「あ! もう、何やってるのよ」
独り言のように声を出す藤堂は何かを見ていた。立ち上がって手を振っている先を見ると一人の男性がいた。その人は店に入ってくると息を切らせて藤堂に言う。
「やっと見つけた。どうしてどこか行っちゃうの?」
「ごめん。あんまり遅いからもう来ないかと思って」
「そんなわけないだろう。あ、コーヒーひとつ」
水を運んできた店員に言うと男性は初めて柔の存在に気付いた。
「あの、もしかして……」
「そうよ。彼女は猪熊柔よ」
「やはりそうでしたか。僕、黒百合女子で講師をしてます、岡崎と言います」
「はじめまして、猪熊です」
気まずそうに挨拶する柔。以前聞いていた容姿とは少し違うように思うが、気弱そうだが整った顔をしていた。髪も無造作でだらしなさが感じられたが、不潔と言うわけではない。
岡崎は藤堂の横に座ってひと息ついていた。どうやら二人は待ち合わせをしていたようだ。
「映画は見た?」
「見たわ。そこで猪熊さんに会ったの」
「そうなんだ。面白かった?」
「面白いから一緒に見ましょうって誘ったのに」
「ごめん……」
「で、論文は書けたの?」
「それはもちろん。あとは確認作業だけ」
「そう、よかった」
藤堂は優しく笑う。怒っているわけではない。
「お二人は付き合ってるんですか?」
「え!? まあ、そうね」
「う、うん。あらためて言われるとなんか照れるね」
急に落ち着きなくなる二人は視線を泳がせる。
「あたし、トイレに行くわ」
藤堂が立ち上がり席を離れた。居心地悪くて空気を換えようとしたのだ。
「由貴ちゃん、何か言ってました?」
「藤堂さんですか? いえ、特には」
「そうですか。怒ってたりは?」
「そうも見えませんでしたけど……」
「よかった~。僕、何かに集中すると周りが見えなくなることがあって、その度に由貴ちゃんに注意されるんですよ」
「藤堂さんの存在も忘れるくらいですか?」
「ええ、お恥ずかしながら。今日も映画の約束してて気づいたらついさっき。慌てて飛び出してきましたよ。間に合いませんけど」
「その気持ちだけで嬉しいですよ」
岡崎は曖昧に笑う。
「この癖、直したいんですけどなかなか直らないですね。決して、由貴ちゃんをないがしろにしているというわけではないんですけど、集中していると思い出せないというか」
「仕事って大切ですか?」
「そりゃ、仕事しないと生きていけないですから。猪熊さんは実業団に所属してますよね。普段はお仕事されてますよね?」
「ええ、旅行代理店で事務系の仕事をしてます」
「だったらわかるんじゃないですか。職種はそれぞれですけど、仕事は大切です。でも、それを理由に約束を破るのは最低ですね」
落ち込む岡崎。そこに藤堂が戻ってきた。入れ替わるように岡崎がトイレに立つ。
「何? どうしたの?」
「藤堂さんのことを気にしてましたよ。怒らせたんじゃないかって」
「まあ、怒ってないわけじゃないけど、今はもう別にって感じね。それにあたしは彼の仕事の邪魔をしたくないから、無理はして欲しくないの。行けないなら行けないって、あらかじめ言ってくれればいいのにって思うだけ。待つ方は結構色々考えちゃうじゃない。来る途中に何かあったのかなって」
「そうですね。家を出る前くらいに電話でもくれればお互いに気も楽でしょうね」
「でもいつものことだから。あたしは性格的に誰かの言うがままに生きられないし、彼くらい心の広い人と一緒の方がいいのよ。だから時間に遅れるくらいは問題ないわ。それが惚れた弱みよね」
「告白したのは藤堂さんからですか?」
「ま、まあそうね。だからなのか、あたしのほうが彼を好きなんじゃないかって思うわ。気持ちなんてはかることもできないのにね」
告白した方が気持ちが大きいというのは違うと柔は思っていた。空港で耕作に告白されたけど柔だってあの時は耕作のことが大好きだった。ただ勇気がなかっただけ。
勇気の分が大きさと言われると、かなわないのかもしれない。でも、今はどうだろうか。離れてしまった分、気持ちが小さくなったかと言われたらそれは違う。そうなったらこんなに悩まないし、淋しくない。耕作の方は分からないけど、柔の気持ちはあの時以上に膨らんでいる。
岡崎が戻って来たので、柔は席を立った。ここからは二人の時間だ。藤堂に連絡先を渡して、今度ショッピングに行く約束もした。そして藤堂と話をしたことで、見えてきたものがあった。
帰宅して柔は真っ先に滋悟郎の元に向かう。そして畳に指をつき、頭を下げた。
「あたしに柔道の稽古をしてください。これからは心を入れ替えてちゃんとします」
滋悟郎はしばし無言で柔の姿を見ていた。いつまでも頭を上げない柔に滋悟郎は重い口を開く。
「わしの稽古はもっと厳しくなるぞ」
「はい!」
「ついて来れるか?」
「はい!」
「よろしい。明日から始める。遅れるでないぞ」
「はい!」
顔を上げる柔の目には輝きが満ち溢れ、滋悟郎も満足そうに笑っていた。そしてその様子を玉緒が優しい目で見ていた。