クラーク邸の庭園を歩く足音が聞こえる。レオナルドは自慢の庭園を柔に見せようと案内をしていた。試合の前だからどうしようかと思ったが、柔もNYにいることの現実味が感じられずにいたので、気がまぎれるかと思ったのだが逆にあまりのレベルの違いに圧倒されるばかりだった。
「とても綺麗なお庭ですね。広くて手入れも行き届いて」
「ありがとう、ヤワラ。普段、あまり客人を招待しないのでこうやって案内出来る事が嬉しくて堪らないよ。この庭はとても歴史のある庭なんだ」
「そうですか……」
流暢な日本語で話し、キラキラの笑顔で言われると眩しくて、こんな素敵な場所なのに道着を着て歩いていることが不釣り合い過ぎて悲しくなる。
道場へ戻る道を歩いていると、さっきまで誰もいなかったベンチに腰掛ける人が2人、背中しか見えないがこのクラーク邸で働いている人とは思えない。
「さあ、こちらですよ」
柔は視線を戻すと、何か引っかかるものを感じながら道場に入った。すると中にはカメラがぽつんとセットされ、とても違和感があった。
「あの、カメラが……」
「アリシアが友達を招待したようです。カメラマンをしていて記念に撮って貰うと言ってました。構いませんか?」
「ええ。外に出さないで頂ければ」
「それは約束します」
その言葉に柔は安心した。結局、NYにいることを耕作に知らせることが出来ないでいる。もしかしたらこのまま帰国することにもなりかねない。万が一、どこかからこのことが漏れて耕作の耳に入ったらなんと思われるだろう。薄情な女だと思うかもしれない。それは避けたかった。
「なんぢゃ、カメラの用意をしておったのか」
滋悟郎が騒々しく道場に入ってきた。庭園には全く興味のない滋悟郎は控室として用意された部屋で食事をしていたようだ。
「ええ、アリシアさんの友人が来ているみたいで」
「そうか。なんならもっと派手に呼んでもかったんぢゃぞ」
「それは次回ということで」
すると入口に人影が見えた。赤毛のその人はカメラの方へ真っ直ぐ歩いて行き、手を振った。特に紹介はないがアリシアの友達だろう。当のアリシアは試合前で集中していているようだった。アリシアにとっては本気の公式戦のようなものなのだ。
試合用に境界線を引いてある赤い畳に滋悟郎が入る。今日は審判を務めることとなった。そして柔、アリシアが続く。アリシアは最初に握手をした時とは全然別人のように目つきが鋭く、落ち着いていた。
静かな道場で滋悟郎が審判をするこの感じ。ジョディをはじめて自宅の道場で試合した時を思い出した。あの時は境界線の代わりに耕作と鴨田が隅に座ってくれていた。
ジョディの怪我で決着がつかなかったあの試合。約束を交わしたことで柔は柔道をし続けていたとも言える。あの頃にその約束がなければ、柔道をやめていたかもしれないと思うときがある。
ジョディとの決着がついたのはそれから5年後、バルセロナ五輪での無差別級の決勝。長い長い約束のあと、柔は柔道を辞めなかった。柔道が大切だと思った。柔道が好きだと感じた。そう思わせてくれたのは多くの人だけど、そこまでの道を拓いてくれたのは一人だ。
「礼!」
滋悟郎の声が響く。お互いに礼をする。
「はじめ!」
少しのにらみ合いをして先に動いたのはアリシアだ。奥襟を取って技を仕掛けるが柔はそれを交わして一本背負いに持ち込む。しかしそれもタイミングが合わず不発に終わる。その後もアリシアは攻め続けるが柔はそれを受けながすようにしていた。決して手を抜いているわけじゃないが、本気と言うことでもない。
まるで、指導しているような試合だ。世界で戦うということを教えるかのように、柔はアリシアの技を返している。
そして試合開始から1分半。アリシアは腰車を仕掛けようとしたとき、柔はいつものように相手の懐に入り込み目にも止まらぬスピードで一本背負いを決めた。
畳にたたきつけられたアリシアは呆然とした表情で天井を見ている。そこに柔が覗き込み手を差し出す。
「大丈夫?」
アリシアは驚いたまま柔の手を取る。そして思わず抱きしめる。
「すごいわ!こんなの初めて!ヤワラ、全然本気じゃないのにあたし手も足もでないもの。世界の壁はこんなにも高いのね」
興奮冷めやらぬアリシアに滋悟郎は礼をするように言い、アリシアは慌てて礼をした。
「本当にどう言ったらいいのかしら。すごいの!今までやってた柔道は何だったのかって思うほど感覚が違うわ」
「それはいつも同じ人と試合してたからね。対戦相手はそれぞれ違うからその相手によって戦術が変わるものだから」
「経験って必要なのね。でも、あたしはこれで十分よ」
「本当?世界で戦ってみたいとは思わない?アリシアさんはもっと強くなると思うわ」
アリシアは悲しそうな顔をする。閉じ込めていた想いが飛び出してしまいそうになる。
「そうかしら……でも、あたしはこれ以上は無理よ」
柔はなぜアリシアが公式戦に出ないのか理由を知らないからこれ以上何も言いようがなかった。しかし、レオナルドはアリシアをこのままにはしておけないと思っていた。
「ヤワラは逃げないぞ」
「え?」
「もしこのまま君が柔道を辞めたら、一生ヤワラとは戦えない。でも、ちゃんと試合に出てアメリカ代表にでもなればまたヤワラと戦える。そうだろう?」
「そうだけど。あたしがアメリカ代表何て……」
「何もしない内から無理だと諦めてるのか。君らしくもない」
「あたしらしいって何よ。あたしはずっとこんな風にいろんなものを諦めてきたわ」
「それは家や親のためか?」
「そうよ」
「僕のためでもあるか?」
「…………関係ないわ」
「アリシア、聞いて欲しい。僕のわがままで君に沢山迷惑をかけてきた。それは自覚してる。だからこそ、君が諦めずに続けている柔道を君が望むように続けて欲しい」
「あたしは、これで満足だって言ってるじゃない」
「一度だけヤワラと戦えて満足かい?それは嘘だ」
「嘘じゃない。これであたしは吹っ切れる。柔道を辞めて……」
「結婚出来るかい?」
新キャラ登場です。
「レオナルド・ダヴィド」名前だけ何度も出てますね。ホテル王子でアリシアの兄です。元映画スター。日本語が話せるので柔と滋悟郎には基本的に日本語で話します。