「今度はさ、俺に付き合ってよ」
辺りは真っ暗で息は白くとても寒い。けれど二人は新しい手袋をして、手を握る。手袋越しだけど温かい。
ニューヨークも東京と同じで夜でも明るい。賑やかな通りを軽やかに歩く耕作がどこに向かっているのか柔はさっぱりわからない。
「どこにいくんですか?」
「行けばわかるよ」
それからしばらく歩いて一段と人が多くなってきたと思ったら耕作は立ち止まる。
「ここだよ」
ビルとビルの間の道の先に大きなクリスマスツリーが立っていた。色とりどりのライトが光り、一番上には星が光る。背の低い柔でも見えるほど大きくて立派なツリーだ。
「綺麗」
うっとりとした表情で柔が言うと、耕作は人をかき分けながら進む。
「もっと近くに行こう」
ここら辺一帯はとにかく人の数が違う。クリスマス当日ならもっと多かったかもしれないが今日は一日過ぎた26日。それでも歩くのがやっとだ。
何とかツリーの近くまで行くと、真下にはスケートリンクがあり優雅に滑っている人もいた。
「わー近くで見たらもっと綺麗ですね。ツリーだけじゃなくて辺りもライトアップされて夢の中にいるみたい」
柔の瞳は輝いていた。ライトが反射しているんじゃない。心がときめいているのだ。
「柔さんに見せたかったんだ。綺麗だと思ったから」
「松田さ……きゃっ」
「うわっ」
人ごみで誰かが柔にぶつかった。その勢いで耕作の胸に飛び込んでしまった。
耕作の心臓がとても速く動いているのを柔は感じていた。柔もまた同じだった。
柔は耕作を見上げた。すると耕作と目があった。今までの二人の間に流れたことのない空気。柔の瞳が潤んでいる。言葉はいらなかった。
二人の最初のキスはとても暖かく優しいキスだった。ロックフェラーのクリスマスツリーの前で、まるで映画の主人公のようなロマンチックな思い出となる。
「柔さん、好きだよ」
「あたしも、大好きです」
耕作の中にもう迷いはなかった。愛おしい人を胸に抱きしめ、キスをした。ここにいるのはただ自分が好きで自分を好きでいてくれる人。自信がないとか、釣り合わないとかそんなことをうじうじ考えていることがアホらしくなった。
「帰ろうか……」
「はい」
手をつなぐ手は二人とも妙に緊張していた。会話らしい会話もなくてお互いを意識し合っているようだった。それがとても幸せだった。
アパートの近くに来るころには雪が降り始めた。静かなこの夜がとても神聖なもののように感じられた。
部屋の鍵を開ける。今日は片づけはいらない。二人だけのゆっくりとした時間を過ごせる。はずだった。
「げ! なんだこのFAXの量は!」
仕事部屋にいた耕作がそう言いながら、赤い点滅が嫌な予感を振りまく留守電を再生すると、東京の編集長からの声が聞こえた。最初は普通の電話のような声だったが、何度目かの電話で遂に怒りが頂点に達したようで電話が壊れるんじゃないかってくらいの怒号が聞こえた。
「何やってんだ‼ 松田‼ クリスマスはもう終わったぞ‼ 連絡しろ‼」
「ひっ!」
最後の留守電の時間は5分前。耕作は受話器を取ろうとしたが、柔の方を振り返った。
「あたしのことは気にしないでください。お仕事ですよね」
怒ってはいない。ただ気の毒そうな心配するような顔をしていた。
「しかし、せっかく柔さんが来ているのに」
「編集長さんは知らないことじゃないですか。それよりもお電話しなくていいんですか」
「あ、ああ……」
ごくりと唾を飲み、耕作は東京に電話する。電話は直ぐに繋がった。
「あの、編集長、松田です」
「何、フラフラ出歩いてんだ! 試合もないから引きこもってるって言ってただろう!」
「そうなんですけど、ちょっと用事が」
「まあ、いい。仕事だ。前に話してた特集を急きょ載せることになった。原稿を至急FAXしてくれ」
「あれは、載せる予定がないって」
「予定がないだけで、載せないとは言ってないだろう。原稿を用意してさっさと送れ! いいな!」
