vol.1 静岡へ
身も心も満たされて日本に戻ってきた柔は、耕作たちの心配も知らず日常生活に戻っていた。NYにいた数日の間に熱愛記事騒動が起こっていたが、すでに沈静化して記者に追いかけられる心配はなかった。
会社と柔道部の女性たちからはレオナルドについて訊かれることもあったが、熱愛の真相よりもどんな人だったのかなどミーハーな質問ばかりだった。
7月下旬になり、学生は夏休みに入りそろそろ旅行代理店はお盆休みで忙しくなる時期になる。柔も社員なので他人事ではないが、やはり柔道が優先であるのでそこまで事務仕事や接客には関わらないので他の社員に比べればのんびりとしている。そのタイミングで柔は富士子に会いに静岡へ行った。
東京からは2時間とかからない距離で富士子の地元である伊東駅に到着し、柔はこじんまりとした駅から外に出た。夏の直射日光が眩しいロータリーには南国感溢れる植物が植えられていて、東京育ちの柔には不思議な感覚だった。しばらくすると一台の白い軽のミニバンが滑り込んできて柔の前で停まった。
「猪熊さん、こっちよ」
助手席の窓が開いて高いよく通る声が聞こえた。そして懐かしいあの富士山みたいな髪型の富士子が笑顔で出迎えてくれた。
「富士子さん、免許……」
「とったのよ。田舎は免許がないと不便だから。それよりも乗って乗って」
助手席に乗り込む柔。シートベルトをしてエアコンの涼しい風に息をつく。
窓からの景色は何となく寂しく、歩く人の影もまばらだ。
「田舎で驚いたでしょう」
「そんなことは……」
「いいのよ、気を遣わなくて。だってあたしが東京に出た時、人が多くて驚いたし」
「そっか……」
富士子はこの街に合わせているのか、東京にいた時よりも落ち着いたファッションで短大生の頃とはお互いに変わってしまったんだと感じてしまう。
「花園くんとフクちゃんは元気?」
「もちろんよ。病気一つしないわ。強いのよね。あ、そうそう家に行く前に寄り道していいかしら?」
「ええ、どこに行くの?」
「花園くんの職場よ。水筒忘れちゃって」
「夏休みでも学校か……先生も大変だね」
「そうなの。新任だし花園くん自体も張り切ってるから応援したいじゃない」
「わかるわ……ん? どうしたの? 富士子さん、そんな顔して」
富士子は前を向いてはいたが、ニヤリと笑っていた。
「猪熊さん、わざわざこんなところまで来て、何かあったんでしょう。しかもいいこと。さらに松田さん関連!」
「す、鋭いわ!」
「で、何があったの? 今さら言えないなんて言わないでよ」
「あの……ね……」
柔は照れながら今までの耕作とのことを話した。今年の初めのことは既に電話で話していたが、その後については特に話すことも無く富士子も聞くことはなかったが心配はしていた。だからこそ、二人の仲が上手く言ったこと、更にやっと結ばれたことを知って富士子は涙を流して喜んだ。
「富士子さん、そんな、泣かなくても」
「何言ってるの……こっちがどれだけ……じんぱいしたとおも……って」
「ごめんね、いつも心配かけて。でも、もう大丈夫よ。あたしも松田さんも……」
「そうね。でも、松田さんはいつまでアメリカにいるのかしら?」
「わからないわ。松田さんもアメリカでの暮らしに慣れてまだまだ記者として向こうにいたいみたいだし」
「結ばれても離れ離れじゃ、寂しいわね」
「うん……でも、また会いに行くから」
「そうね。猪熊さん、随分強くなった気がするわ。前は松田さんがいないと試合もままならなかったのに」
「あの頃は自分に素直じゃなかったし、不安も多かったから。孤独だったのかもしれないし」
「孤独か……今もそう言う気持ちがあったら、あの社長さんとどうにかなってた?」
「社長ってレオナルド社長?」
「そうよ。新聞見て驚いたもの。猪熊さんの熱愛記事なんて松田さん以外でないと思ってたのに、まさかあんな有名人と出るなんて」
「あれはね、ウチの会社の接待みたいなものだから。レオナルド社長が日本の映画か何か見てお見合いしてみたいって言って、形式だけなんだけどそうしたの。あたしと食事したかったのも理由があってね、そのおかげでNYに行けたんだから感謝したいくらいよ」
「結果オーライってやつね」
そんな話をしていると車は坂を上っていって、セーラー服を着た学生とすれ違った。友達と楽しそうに話しながら、それがとても眩しく見える。
「学生っていいわね」
「あたしもたまにここに来るけどそう思うわ。でもそう思ったらもう大人なのよね」
