「忘れ物はないか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか、じゃあ行こうか」
オンボロの社用車に乗り、二人は空港に向かう。二日前に乗った時はワクワクとドキドキが止まらない状態だったが、今はただ寂しい。昼を過ぎたころから空には雪雲がのしかかり今にも降りそうな気配がしていた。
雪が降って吹雪になれば、飛行機が飛ばなくなるのに。
そんなことを考えていると、耕作が口を開いた。
「日本に帰ったらもう正月だな」
「ええ、準備が大変で……今年はお父さんも帰ってくるみたいなんですよ」
「そうか! 親子水入らずの正月になるな。よかったな」
長年消息不明だった虎滋郎は8月のバルセロナ五輪で柔の前に姿を現した。決勝で戦ったマルソーのコーチをしている虎滋郎は、柔の成長を見届け自分の役目は終えたというように現在の住所を明らかにした。
「でも、緊張するんです。お父さんには帰って来て欲しかったけど、いざ目の前にいると何を話していいのかわからなくて」
「何でも話してみるといいさ。虎滋郎さんは無口だけどちゃんと聞いてくれる人だよ。それに君のことずっと見守って来た人だから」
「松田さんはお父さんと話したことがあるんですか?」
「ああ、ソウル五輪の時に」
「そんな前に? あたし全然知らなかった」
柔の声が明らかにトーンダウンした。ショックを受けているのだろう。
耕作はこれを話すかどうか実はずっと迷っていた。ソウル・オリンピックの時に接触していたということは、四年もの間、柔に秘密にしていたということになる。さやかのコーチの件は取材して知っていたにしても、会って話をしていたということを黙っていたのは柔の怒りをかうことにならないか。でも、言わざるを得ない。
「君がベルッケンスと試合をしている時だった。俺は会場内でせんべいをかじる音を聞いてその人に声を掛けたんだ。するとその人は振り向きもせずに走りだして会場の外でやっと追いついたんだけど、見事な一本背負いで投げられたんだ」
「お父さんに?」
「ああ。同じだったよ。君に投げられた時と同じだった。俺は何とかしがみついたら虎滋郎さんは俺のことを知っていてくれて、それで話をしてくれたんだ」
「どんな話を?」
「何故家を出たのか。何故帰らないのか。何故柔さんの前に姿を見せないのか……」
外の景色は過去に逆戻るように流れ、二人の間の空気は恋人でも友人でもない不思議なものが漂っていた。
「松田さんは、四年前からあたしが知りたいことの全部を知っていたってことですか?」
「そうかもしれない」
「じゃあ、何故教えてくれなかったんですか?」
耕作は何も言えなかった。何を言っても言い訳にしかならない。ただ何度も今まで何度も言いたくても言えなくて、堪えていたのも事実だ。
「松田さん……あたし、松田さんがあたしのために力を尽くしてくれたことを知っています。だから今何を聞いても怒ったりしませんから、何故教えてくれなかったのか教えてくれませんか?」
耕作は自分の中の思いの正体が未だにわからなかった。柔のためだったのか自分のためだったのか。
「虎滋郎さんは『柔よく剛を制す』の極意を極めようとしていた。全日本で優勝し山下さんに勝ったが、その後山下さんとの二度目の試合に敗れしまい柔道の厳しさに気付かされたと言っていた。そしておごり高ぶっていた自分を恥じたとも」
「じゃあ、家を出たのはやっぱり山下さんが原因?」
「いいや、虎滋郎さんが修行の旅に出たのは五歳の君に投げられたからだと言っていた」
「やっぱり……あたしのせいで……」
「でも、柔さんが思うような悪い理由じゃないんだ。五歳の娘に投げられてショックで、倒したいとかそう言うことじゃなくて」
「じゃあ、何なんですか?」
「感動したんだって言ってた」
「感動?」
「虎滋郎さんは滋悟郎さんも柔さんも『天才』だと言ってた。自分にはない天性の素質を持った人間がこんなに近くに、しかも自分の娘だったことに感動したらしい。凡人の自分が天才に近づくためには、百倍千倍の努力が必要だと言ってた」
「だから修行の旅に出たんですか?」
「そうだ」
「でもそんなこと家にいても出来るんじゃ……やっぱり帰りたくない理由があったんだわ。あたしに会いたくなったんだわ」
「違うよ。本当に違うんだ。虎滋郎さんが家に帰らなかったのは、柔さんの前に姿を見せなかったのは君に柔道を続けて欲しかったからなんだ」
「柔道を?」
「君はデビュー戦以前はごく普通の女の子として学校や友人たちの前で過ごしていた。ご近所さんの前でもそうだっただろう?」
「それは、おじいちゃんが柔道のことは言いふらすなっていうから」
「でも君も成長するにつれて柔道やってることを人に知られたくないって思うようになっただろう?」
「それは、みんなと違うことをしてることを知ってしかも格闘技だったから、女の子は普通はしないことをしてることを知られたくはないです。好きで始めたわけじゃないし、人に言ったらいけないことをしてるんじゃないかっていう不安も小さい時にはありましたし」
「虎滋郎さんは気づいていたんだ。柔さんが柔道を嫌って遠ざけていることを。それでも続けているのは虎滋郎さんとの最後の絆だと思っているからだと。だから自分が家に帰ったら柔さんの前に現れたらきっと柔道をやめてしまうんじゃないかって虎滋郎さんは思っていたんだ」
