「わかってるじゃない。あんたが欲する何かは今までのあんたの人生から生まれたんだから、否定したらそれも失うことになるのよ。だから大切にしないとダメよ」
「はい…………」
「それに、あんたと出会ってからあたし、柔道が本当に楽しかったの。前にも言ったけど本当よ。あんたは自分の評価が低いみたいだから言っておくけど、結構みんなあんたに引っ張られてるわ。あんたの持ってる力は想像以上よ」
「あたしにはわかりません…………」
「花園さんも本阿弥さやかもあんたがいなきゃ柔道やってないわけで、あんたがいなきゃ今の旦那と出会えてないわけよ。それだけ見てもあんたの影響力は強いわ」
アイスティーをグーッと飲む藤堂。氷がかなり解けて薄くなっていた。
「あたし現役の時は自分の力を信じてそれだけで試合してた。勝っても負けても自分の力だから自信になるし誰のせいにもしないですむ。でも、バルセロナの時は違ったの」
「岡崎さんですか?」
一瞬、間が開く。藤堂が少し驚いた顔をしている。
「よく覚えてたわね。そう、岡崎さんがいてくれたから本当の心強かったの。誰かを頼ったのはあれが最初で最後。最後だから頼ったのかもしれないわ。そうすることで何かが変わるかもしれないと思ったのね。独りじゃないって思うことで、力が増した。一緒に戦ってるようなものよ」
「一緒に……独りじゃない?」
つぶやくようにささやかな柔の声に藤堂は優しく微笑む。
「独りで戦っていると思っていた時も、気づいてないだけで大勢の支えがあった。わかっていたから畳に上がれたのよ。それを当たり前だと思って省みることもなかったけど、コーチも仲間もいたし親や友達だっていつだって力になってくれた。でも初めてバルセロナで岡崎さんに頼った時、自分の心の弱さを実感して力を分けて欲しいと思った。花園さんの前では強がってたけど、本当は怖かった」
藤堂は当時のことを思い出すように外を行きかう人々を眺める。
「バルセロナ五輪では女子柔道が正式種目になって初めての大会。その代表に選ばれたんだもの緊張もするし怖くもなるわ。でも、あたしが怖がってたらみんなが不安になるじゃない。それに女子柔道の最初の階級だもの、勝って弾みを付けたいと思っていたし、その重責に耐えるだけの心の強さが欲しかったわ」
「それで岡崎さんに電話を」
「驚いたでしょ」
「ええ、藤堂さんも誰かに頼ったりするんだって、正直思いました」
「独りで極められる強さもあるけど、柔道は相手がいるものだから。試合するのはあたしだけどその相手は他の誰か。それだけでも独りでは決してないわ。だからこそ技よりも心の強さが勝敗を分ける時がある。勝利に執着する心でも、他の思いでも」
「藤堂さんは何のために柔道をやっていたんですか?」
「好きだから。それから倒したい相手がいた。そして強くなるため。負けないため」
「多いですね」
「あんたはどうなの?」
柔は考える。きっと最初は楽しかったはず。父との遊びの延長だから。次は父親との絆のため。滋悟郎のため。デビュー戦は日常を取り戻すため。受験や就職のためもあったが、ジョディや富士子、花園、風祭のためもあったが、近年一番の理由は耕作のためだろう。耕作の夢のために柔道をしていた。耕作はジョディとの約束と言っているが、それを理由にして本当の理由を自分でも誤魔化していた。
「自分のためではなさそうな顔ね。でも、誰かの為にやるのも力になるわ。さっきの映画もそうだったわよね」
ニューヨーク・ラプソディは恋した女性との身分の違いから一度は諦めたが、彼女が家のことで苦しんでいることを知った街の悪ガキだった主人公。彼は猛勉強をして大学へ行き最終的には会社を興して大成功した後、彼女を迎えに行く話だった。誰かの為に出す力は自分の実力以上の力が出せるという、よくある話だがそれは決して嘘ではない。
「でも、結局、誰かの為が自分の為にもなるんだから。だったらお得な誰かの為を選んだ方がいいと思うわ」
「お得って……」
「そうじゃないの。幸せは2倍よ。ううん、もっとかも」
「でも、負けたら相手は悲しむんじゃないですか?」
「バルセロナではあたしはあたしのために柔道をしたわ。岡崎さんの力を借りたけど、彼のために柔道をしたわけじゃなかった。それでも、帰国したあたしを彼は慰めてくれた。それだけでもよかったと思ったわ。それだけでもあたしは救われた。柔道やっててよかったって思った」
藤堂はにこっと笑う。優しく穏やかな表情だ。今まで見てきた中で一番、素敵な笑顔。
「あたしは本当に運がいいです。こんなに心が弱くても勝つことが出来たんですから。ユーゴスラビアではその弱さで柔道の試合が怖いと思ったんです」
「でも、その時にわかってしまったんでしょう。何かがなければ試合をすることに不安があることを。自覚してしまうと厄介よね」
頷く柔。バルセロナ五輪の48kg以下級の試合でも耕作の姿がみえないだけで、不安を覚えた。
「人は二通りの人がいる。あんたみたいな誰かの支えが必要な人と本阿弥さやかみたいに自分の足で立つことしか出来な人。どちらにせよ必ず限界が来る」
柔はドキリとした。藤堂の言うことは正しい。柔の心は既に限界に来ている。
「そんな時はどうするんですか?」
「反対の行動をとってみたらいいのよ」
「どういうことですか?」
「支えられないと立てないなんて本来ならありえない。自分の足があるじゃない。その力があるじゃない。支えなんてなくても生きられるように心を強くする。反対の場合は誰かに頼る。どちらも大変だとは思う。特にあんたと本阿弥みたいな重症な部類は」
「重症って……」
「一般の人はそこまで極端じゃないもの。傾きはあってもバランスを取ってどちらにもよれると思う。無意識にそうしてるでしょうね。でもあんたら二人は極端よね」
いつからそんな弱くなったのかわからない。子供の頃から父がいなくて母も家をあけることが多かった。心配を掛けまいと自分のことは自分でやったし、祖父のいうことも聞いて家事もこなした。柔は自分である程度は出来ると思っていた。母がいなくて淋しいと感じることはあったが、暫くすると帰ってくるのでそれだけで安心だった。
転機はやっぱり柔道だ。柔道が柔の外の世界にまで広がって、それを心のどこかで拒否していたけど耕作や風祭、富士子の後押しで試合に出ることになった。そういう時は平気だが、世界選手権のように出場を決められて出る大会は心の拠り所がなく不安になる。不安になると支えてくれる人を探す。それが耕作だった。ソウル五輪の時の呼びかけの声から、心の奥で必要になっていた。
「一人で立つにはどうしたらいいんでしょうか……」
「そんなの、自分で考えなさい。答えはきっともうわかってると思うわ」
藤堂は夜の街に視線を向ける。歩く人の姿はまばらだ。
「あ! もう、何やってるのよ」