vol.1 心の空白
言わなきゃよかったなんて思いたくない。淋しいから、離れたくないから出た言葉。それは嘘ではないけど、本気でもない。
あの日から柔道の稽古をしていなかった。夕方に道着に着替えて滋悟郎の待つ道場に行った。本当はそんな気分じゃなかったけど、これで稽古に行かなくなったら本当に柔道をしなくなるような気がしたのだ。
それなのに、滋悟郎は稽古を途中で終わりにした。
「なんぢゃその態度は。全く身が入っとらんではないか!」
「す、すみません」
柔は耕作の事ばかり考えていた。怒らせたかもしれない。もう、呆れて嫌われたかもしれない。柔の目を見て笑ってくれないかもしれない。そんなことばかり頭をよぎっていた。
「もう、よい! 稽古はしばらくなしぢゃ!」
「え? おじいちゃん?」
「そんな気持ちで道場に入るでない。今すぐ出て行け!」
どれだけ怒ってもこの言葉だけは言われたことがなかった。柔が自らの意思で道場を離れたことはあるが、滋悟郎はいつどんな時でも柔を突き放すようなことは言わなかった。
あまりに早く稽古が終り、玉緒は声を掛けようとしたが柔は部屋に閉じこもってしまった。
それから日々が変わった。柔道の稽古もなくなり、日刊エヴリーを読むことも無くなった。羽衣との会話も減り、柔道部への稽古も回数が減った。滋悟郎に見つかると厄介だと思ったが、会社の方には来てないみたいだった。
英会話には通い続けた。これは自分のためになると思っていたから。でも、半分はいつか耕作と一緒に世界を旅したり、アメリカの友人に会った時に話が出来るようにしたかったからだ。
でも、それももう無意味かもしれない。
2月の下旬。凍てつくような寒さは柔の心も冷たくする。稽古がなくなったから真っ直ぐ帰る必要もないので、寄り道をすることが増えた。滋悟郎とも顔を合わせるのが辛いのも理由にある。
誰か誘えばいいのかもしれないが、誰を誘っていいのかわからない。突然言われても迷惑かもしれない。そう思うと柔は一人で店を回ったり、映画を見たりして時間をつぶしていた。
最近見つけた映画館は、最新の作品ではなく古い物を上映していて、柔は白黒映画や子供の頃に上映していた懐かしい映画をそこで見ていた。映画を見ているときだけ何も考えずにいられたのだ。
今日も映画館に行った。昨日とは作品が変わっていた。それは柔の大好きな映画だ。
「ニューヨーク・ラプソディを1枚」
窓口からチケットを渡され中に入る。まばらにしか人がいない映画館。居心地がいい。いつもの席に座り、ただスクリーンを見つめる。
身分違いの恋を描いたこの作品を柔は高校生の時にかおり達と一緒に見に行った。ラストシーンでは周りが引くほど泣いた。障害のある恋の果てのハッピーエンドはいつだって涙を誘う。
でも今日は別の意味で涙が出た。ラストシーンの場所は、耕作と行ったことがある場所だ。いい思い出ではないけれど、耕作と二人で行った数少ない場所。思い出すことすら今は辛い。
エンドロールの間、柔は涙を拭っていた。照明がついて前から歩いてくる人にどこか懐かしさを感じて見てしまう。
「猪熊さん?」
厚ぼったい唇に肩までの髪。思い出の中の姿よりも痩せているが、きっと間違いなかった。
「…………まさか、藤堂さん?」