vol.1 幸せな朝
夜が明けてNYの街が動き始めたころ、柔はテンプルトン・ホテルに電話をかけた。滋悟郎に繋いでほしいと頼んだのだが、伝言を預かっていると言われ聞くと柔は驚いて固まってしまった。
「どうしたの?」
その様子に耕作が受話器をとると、相手が困っていたのでとりあえずお礼を言って電話を切った。
「柔さん?」
「レオナルド社長がおじいちゃんにあたしはアリシアさんと一緒にいるということにしたって。今日も飛行機の時間まではアリシアと観光してるって言ってあるから、ご自由にって」
「は? じゃあ、滋悟郎さんは俺のところにいること知らないってことか?」
「そうみたい。でも、どうしてレオナルド社長がそこまでしてくれるのかしら? あたしと松田さんのこと知ってるわけないのに」
「いや、昨日も俺がホテルに行ったとき伝言があるって言われて不思議だったんだ。面識のない俺に何で伝言なんかって。俺がホテルに行くことも想定してたのか」
柔はあまりの恥ずかしさに顔を手で覆う。
「え? どうした?」
「だって、あたしが昨日からここにいるってレオナルド社長は知ってるんですよ。しかも帰らないことも想定してたってことは……」
二人がどうなったかも予想されてたわけだ。でも、何故知っていたかということがわからない。
「事前調査でもしてたのか……アリシアと試合させるために、調べていたということも考えられる。滋悟郎さんがすんなり試合を受け入れた理由もわからないし、何か弱みでも……あ!」
「どうしたんですか?」
耕作は思い当ることが一つだけある。
「俺の後任の野波ってどう?」
「どうしたんですか、急に?」
「いや、ちょっと気になって」
「どうって別に他の記者さんと変わらないですけど。松田さんほど取材に来ることも無いですし。試合会場と柔道部で少し話すくらいですね」
「ああ、そうなんだ。いや、俺は会ったことないんだけど記事は読むんだ。それでなんか結構棘のあるやつかなって思って」
「棘? そんなの感じたことないですよ。いつもニコニコしてるイメージです」
「ああ、そうなんだ。じゃあ、プライベートなこともあまり話さない?」
「はい。いつも邦子さんが一緒ですし、松田さんのことも話したことはないですよ」
「そうなんだ……」
野波がこのタイミングでNYにいることが耕作は引っかかってた。柔の口ぶりからだとNYでも接触はなさそうだ。もしかしたら野波とレオナルドが共謀しいて何か企んでいるのかもしれないとまで考えたが、思い過ごしだったかもしれない。
「松田さん?」
「何でもないよ。ちょっと得体の知れないところが気味悪いなと」
「野波さんですか?」
「いや、レオナルド社長さ。きっとアリシアと柔さんを試合させるために、日本に行って鶴亀の社長に会食をセッティングさせたんだろうと思う。熱愛記事までは彼の予定内だったのかはわからないけど。そもそもたった2日間しか会ってないのにどうやってあんな写真を撮れたのか。これも偶然居合わせたのか。そんなに人目の多い場所だったの?」
「そんなことはないと思いますよ。ディナーの場所も当日に知らされたというか、連れて行かれただけなので」
「連れて行かれた?」
「ええ。仕事と柔道部の稽古が終って着替えに帰ろうと思ってたんですけど、秘書の方が迎えに来て下さって洋服も用意されてたのを着てお店に行ったんです」
「ということは、店のことを知ってたのはレオナルドサイドのみか」
「そういうことになりますね。でも、もしかしたらおじいちゃんは知ってたかも」
「どういうこと?」
「アリシアさんとの試合のこと、あたしは自分の独断では決められないと言ったらもうおじいちゃんには許可貰ってるって。家に帰って確認したらそうだって言って、その翌日には飛行機に乗ってました。会社には事情を話して休暇を貰ったと言ってました」
「手回しのいいことだな。でも滋悟郎さんが店を知っていたとしてもそれを記者に言うわけがないからな」
「それに正確な名前も場所もおじいちゃんは覚えてるわけないですし」
「それもそうか」
横文字には疎い滋悟郎がフランス料理店の名前を憶えている方が不思議だ。
「あの、シャワー使ってもいいですか?」
「ああ、いいよ。服乾いてるといいけど」
柔がシャワーに行ってる間、耕作は日刊エヴリーに電話をした。出たのは知り合いの記者だが直ぐに邦子に代わって貰う。
「もしもし、どうしたの?」
「野波は?」
「まだ戻ってないわ。それどころか連絡もないわ」
「スポーツ東京のあの記事の詳細ってわかったか?」
「それがね、なんかおかしいのよ」
「おかしい?」
「うん、あのね……」
邦子から聞かされたことはあまりに不可解なことだった。耕作の中に疑念がまた深まる。
「ところで柔ちゃんがここ数日行方不明なのよ。家の電話は前から繋がらないけど、家にもいないし会社にも行ってないの。熱愛記事が出て雲隠れしたにしてもおかしいじゃない。もう、どうなってるのかしら?」
「それなら心配いらない」
「何でわかるの?」
「柔さん、NYにいるから」
「は? どういうこと?」
「事情は言えないけどNYにいて、ちゃんと話もしたから」
「そう言うことならいいんだけど。おじいちゃんもお母さんもいるの?」
「滋悟郎さんは一緒だけど、玉緒さんはまたフランスへ行ったようだよ」
「それなら安心だわ」
「でも日本に戻ってから大変だろうな」
「それは大丈夫よ」
「どうして?」
「昨日、レオナルド社長と鶴亀の社長さんが連名でマスコミにFAXを送ってきて、二人の間には何もなくただ食事をしただけだって言ってくれたの。それを信じられる根拠もあってマスコミも世間も落ち着いたわ」
「そうか。それなら安心だ」
「じゃあ、忙しいから切るわ。柔ちゃんによろしく~」
全て見透かすような口調で邦子はそう言って電話を切った。耕作はさっきの柔の慌てようを実感した。察しがついている状態で何も言われないことがとてつもなく恥ずかしいし、言われても恥ずかしい。
「松田さん?」
「おわ! どうした?」
「シャワーありがとうございます。服も乾いてました」
見ると柔は着替えていた。
「じゃあ、飯でも食いに行こうか」
「はい」
それから二人は近くの店で朝食を食べて、散歩しながらゆっくりアパートに戻った。手を繋いで幸せな時間をかみしめるように。