クラーク邸に着くと、チャイムを押して最初にアリシアを呼び出した。しかし、アリシアは不在でここにいるのは使用人ばかりだという。耕作はどこに行ったのか聞くと、テンプルトン・ホテルにいることを教えてくれた。
思い出す、一昨年のクリスマス。柔が初めてNYに来た日。テンプルトン・ホテルに予約が取れてなくて愕然とした。高級ホテルにいることの気まずさ、自分の覚悟のなさなど様々な思いが交錯したあの日。柔は確かにそばにいて、笑ってくれた。あらためて存在の大切さを知ったし、守りたいと思った。
――俺を選んでくれたのに、俺は突き放した。嫌われても仕方ないけど、まだチャンスがあるなら、間に合うなら話がしたい。
雨の中、自転車を漕ぎ続ける。雷鳴が轟きNYにしては珍しい天気だ。それでも耕作は諦めなかった。
ずぶ濡れのまま、高級ホテルのフロントへ走り込む。ベルボーイが慌てて止めに入るが、振り切ってフロントスタッフに聞いた。
「ヤワラ・イノクマがいると思う。呼んでくれないか」
「申し訳ございません。出来かねます」
「松田が来たと言ってくれればいいんだ」
「申し訳ありません」
「じゃあ、レオナルド社長がいるはずだ。彼に繋いで……」
そう言って、虚しくなる。ホテルのフロントスタッフがそんな要求をのむわけないのに。頭のおかしい奴だと思われても仕方がない行動をとっている。下手した警察に通報されるかもしれない。
「マツダ様ですね。社長より伝言をお預かりしております」
「へ?」
「コーサク・マツダ様ですよね?」
「はい……」
ポカンとする耕作。何が何だかわからない。
「『ヤワラはここにはいない。思い当るところは他にはないのか?』だそうです」
「どういうことだ?」
「もう一度、お聞きになりますか?」
「いや、ありがとう」
絨毯をびしょ濡れにしながら耕作はホテルを出た。放り出した自転車もすみの方に立てかけてあり、仕事をしていたベルボーイに謝罪して出て行った。
――ここにいないってどういうことだ? ホテルが違うのか? でも、さっき聞いたから間違うわけがない。
耕作は再び自転車を走らせた。柔との思い出。NYではそんなに多くはない。思い出さないようにしていたけど、耕作は柔との楽しい日々を思い出す。
「自由の女神……」
雨はまだやまない。薄暗い中、バッテリーパークに向けて自転車を走らせた。雨が顔に当って痛む。目に雫が入るたびに目の前が滲む。
バッテリーパークはこんな天気だし、夕方なだけあって人影はまばらだ。自転車に乗ったまま柔を探すが見当たらない。まさかリバティ島に行ってるなんてことはないだろう。小さく霞んで見える自由の女神に少しだけ、願いを書けるように見つめ耕作は再び走り出した。
買い物に行った場所。食事をした店。でも、一番の思い出はあの場所だ。
もうすでに自転車を二時間近く漕いでいる。その場所に着いたときには足がガタガタだ。
「はぁ……はぁ……ロックフェラー……センター」
夏のこの時期にクリスマスツリーなどない。スケートリンクだった場所はレストランになっているが、あいにくの雨でそれも今日はないようだ。
自転車を降りて柔と背格好が似た人を見ていくが、ここにもいなかった。
「入れ違いになったのか……」
ビルの隙間から空を見上げる。高層ビルが耕作を嘲笑うように見下ろす。強い雨に灰色の空は耕作の心のようだった。
もう一度、ホテルに行く気力もなくし力なく自転車に跨り、自分のアパートに向かう。体が重い。こんなにも、前に進むことが辛いと感じたことがない。
アパートに着いてびしょ濡れなのも構わず、自転車を引いてエレベーターに乗った。大きな音がする古いエレベーター。酷く揺れる内部はいつも冷や冷やしていたが、今日は何も感じない。
ドアが開く。廊下の照明は先週から切れかかって、チカチカしている。誰も何もしないのだろうかと思う。そういう、耕作も何もしない。天井から視線を自分の部屋に戻すと見慣れないものがある。
基本、部屋の前には物は置かない。でもそこには膝を抱えてうずくまる人影が見えた。顔は見えなかったが、耕作の願望がその名を呼んだ。
「柔さん……?」
その人影は声に反応するように顔を上げた。そして立ち上がる。
「松田さん……」
耕作は慌てて駆け寄る。自転車は廊下の壁に倒れた。