「野波くんよ」
耕作は一瞬誰の事かわからなかった。そう言えば一度も会ったことがない。
「俺の後任の、野波か?」
「ええ。新人だけど有能って皆言ってる、野波くん。柔ちゃんとの関係も良好で誰かと敵対するようには全く見えないんだけど……」
「それをどうして加賀くんが持ってるんだ?」
「偶然よ。手帳から何か落ちて拾ったらその写真で、拾ったのがあたしだったからよかったけど他の誰かに見られたらと思うととても怖くて」
「で、写真を今は、加賀くんが?」
「うん。持ってる」
「野波は写真がなくなったこと気づいて……」
「ないと思う。でも、あれを野波くんが撮ったとは考えにくいの」
「どうして?」
「写真には日付が付いててその日はあたしと取材にいってて、東京にはいなかったの。だから不可能」
「ということは、同業者かホテルの客か……」
「それでも、それを何故野波くんが持ってるかがわからない。それと何故誰にも言わないのか。野波くんってヘラヘラしてて何考えてるか分からないところもあるけど、スキャンダルを狙うタイプには見えない。もし、写真のことで悩んでるなら力になりたいとも思うんだけど、何か思惑があったりしたらとも思うし」
邦子の持つ野波のイメージは少し頼りない後輩って感じで、何故か世話を焼きたくなるタイプだった。そう思わせるのは、結構ドジだったり、他の記者に馬鹿にされても笑ってやり過ごしているからだ。目が大きくて天パの茶髪でかわいいという言葉が良く似合う。そう言うところが、邦子の母性本能をくすぐるのかもしれなかった。
「下手に動かない方がいい」
「どうして?」
「もし何か企んでいたとしてまだ何もわからない。この数か月何もしてないということは、公表することが目的とは限らない」
「でも、このままってわけにはいかないでしょう」
「そうだけど……君はあまり動かない方がいい。相棒の様子が変わると不審に思うものだ」
「そうなの?」
「特に何か企んでる奴は、警戒心が強いから。君はいつも通り相棒としてそばにいておかしなことがあったら俺に報告してくれ。電話がつながらないときはFAXでいいから」
「う、うん。そんなことでいいならするけど」
「いいかい。いつも通りにしてるんだ」
耕作に念を押された邦子は腑に落ちないまま受話器を置いた。ひと息ついてからこっそり会議室を出て編集部に何食わぬ顔をして混ざっていた。
「邦ちゃん、野波はどうした?」
「さあ? 戻ってないんですか?」
「いや、記事だけ置いてどっか行っちまった」
「え~どういうこと?」
嫌な予感がする。誰にも何も言わずに出ていくことん何てありえない。邦子は慌てて変種部を出ると、買い物袋をぶら下げた野波がこちらに向かっていた。
「どうしたんですか?」
「野波くんがいなくなったっていうから……」
「買い出しに行ってたんですよ。ほら、これ」
白いビニールを顔の位置まで上げると、ニコッと笑う。その笑顔が子供みたいに可愛くて、何か企んでいるようには到底思えない。でも、写真を持っていることは紛れもない事実だ。
邦子は野波の持っているビニールに見覚えがあった。朝食でよく利用する近くのパン屋だ。
「ここのパン美味しいですよね。この時間に行くと、安くなってるんですよ」
「そうよね。売り切りたいんでしょうね」
「だから狙って行くんです。みんなの分もありますよ」
ドアを開ける野波は袋一杯のパンをみんなに配り始めた。
「パンなんて腹にたまんねーよ」と言いながら、みんな口に放り込む。片手で食べれるパンは仕事を止めることなく食べれて便利だ。野波はその様子を見てヘラヘラ笑っている。
邦子はまた複雑な気持ちになる。
◇…*…★…*…◇
受話器を置いた耕作は仕事部屋にある、日刊エヴリーのFAX記事を読み始めた。常にデスクに置いているのはやはり柔の記事で、その内容をチェックせずにはいられない。自分は日本にいないし、試合も見てないから記事が書けないことは分かっているが最初はもどかしい思いをしていた。
これじゃあ、試合の興奮が伝わって来ない。これじゃあ、柔の強さが見えないと。
でも、それを電話でごちゃごちゃいうほど、耕作も暇ではなくただ送られてくる記事と写真を眺めては日本へ思いを馳せるだけだった。
しかし、最近の野波の記事には違和感を覚えていた。文章に棘がある。柔の試合内容は申し分ないにも関わらず、皮肉めいた文言が書かれていることがある。
「さすが女王」「あっさりと勝利」「アトランタも余裕か?」
無くもないフレーズだが、初めの頃の記事と違い過ぎて本当に同じ記者が書いたのかと思ったくらいだった。
ーー敵意を持っているのは、野波か?
耕作の中にそんな考えが浮かんだ。しかし、邦子から聞く印象では好青年と言った様子だ。何者かが新聞社に写真を持ち込んで、それを野波のところで止めている可能性もある。しかし、新人が誰にも言わないで隠し持っているのもおかしい。
とにかく、NYで出来る事なんてたかが知れている。そのたかがをするために、耕作はもう一度受話器を取った。そしてもう何度もかけた猪熊家の番号を押した。
何と言って謝ろうか。それだけ考えて受話器を耳にあてた。しかし、呼び出しのコール音がするだけで誰も出ることはなかった。受話器を降ろして椅子に勢いよく腰かけた。
「この時間に誰もいないなんてことあるのかな……」
日本は午後7時半過ぎくらいだろう。普段ならこの時間には玉緒か滋悟郎はいるはずだ。誰も電話に出ないなんてことほとんどない。
耕作はもう一度かけてみるが結果は同じで、何か嫌な予感がしていた。