vol.1 七夕の雨
柔道場から離れた門の手前。ジェシーは耕作に声をかけた。
「いいの?会って行かなくて」
「構わないよ。俺が聞きたい言葉は聞けた。柔さんがアトランタを目指すと言ったんだ。だからもう思い残すことはないよ」
「なに、それ?」
「そう思わせてくれる何かがあったか、誰かがいたってことだろう。でもそれは俺じゃないわけで……」
正直、柔とレオナルドが並んでいるところを見ているのが辛くて仕方なかった。お似合いの二人だ。水を差さない方がお互いの為だと思いその場を離れた。
耕作とジェシーは門を抜けた。
「アリシアからは俺から連絡しておくから、ジェシーは写真の方をよろしく頼むな」
「ええ。でも、コーサク。本当に大丈夫?」
「情けないよな。誰にでも、なんにでもツッコんでいく記者がこの様だ。話も出来ずに逃げ出すように背を向けたんだ。俺はもう会わせる顔がないよ」
「……なぐさめて欲しいの?」
愚か者を見るような目でジェシーは言う。
「そんなつもりはないよ。じゃあ、頼んだ」
「わかったわ。また連絡する」
ジェシーはそのままバイクに乗って行ってしまった。耕作は自転車のある公園に向かって歩き出すが、久し振りに見た柔と柔道のことが頭から離れない。その姿を振り払うように歩き続けて、どれくらいの時間が経っただろうか暑さで汗がシャツが貼りつく。
公園に入って来て、いつも座るベンチに座ると涼しい風が吹いた。
「今日は二度目だね。コーサク」
振り返ると、初老の日本人男性がいた。以前、ここで出会った人で、それから何度か出会うことがあって、他愛ない話をした。彼は30年前に渡米して以来NYに暮らしている、耕作の大先輩だ。今朝もここで雑談をした。
「量助さん、散歩ですか?」
「まあね。涼しくなる頃だから、ちょっと出てきた。そしたら君があんまり元気なくベンチにいるから声を掛けずにはいられなかったよ」
優しく笑う量助は耕作の父親と同じくらいの年齢で、勝手に父親のように感じていた。張りつめていた心が緩みそうになる。
「今日は日本で言うところの七夕だね」
思わず空を見上げる。数時間前まで晴れていた空は今は厚い雲に覆われている。日本では大抵、雨が降る七夕。織姫と彦星はアメリカの空でも会えないのか。そう思うと、切なくなる。
「俺はね、日本にいたある日、友人にアメリカで柔道を教えないかと言われて直ぐに渡米したよ」
自分語りはほとんどしない量助の話を耕作は不思議そうに聞いていた。
「当時、柔道から離れていてその生活が物足りなくて、友人に誘われた時は仕事もしてたけどアメリカ行きを迷いなく決めたんだ」
「俺もそうでした。俺は仕事でしたが、好きなことで力を試せるなら迷い何てなかった」
「男ならそんなものさ。でも俺はね、もう一つ理由があったんだ」
「理由ですか?」
「日本で出会った女性がアメリカにいて、彼女に会いたくてね。まあ、妻なんだが……」
自分から話しておきながら照れている。量助もなぜこんなことを話しているのか自分でもわからないようだった。
「さっきも言ったが、日本にいる理由がなくてね。彼女はこの先、日本に行く予定もなかっただろうしそうなると今生の別れと言うことになる。そう思うと、堪らなくてね」
「だから渡米した……」
「タイミングだね。自分の中の二つの思いが動かした。柔道がしたい、彼女を諦めたくない。彼女との結婚には多くの障害があったけど一つずつクリアしていったさ。俺は彼女こそがたった一人の人だと思ったから。彼女の全てを、彼女の愛するもの全てを守ろうとおもったんだ。そのためには待ってたんじゃだめだと思った。まあ、七夕伝説みたいに約束してたわけじゃないから、日本にいたら本当に会えないままだっただろうけど」
「なんでその話を俺に?」
「コーサクの背中が日本にいたころの俺に見えたんだ。それだけだよ」
「あの、奥さんは量助さんのこと……」
「ああ、もちろん想っていてくれたさ。まあ、賭けみたいなものだったけど」
「賭け……」
「男ならたまには賭けに出るのもいい。それで負けても今よりずっと気が晴れるさ」
量助は腰を上げると耕作の肩にポンと手を置き、「グッド・ラック」と言い去って行った。そして量助の足音が消えたころ、耕作の頭に雫が落ちてきた。見上げると、灰色の雲は雨を落とし始めたようだったが、耕作は勢いよく自転車に乗り走り出す。
目的地はクラーク邸。雨に勢いは増し、体はずぶ濡れ。雨を吸った服は重くそれでも必死にペダルを漕ぐ。緩やかな坂が憎い。滑るグリップのせいで力が入らない。でも、真っ直ぐ前を向いて進む。
「俺は、諦めたくなんだ!」
その声は雨音にかき消されたがその思いは消えない。消せない。
新キャラ登場しました。
「量助」は初老の日本人男性です。この人にはモデルがいます。