「それから運の強さ」
「運?」
「そうよ。あんたはそうやって柔道を遠ざけたりしながらも、自分の望むものは手に入れてきたじゃない。希望の短大、就職先って人生の道を決める分岐点ではそうやって自分で選んできた。柔道とは関係ない道に行っても、強さは変わらなかった。違うわ。もっと強くなった」
「それは……」
「希望を通すために、弱くなるわけにはいかなかったのよね。あんたのじいさんを黙らせるにはそうするしかなかった」
「ええ」
「その結果、全部いい方向へ転がったってことね」
「そんなことはないですよ」
「ふーん。でも、負けたことない人は負けた人の気持ちはわからないわよ」
藤堂は柔に勝ったことはないし、さやかに負けたことがある。
「でも負けない辛さはあたしにはわからないのよ。あんたは頑張ってるわ。自分の人生を自分の幸せのために生きる努力をしてるのね。あたしが柔道で頑張ってきたのと同じように。道が違うだけね」
「あたしは自分の意思で柔道を始めたわけじゃないので、楽しいと思えたのは随分経ってからなんです。その楽しいもほとんどが誰かと一緒に試合をした時に感じました。自分が試合する楽しさを実感したのは、バルセロナの前、体重別でさやかさんと戦ったときなんです」
「本阿弥さやかか……あのお嬢さまも頑張るわね。すぐにでも辞めちゃうかと思ったけど、根性が普通の女とは違うわ」
「そうですね。さやかさんは普通じゃないですから」
「あんたはわかってないわ。お嬢様の普通は天才である自分なのよ。あらゆる才能に恵まれた自分が普通で当たり前。それを崩したのがあんたなの。だから努力なんて似つかわしくないものをし続けている。あんたを倒すために。あんたが柔道以外を欲しているのと同じように、お嬢さまは柔道であんたを倒すというただ一つの目標に向けて努力してる。天才だと思っている女がする努力をなめたら痛い目に合うわ」
「もしあたしが負けたら、みんなあたしにガッカリするでしょうか」
「あんたも案外普通だったのねって思うかも」
柔は沈黙する。かつて藤堂の対戦したデビュー戦を思い出す。わざと負けて柔道を辞めようとしたこと。
「変なこと考えるんじゃないわよ」
「え?」
「お見通しなのよ。あんた、あたしと最初に戦った時、負けようとしてたでしょ。あんなに圧倒的な力を持っていながら、技もかけずにいたのは不自然だった。それなのに突然、投げ飛ばした。自分でもそうするつもりはなかったと言わんばかりだった」
「あの時は、そうすることで日常に戻れるんじゃないかって思ったんです」
「あんたの日常は柔道ありきでしょ。認めてしまえば楽になるのに。いつまでもグチグチ悩んでバカみたい」
「藤堂さんにはわからないんです。あたしの気持ちなんて」
「そんなもの誰にもわからないわ。あんたはそうやってわかって貰えないと、自分だけが我慢して苦しんでると思ってる。でも、あたしから見ればわがままで自分勝手な女よ。いい加減自分のことを受け入れたらどうなのよ」
「わかってるんです。そんなこととっくの昔に。でも、どうしても柔道のせいであたしはあたしのしたいことを邪魔されている気がしてならないんです」
「逆に考えてみたらいいじゃない。柔道のお陰で今の自分がある。その全てを好きになれなんて言わない。でも、人との出会いもあんたの歩んできた人生も柔道があったから。それを否定することは、これまでの人生を否定することでしょう」
「それはそうですけど」
「想像してみなさいよ。柔道のない人生を。きっと背筋が凍るほど怖いわ」
街行く人々を見ながら想像を膨らませる。柔道が無かったら父はきっと家にいた。滋悟郎とは普通の祖父と孫という感じで、言い争ったりはしなかっただろう。母も家にいて家事もしないでよかったはずだ。部活に入ってドラマみたいな青春をおくれたかもしれない。部活を通じて出会いもあって、普通に恋人が出来て進路に悩んで短大を受験してまた就職で迷ってそして……。
ふと思い出す。NYで耕作が言ったこと。
「俺が一流大学出身だったら?」
その時、柔は答えていた。
「そうだったらあたしのこと見つけてないですよね」
あの時からわかっていたのだ。わかりきっていたのだ。柔道人生を否定したら、周りの出会ってきた全ての人を否定することになる。
今まで柔道を通じて出会ってきた全ての人の存在がなかったと想像した。柔の周りに沢山いた大切な人たちが消えてしまったら、きっと暗闇の世界になっていただろう。
その代わりに誰かが一緒にいるから大丈夫なんてこと、簡単には言えない。言ってはいけない。誰も代わりになれる人なんていないんだから。
「あたしは柔道を否定することはできません…………」