「は、はい!」
ふーっと息をついて椅子に腰かける。大リーグで日本人は活躍できるのかどうかの記事を、現地にいる耕作が直接その実力を見て記事にまとめたいと申し出たのが二ヶ月前。その時は編集長に相手にされなかったが、何の心境の変化か急に新聞に載せると言い出した。嬉しいことなのだが、タイミングが悪い。
その時、デスクの上にマグカップが置かれた。コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐる。
「柔さん……」
「急なお仕事なんですよね。あたしは邪魔しないようにしますから」
「邪魔なんて思わないよ。でも、ごめん」
何で記事を書き上げておかなかったのか自分を呪う。書いてさえいればFAXするだけでいいのに。しかも昨日、積み上げた書類の中から途中まで書いたものを探してから書くか、それとも初めから書くか。どちらにせよ直ぐに終わる仕事ではなかった。
時間は刻々と過ぎ去る。リビングへ続くドアは開けてあった。一人ぼっちにしないようにいつでも声を掛けていいように。でも、柔は二杯目のコーヒーを届けた後、「先に休みますね」と言ってドアを閉めた。
◇…*…★…*…◇
目が覚めたのは午前10時を過ぎていた。原稿をFAXしてそのまま倒れるように眠った。誰もないベッドは余計に冷たく感じられた。
リビングに行くと柔はコーヒーを飲んでくつろいでいた。
「あ、おはよう」
「おはようございます」
耕作は柔が怒っているのではないかと思ったが、意外にも清々しい顔であいさつをしてくれた。
「何か食べますか?」
「え? ああ、何かあったっけ?」
「ええ、すぐ準備しますか?」
「いや、ちょっと待って。シャワー使うから」
耕作は昨日帰って来てから仕事してたので、シャワーも浴びずにいた。普段なら一日くらい体を洗わなくても気にはならないが、今は柔がいるから気にする。臭いと思われたらたまらない。
10分くらいしてバスルームから出てくると耕作は、上半身裸のまま洗面所に立って髭を剃り始めた。
「そろそろ準備はじめてもいいですか……きゃ」
柔は思わぬ姿の耕作に顔を赤らめ顔を逸らす。
「あ、ごめん。いつもの癖で髭剃ったらちゃんとするから」
「ちょっと驚いただけですから平気ですよ」
そう言うと柔はキッチンで食事の準備に取り掛かった。しかしすぐ近くで耕作が髭を剃っている姿に思わず見惚れていた。
「どうした?」
「いえ、初めて見るから何かつい見入っちゃって」
「? そうか……」
柔が5歳の時に父親である虎滋郎が家を出てから、男は祖父の滋悟郎だけとなった。滋悟郎は立派な髭を生やしていて、その手入れを柔には見せたことがない。だからめずらしいのだろう。男性が鏡の前で髭を剃っている姿が。
髭の薄い耕作はサッと髭剃りを終わらせるとTシャツを着てテーブルに着く。柔が用意した朝食が既にならんでいた。
「サラダ? こんなものあったっけ?」
「すみません。さっき近くのスーパーまで買い物に。昨日、あれだけ言われたのに声も掛けずに出てしまって」
「いや、しょうがないよ。俺、死んだように寝てたし。危ない目に合わなかった?」
「松田さん、心配しすぎですよ。この辺りは、平和そのものです」
朝食はサラダの他に、小さなパンとスクランブルエッグ、そしてコーヒーだった。
「うまい! やっぱり柔さんは料理上手だな」
「そんな、これくらいで褒めないでくださいよ。誰でもできますよ」
「いやいや、この絶妙な柔らかさは熟練の腕がないと」
「もーおだてても何も出ませんよ」
何事も無かったから、いつもの調子で二人は会話した。それが少し悲しいと感じたのは二人とも同じだった。
「今日、日本に帰るんだよな」
耕作は切り出す。
「はい……午後の便で」
柔は寂しそうに答えた。窓の外を見ると、今朝積もっていた雪は既に溶けて、昨日のことが嘘のようなそんないつも通りの街に戻ってしまった。