富士子は来客用の駐車スペースに車を入れる。
「ちょっと行ってくるわね。エンジンかけたままの方がいい?」
「ううん。切っていいよ。何かあってもあたしじゃわからないから」
「そう? 暑いわよ」
「ドア開けておくから平気よ」
「鍵置いていくから我慢できなくなったら、エンジンかけてね。鍵さして回せばいいから」
「ありがとう」
富士子は後部座席から荷物を取って校舎の方へ走って行った。
柔はぼんやりと外を眺めている。学校に来るのなんて何年振りだろうか。初めて来るところだけど懐かしく感じる。校庭の広さとか生徒の声はどこもそんなに変わらない。中学生の時はまだ柔道のことを家族以外で知っている人はいなかった。普通の中学生として楽しく過ごしていた。でも、部活はしてなかった。特に興味もなかったのだが、柔道の稽古があったからそんな時間がなかったのだ。
「あれ、花園くん?」
富士子が向かったのと逆の方から道着姿の子供とそれを追うように花園が道着姿で走り過ぎた。何か言っているようだが聞こえない。このままいけば富士子ともあるはずだったのだが、今度は富士子が荷物を持って戻ってきた。そのままウロウロして逆の方へ向かって行った。これではすれ違ってしまうと思ったので、柔は外に出て車に鍵をして富士子を追いかけた。
「富士子さーん」
富士子が柔の方に顔を向ける。
「花園くん、逆方向に行ったわよ」
「え? さっき行ったら誰もいなくて」
「うん、すれ違ったんじゃないかしら? 学生さんと向こうへ走ってたけど」
「そうなの? もう、何してるのかしら」
柔は富士子の方へ駆け寄り、花園が向かった方へ追いかけた。
「道場にいると思ったのよね。部活の時、花園くんはいつもそこにいるから」
「さっき見かけたときは子供たちも道着を着てたから、道場に行ったんじゃないかしら」
「でも会わなかったのよね」
不思議そうに空を見る富士子。
そう言いながら歩いていると、小さいが歴史を感じさせる道場が姿を現した。しかし開け放たれた窓から、何やらただならぬ雰囲気の声が聞こえて、二人は覗き込む。中には花園と生徒が五人。何か揉めているようだった。
「先生は無謀です。僕たちの実力を知らないからこんな試合受けてくるんですよ」
五人の中で一番大きな体の内山が言った。
「何を言ってるんだ。お前たちはこの二年間一生懸命稽古して来たんだろう。その成果を試してみたいとは思わないのか!」
「負けるってわかってる試合に出たいと思う奴がいますか? それに僕は柔道初めてまだ3ヶ月ですよ」
今度は一年で背の低い皆藤が言った。
「負けることが決まってるわけじゃないだろう」
「決まってるんですよ。僕たちが体も小さいし、力も弱い。去年までは先輩がいたけど卒業してからは僕らしか残ってなくて、無理なんですよ」
背だけがひょろりと高い河合が言う。
「体の大きさも力も関係ない。それが本来の柔道だ。まだそれを習得できてないかもしれないが、投げられないとわからないこともある。負けないと越えられないものもあるんだ」
「きれいごと言うなよ。先生は背も高いし体も大きい。どんだけ頑張っても上手くならない俺たちの気持ちなんてわからないんだ!」
「遠山……お前、部長じゃないか。それなのにそんなこと言うのか」
一番体つきもしっかりしている部長の遠山ですら、試合には乗り気ではないようだった。でも、その言葉とは裏腹に目には熱があり、拳も握られていた。その事に違和感を覚えたのは窓から見ていた柔。
「とにかく試合は出来ません。実力差があり過ぎます」
「そんなことはないぞ。みんなの練習を見てたし相手にもなった俺が言うんだから間違いない。君達は強い。自信を持っていい」
その場にいた生徒たちはみんなその言葉に顔を一瞬輝かせた。嬉しかったのだ。でも、誰も試合に出たいと言わない。
「みんなごめん!」
黙って立っていた最後の部員が声を上げた。
「お前は黙ってろ。俺たちが何とかするから」
遠山がそう言ったが、黙ることはなかった。
「もう誤魔化せないよ。正直に言ってそれであたしも試合にでるよ」
「どういうことだ? それにその声……」
「先生。あたし、二年一組の沢井佳恵です。二組の沢井恵一の双子の妹です」
新キャラ登場です。中学校の生徒です。
「遠山」二年生(男子)部長
「内山」二年生(男子)大柄
「河合」二年生(男子)長身
「皆藤」一年生(男子)小柄な初心者
「沢井佳恵」二年生(女子)柔道経験者
「沢井恵一」二年生(男子)佳恵の双子の兄