「ラスティじゃないか?」
耕作がそう言うと野波は勢いよく振り返る。
「なんで……」
「俺だって記者さ。お前よりもはるかに経歴が長い。NYに来て何もしないでいたと思うのか。女子柔道の最大の功労者である彼女を取材しないわけないだろう」
「でも、新聞には全く記事もでなくて」
「本当は日本でもっともっと取り上げられるべき人だし、知っておかなきゃいけない人なのにほぼ無名さ。知る人ぞ知るってやつだ」
「そ……そんな。じゃあ、猪熊さ……柔さんも?」
「いや、柔さんは会ったことないよ。でも、俺が話したからまたNYに来た時に会いたいって言ってた」
「そっか……そうなんだ。僕はラスティのことも知らないで自分が女子柔道を牽引しているみたいな彼女を認めたくなかった。誰のおかげでバルセロナ五輪で女子柔道が開催されたのか、誰のおかげで今の女子柔道があるのか。それを知らないで金メダルだの国民栄誉賞だと言って欲しくはなかった」
「その気持ちは理解できる。俺もラスティを知った時、心底驚いて自分の無知さ加減に落胆した。世界の女子柔道の礎を築いたのは彼女だったんだと感謝したほどさ」
「そんなことも知らんかったのか、松田よ」
滋悟郎があきれ顔で言う。だが野波はこの老人がラスティのことを知っているのが信じられなかった。
「猪熊さん、知ってたかのような口ぶりですね」
「当然ぢゃ。ラステーが日本に来た時、凄いおなごがアメリカから来たと話題になっての。わしもカネコと見に行ったんぢゃ」
「たしか、虎滋郎さんも一緒に行ってますね」
耕作はカネコの日記を読んでラスティを知り、NYで居場所を探したのだ。
「そうぢゃ、そうぢゃ。ラステーは男子に交じって稽古をしておった。大きなおなごでな根性もあって誰よりも稽古に励んでおった」
「だったらなぜ、あなたも日本の柔道家たちもラスティにもっと感謝しないんだ。彼女はとてつもない努力で今の女子柔道の環境を整えてきた。誰もなし得なかったことだ。そのおかげで柔さんもオリンピックに出られたし、名声も得た。まるで日本のもののような扱いだが、その発展を進めたのは誰でもないラスティというアメリカ人だというのに」
野波は納得いってなかったのだ。日本での女子柔道の扱われ方は、ラスティと言う存在を無視しているかのようだ。さも自分たちの力と努力でオリンピックへの公式種目へ選ばれ、それを盛り上げているかのように見えた。
「野波よ。多くの日本人がラステーを知らないことは無理もないことぢゃ。なぜならお前らのような職業のものでさえも知らないものが多い。そしてそれを伝えることをしないからぢゃ」
「どうしてしないんですか? あなたは知っているのに」
「わしが言う必要がどこにある。自分のしたことを自慢したいなら、自らの口で語ればいいぢゃろう。それをしない者のことをわしがベラベラ話す必要はないぢゃろう」
「ラスティはそういうことを、自分から話す人ではないです」
「だったらそれでいいではないか。知っている人が知っていればいいということではないか?」
「でも、僕は日本人が誰もラスティのことを知らないでいることが許せない」
野波の言葉に耕作は静かに問う。
「じゃあ、アメリカ人はみんなラスティのことを知ってるのかい? そして日本人があまり知らないことにみんな腹を立てていると?」
野波は黙り込む。アメリカではさほど柔道は人気がなく、女子柔道に関しても日本ほど盛り上がる競技ではないのだ。
「アメリカで柔道はまだマイナースポーツで、バルセロナ五輪で柔さんとジョディのあの試合で始めて認知した人もいるはずだ。だがそれだけで終わってしまうんだ。アメリカには多くの刺激的なスポーツがあって、小さな柔さんが大きなジョディを投げるのは見ていて面白いがそれをアメリカの柔道家が出来るわけでもない。そうなると次第にその興味は薄れてしまうだろう」
「じゃあ、もっとアメリカ国内で柔道人気を上げればラスティの名も知られ、日本にも届くということか?」
「そうかもしれない。でもな、ラスティがそれを望んでいるかはまた別の話さ」
「望んでないと?」
「わからないよ。でも、アメリカ人ってお前みたいに誰かの行った偉業とか大好きで、すぐにテレビや映画にして感動させようとするだろう。でも、そう言うことがないってことは本人があまり望んでないようにも感じるんだ」
チラッと滋悟郎を見る。この人は、何かと自分の本を宣伝するほど自己顕示欲が強いが、世の中そう言う人ばかりではない。
「なんぢゃ? 松田」
「いや、別に。で、野波、お前の望みはラスティのことを日本人に知って貰えればいいのか?」
「そうです。それが望みです」
「よし、わかった。今度柔さんの本を日本でも出版することになったから、その中にラスティのことを入れようと思う。もちろん本人がそれを許可してくれればだけど」
「本当ですか?」
「ああ、だからもう少し待っててくれないか?」
「わかりました」
「まとまったところで、柔にちょっかいかけておる愚か者が誰か吐いて貰おうか」