。でも想いが報われなかった時、その愛情の行先はどこなのだろう。一方通行の愛を見返りのない愛というのなら、それはとても虚しい愛ではないか。
浅野の言ったことの意味が分かった。結婚という見返りがない相手と一緒にいても意味がない。だから別れた。愛情の一方通行だった。相手の愛情もまた浅野に届かないままだったのかもしれない。でも、浅野は言葉にして答えを求めた。だから別れる決心がついた。でも何も言わずにいたら、一方通行の二人はどんどん気持ちが離れていたかもしれない。気づいたときにはもう手遅れなくらいに。