「松田さんが言えないでいたのは、あたしがこのことを知ったら柔道を辞めちゃうかもしれないと思ったからですか?」
「……否定はできない。でも、会えないと言っている虎滋郎さんの思いを伝えても意味がないと思ったのも事実だ」
柔は黙っていた。四年前、もしこのことを知っていたら柔道を続けていただろうか。柔道を続けさせるために家に帰らないのなら、とっくにやめていたかもしれない。帰ってこないとやらないとまで言ったかもしれない。それでもきっと虎滋郎は帰ってこなかったような気がする。それどころか些細な接触すらもなくなっていたかもしれない。
「松田さん、あたしは松田さんに感謝しています」
「な、なんだ突然」
「あたしが柔道辞めようとしたとき、何度も引き留めたり戻したりしてくれました。松田さんがいなかったらあたしはきっと柔道を捨ててたと思います。それどころか憎しみすら感じていたかもしれません」
「そこまでは……」
柔は首を横に振る。
「本当です。あたし、短大で富士子さんに出会って、一緒に柔道を始めるまでは心から信頼できる友人がいなかったと思います。柔道のことも内緒にして、家庭内のことも言えなくて心を許せる人がいなかった。だからと言って彼女たちとの友情が嘘だったわけじゃないんです。だけどいつも違和感を持っていたんです。そんな違和感をいつか彼女たちにも知られてあたしは一人ぼっちになっていたかもしれない。おじいちゃんがあたしのデビューを画策して、友達もいないあたしは言うこと聞いていたかもわからないし、聞いていたとしても柔道を嫌っていたらきっと強くもなれずにおじいちゃんからも見放されて、本当にひとりぼっちになって……」
「柔さん……」
「大丈夫です。泣いたりしません。今は幸せですから。勝手にありもしない未来を想像して恐れて泣きたくはありません」
耕作は今すぐにでも柔を抱きしめたかった。小さなころから他の友達とも他の家とも違う自分の境遇を受け入れようとして、寂しい思いをしていたのだ。友達に秘密を持つことは大小あるだろうが、柔は自分の人生の多くを占めていることを言えない負担は大きかっただろう。それを思うと、耕作は胸が痛む。
「あたし、松田さんに出会えて本当によかった」
「俺も、柔さんを見つけられてよかった。君を一人にしないでいられることを今はほっとしているよ」
そう言いながら耕作は柔の手を握る。その手を柔はそっと包み込んだ。
「でも、今から日本に戻るんですけどね」
「そうなんだけど、そうじゃないって言うか」
「冗談です。わかってますから。あたしはもうひとりじゃないですから」
こんな話をしているとあっという間に空港についてしまった。雪は一片も落ちてはこない。
柔は荷物を預けて搭乗までの時間を耕作と過ごした。あと少しで二人は離れ離れになってしまう。ちょっとは恋人同士のような時間を過ごせただろうか。柔にはよくわからない。
「柔さん、これ。今更だけど」
耕作はジャンバーの胸ポケットから手紙を取り出した。
「ソウル五輪で虎滋郎さんが君に宛てた手紙だ。会ったことも言えなかったから渡せなかったんだけど……」
封筒には大きく「柔へ」とあり、封は開けられている。そこから柔は手紙を取り出す。すると柔はクスリと笑った。
「お父さんからだったんですね」
「ああ、テレシコワの裏投げに気を付けろって教えてくれたんだ。でも、手違いで柔さんの手には渡らなくて俺が開封して伝えた。ごめん」
「謝らないでください。伝わってましたから。投げられちゃったけど、ちゃんと松田さんの思いもお父さんの思いも伝わってましたから」
テレシコワに裏投げをされて、脳しんとうを起こした柔を目覚めさせたのは耕作の声だった。あの時、耕作の声が父の声に聞こえたのはきっとここに理由があったのだ。
「よかった」
「何が?」
「なんでもないです」
柔が耕作を好きなのは父の面影を見ていたからなのかも知れないと思ったことがあった。でも、あの時以降、耕作から父の空気を感じることもなかったし、面影の気配も理由はわかった。
別れの時間が迫っていた。騒々しい空港であっても、この時ばかりは二人の耳に互いの声以外入ってくる音はない。出国ゲートの前で柔は悲しそうに問う。
「今度はいつ会えますか?」
「……ごめん、わからないんだ。日本に帰る予定は今のところなくて」
項垂れる耕作に柔は言う。
「松田さん、覚えてますか?」
「へ?」
「松田さんがアメリカに発った日。お別れの時、空港であたし言いましたよね?」
「覚えてるよ。しかし……」
「また、言います。何度でも言います」
柔は満面の笑みを耕作に向ける。
「今度はあたしが追いかける番ですから。覚悟してくださいね」
「ああ、心しておくよ」
「浮気しちゃダメですよ。アメリカの女性は魅力的ですから」
「しねーよ。そんな余裕があったら手紙を書くよ」
「野菜もたべてくださいね」
「ああ、意識してみるよ」
「部屋の片づけもたまにはしてくださいね」
「それは……努力します」
「ふふっ。出来なかったらあたしが片づけます。大丈夫です。掃除は好きですから」
「面目ない」
「だからなるべく早くにまた来たいです」
「待ってるよ」
「もう! もっと何か言ってくださいよ」
耕作はちょっと考えてから柔を見つめた。そして腕を取って抱きしめた。
言葉はいらない。お互いのぬくもりが惜しむ別れを伝え合う。離れたくないが今はまだ一緒にはいられない。
そして二人は再び、遠く離れた。