柔がNYに来ていると思われる7月5日。耕作は午後からNYを離れていた。夏になると、スポーツが各地で開催されて休む暇もない。だが、日本のスポーツも盛況になるので紙面はそこまでさけない。取材も要所を押さえておけば出来る事を耕作は学んでいた。
深夜になってNYに戻ると記事を書いてFAXする。そして意識を失うようにして眠った。連日の寝不足と仕事の忙しさのお陰で、柔に会うことへの緊張を考える前に眠れた。
会いたいけど、会いたくない。でも、会いたい。ぐるぐる考えては眠れないこともある。体は疲れているのに、頭が冴えてしまう。友人たちに本気で心配されるほど、目の下のクマが酷いこともあった。でもそれも、終わりになる。会って、話せば全てが収束する。
翌日は取材でまたNYを離れたが、夕方には戻って来れた。それからすぐに記事を書いてFAXしてスパイス・ガーデンへ食事に行った。こんな日に限って誰もいない。でも、アパートにいると余計なことを考えそうだったから、かなり長居してしまった。
ジェシーには昨日連絡をしていて、アリシアの非公式の試合を取材することを快く引き受けてくれた。耕作がずっと興味を持って取材していた選手を見れることが嬉しいような言い方だった。相手が柔だと言うことはまだ言っていない。
試合の日も雲一つない快晴だった。午後からの試合で耕作はジェシ―を連れて、高級住宅街の更に豪邸であるクラーク邸に向かう。ジェシーはバイクで近くの公園まで来ていたが、耕作はいつも通り自転車に乗っている。自転車は公園の駐輪場に預けて、クラーク邸まではジェシーのバイクに乗せて貰う。
高級住宅街の更に高級な場所にある、高い壁の前でジェシーはバイクを停めた。
「ねえ、コーサク。本当にここなの?ここでジュードーやるの?」
「そうだよ。俺も入ったことはないが、どうやら道場があるらしい」
「へー」
興味深げに塀を見上げるジェシー。今日は肌の露出は控えた服を着るようにとあらかじめ言っておいたので、半袖のシャツにジーンズで長い赤髪もまとめていつもよりカメラマンに見えた。そのためすれ違う人から奇異な目で見られることはなく、クラーク邸に到着した。
「もう相手はいるのかしら?」
「どうだろうな。さあ、押すぞ」
チャイムを押すと、門が開いてスピーカーから「どうぞ中へ」と聞こえたので二人は進んで行った。バイクは門の付近に停めておくように言われたので、そのようにした。
想像通り入って直ぐには建物は見えない。美しい庭園の長いタイルの歩道を歩いて行くと、アリシアが緊張した顔をして立っていた。
「あ!コーサク!」
アリシアが駆け寄ってくる。試合までもう少しあるが既に道着を着ていた。
「今日はありがとうな。想像通りの広さで驚いてるよ」
「そんな事よりも、あたし緊張しちゃって」
「見るからに不安そうだ」
そう言う耕作も不安で胸が押しつぶされそうだった。それを悟られないように笑顔を作っていた。
「はじめまして、アリシア。あたしはジェシー。カメラマンしてるの」
「あ、はじめまして。ごめんなさい、ごあいさつが後先になって。その、緊張してて」
「見たらわかるわ。気にしないで。今は自分のことだけ考えればいいのよ」
「は、はい」
いつもは生意気なアリシアはジェシーの前だと妙に素直だ。頼れるお姉さんだとでも思っているのかもしれない。半分正解だが、半分はずれだ。
「ところで相手は?」
「来てるわ。道場はもう少し奥にあるからそっちで待機してる。ウォーミングアップもしなきゃいけないし」
「挨拶した?」
「もちろんよ。だからこんなに緊張してるの。わかってたのよ。あたしとそんなに体格が変わらないことくらい。でも、あんなに小さいなんて。それで自分の倍以上の体重のある人を投げるんだもの。想像も出来ないわ」
「そう言う人さ。彼女は。すごいんだよ」
アリシアはとにかく混乱していた。そして興奮していた。
「ねえ、そろそろあたしにも誰と試合するのか教えてくれてもいいんじゃない?」
「え?言ってないの?」
「ああ、諸事情により直前まで言うのはよそうと判断した」
「なによ、諸事情って。あたしが何かするとでも思ったの?」
「ある意味……」
耕作はじっとジェシーを見た。仕事の時は真面目にしていてくれるから安心だが、仕事以外だと何をするかわからない。柔に対して予想不能なことをされて止めれるかわからない。自分も今日は、何をするかわからないから。
「あたしと試合してくれるのは、なんとあの、ヤワラよ!」
「え?ヤワラってあのヤワラ?」
「ええ、オリンピックチャンピオンの」
「ワォ!どんな裏ワザ使ったの?」
「兄が交渉してくれて……」
ジェシーは「ふーん」とちょっと意地の悪い目でアリシアを見た。これだけの財力と権力があれば、非公式のチャンピオンと試合することも可能ということか。ジェシーはきっとお金が動いたんだろうと考えたが、アリシアは実のところ何も知らないのだ。
「さあ、とにかくアリシアは試合の準備だ。俺たちは取材の準備」
「ヤワラに会いに行くの?」
「いや、そっちは後でいい。俺は試合開始まで相手とは接触するつもりはない」
「何でよ?」
「いいだろう。ジェシーも試合前は控えろよ。聞きたいこととかあるかもしれないけど……」
むーっと口を尖らせるジェシー。
「だったらあたしも試合までは会わないわ。カメラのセッティングだけしてくる」
3人は道場に向かう。広い庭園は花も色とりどり咲いていて、小鳥や蝶も飛び交っている。吹き抜ける風は木々の隙間を通り抜け、ひんやりと気持ちいい。
道場と言ってたから、学校にあるような最低限の設備の道場だと思っていたが、それは思い違いだった。道場と言うには広く豪華で美しい作りで、おおよそ柔道をやるようには見えない。
「ここはね、スポーツをする場所なの。フェンシングとかバスケとかいろいろね。でも今は年中畳が敷いてあって、柔道しかしてないわ」
そういうアリシアは入口のドアをあける。中には誰の姿もなかった。
「あれ?誰もいないじゃない」
「道場には別室があってそこで待機してるのかも」
「それは好都合ね。あたし、カメラセッティングしてくる」
アリシアは小走りで道場に入り、良さそうな場所にカメラをセットした。そしてまた小走りで出てきた。
「ミッション完了。ささ、次はどうする?」
「試合は午後4時だから、あと15分だわ。あたしはちょっと体をほぐしておくから、2人は適当にしてて。あ、迷子にならないようにね」
そう言われると、道場から離れる気にはなれず、道場から見える位置にあるベンチに座り風に揺れる木の葉を眺めていた。
「何か様子が変よ」
「あ?」
「コーサク、何か隠してるでしょう」
「そうか?」
「間違いないわ」
「そうか。でも、今は言えない」
「なによ、それ」
「ジェシーの方も様子がおかしいぞ」
「どこが?」
「さあ、よくわからないけど。ただ、全然動じてないな。この場所に」
「は?なにそれ」
「まあ、いいさ。あー緊張するな」
それだけとは思えないような厳しい表情をする耕作に、ジェシーはこれ以上何も言わなかった。様子がおかしいのは耕作だ。
非公式の練習試合みたいなものとはいえ、柔とアリシアの試合に水を差すようなことはしたくない。出来れば試合後まで、耕作は自分の存在を柔に気付かれないようにしていたかった。
NYとは思えない長閑で美しい場所に、現実味を感じない。耕作はふーっと息を吐いた。