「柔さん、どうして……それにこんなに濡れて」
「松田さんの方こそ、びしょ濡れですよ」
「俺はいいんだ。でも……とにかく中に入って」
ドアを開ける。埃と湿気の匂いがする。照明を点けると、意外にも片付いていた。
「夏とは言え濡れたら寒いだろう。シャワー使うといいよ。タオルと着替えは用意しておくから」
「松田さんの方が酷い濡れ方ですよ」
「俺はいいんだ。さあ、早く」
強引にシャワールームに柔は押し込んで、耕作はタオルと着替えを扉の前に置いた。床に滴る雫に気付いて自分もタオルを頭からかぶる。
「まさかここにいるなんてな……」
NYに柔がいる時、いつも耕作は一人で出かけることを危ないと言っては制限していた。その思いは今も変わらないが、だからこそ柔はここに来たのかもしれない。都合のいい解釈に頭を振る。レオナルドの伝言といい、わからないことだらけだ。
考えがまとまらず、ぐるぐると思考がめぐる中、柔がシャワールームから出てきた。
「ありがとうございます」
「いや、ごめん。随分、待たせたみたいで」
柔の服は濡れてはいたが、びしょ濡れと言うことはなくちょっと乾き始めているようだった。アパートに来て相当の時間が経っていたということだ。
「そんなことないです。あたしが勝手に来ただけですから。それよりも松田さんの方がびしょ濡れじゃないですか。シャワー使った方がいいんじゃないですか」
「あ、ああ。とりあえずそうさせて貰う。飲み物とか好きに飲んでいいから」
「ありがとうございます」
耕作は着替えを持ってシャワールームに入った。シャツを脱いで絞ると染み込んだ雨が滝のように流れた。冷えた体を温めてこの後のことを思う。
別れの宣告はもう直ぐだ。優しい彼女は自然消滅を望まず、けじめを付けに来たんだ。そう思うだけで胸が痛くなる。アパートに戻って来なきゃよかったと思うほどだ。そうしたら会うことも無く、何となく終わったかもしれないのに。
耕作は体を拭いてシャツを着た。まだ肌が湿ってべたっとするが、雨に濡れたいた時に比べれば気持ちがいいくらいだ。
部屋では柔が椅子に座って耕作が来るのを待っていた。髪はまだ濡れていた。首にかけたタオルに雫が流れる。
「何か飲むかい?」
突然言われて柔は顔を向ける。
「あの、お構いなく」
「そう言うわけにはいかない。コーヒーでいい?」
「いただきます」
インスタントのコーヒーは香りが弱く、一瞬の後には消えてしまう。
「ミルクと砂糖は?」
「いえ、大丈夫です」
テーブルに二つのマグカップ。そして流れる沈黙。お互いに言葉が出てこない。
窓の外は雨音、時計の針が進む音も聞こえる。聞きたいことはある。言いたいこともある。でも、声が出ない。
その時、ドアをノックする音がして耕作が応答すると、隣人の老婆が廊下にいた。
「コーサク。自転車を動かしてくれないかしら」
放置したままの自転車のせいで廊下が狭くなっている。耕作は慌てて自転車を中に入れた。雨で濡れた自転車だが、少し時間も経って乾いて来ていた。室内に入れても床がびしょ濡れになるようなことはなさそうだった。
再び柔の前に座る耕作。そして意を決して言葉を吐く。
「「ごめん」なさい」
二人の声は重なった。そして二人とも顔を合わせて首を傾げる。
「何に謝ってるんだい?」
「松田さんこそ、何を?」
何かがかみ合わない二人。先に話しはじめたのは柔だった。
「松田さん、あたしがNYに来てたこと知ってたんですよね?」
「ああ。まあね。知らせなかったことを謝ったの?」
「ええ。急だったんで電話も出来なくて。でも、電話出来る時間があったとしても、かけていたか分かりませんが」
「どうして?」
「松田さん、あたしのこと……もう……嫌いになったんじゃないかと……」
泣きそうな柔のその言葉に、耕作は耳を疑う。
「どうして俺が君を嫌うんだい?」
「だって、電話もくれないし手紙もないし。あたしのことなんか、もう見限ってしまったんだと」
「待って! 俺は電話もしたよ。手紙も書いたよ。そりゃちょっと気まずくて頻繁にしたわけじゃないし、手紙も一通だけだけど」
「電話何てなかったです。手紙も。お母さんに聞いたけど、見てないって。それに手紙もおじいちゃんが持ってるかもしれないから、いないときに探してみたけど何もなくて……」
「いや、確かに電話をしても誰かが出たわけじゃなくてコール音しかしなかったけど。でも、それがずっとだったから……俺の方こそ避けられてるんだと思ってたよ」
「手紙は届いてませんか? 1ヶ月ほど前に書いたんですけど」
「いや、届いてないよ」
「そう……ですか」
柔はコーヒーを一口飲む。苦い味が口に広がる。
互いに嘘を言っているとは思えない。だから電話も手紙も何か不運が重なったせいかもしれないと思い、これ以上はこのことを深堀しなかった。
「松田さんは何を謝ったんですか? 試合に来てたのに顔も見せなかったことですか?」
「気づいてたんだ。俺が今日見に行ってたの」
「はい……試合前にお庭のベンチに座ってましたよね。もしかしたらって思ってて、アリシアさんがジェシーさんの名前を呼んで確信しました。でも、声も掛けないで帰ってしまったのであたしのこと、本当に嫌いになったのかなって……」
「さっきから俺が君を嫌うって思う理由が見当たらないんだけど。どうしてそんな風に思ったの? 俺の方こそ、君を突き放すようなことを言って完全に見捨てられたんじゃないかと思ってたくらいだよ」
「見捨てる……? そんなことありません! 松田さんが言ったことは正しかった。あたしの方が甘えていたんです。そんなあたしを面倒だと思って、見限ってしまっても不思議じゃないって思ってたから……」
「俺が君を見限ることなんてありえないよ。俺は俺のわがままでアメリカに行ってるのに、柔さんの淋しいって気持ちを受け止められない小さい男で、そんな俺を君が見捨てても仕方ないって思ってたんだ。だから今日も顔を出さなかった。いや、出せなかった」
「やっぱりあたしがNYに行くこと言ってなかったから。そんな勘違いをしてしまったんですね。でも、本当に急に決まって。気づいたら飛行機に乗ってたんです」
「ちょ、ちょっと待って。NYに来たのは何のため?」
「アリシアさんの試合のためですよ」
「よくそんなこと引き受けたな。滋悟郎さんもそうだけど」
「あたしも驚きました。おじいちゃんはこういうこと絶対に断るのに、レオナルド社長が直談判しておじいちゃんを説得したみたいなんです」
「え? 君に頼んだんじゃなく?」
「もちろんあたしにも話は来ましたけど、あたしだけで判断出来る事じゃないし。おじいちゃんの許可がないと……って言ったら許可は貰ってるっておっしゃったので」
「それいつのこと?」
「日本を発つ前日です」
「それ以前に、レオナルドとは知り合いだったの?」
「まさか! うちの社長の命令で会食してそこで知り合ったんです」
「ちょっと待ってて」
耕作は仕事部屋に行ってみたくなくて伏せていたFAX用紙を持って戻った。
「これ見て」
その記事を見た途端、柔は驚いて目を丸くした。そして耕作の方をみた。