「ただいま~」
柔は玄関を開けると、滋悟郎のとは違う大きな靴を見つけた。虎滋郎が帰ってきているのだ。だが、柔は直ぐに会いに行くことはせずに、台所にいる玉緒のところへ向かった。
「あら、早かったのね」
「うん。お父さん帰ってる?」
「ええ、さっきね。それでおじいちゃんに道場に連れて行かれちゃったわ」
「どうして!?」
「けじめだって言ってたわね」
道場には滋悟郎と虎滋郎親子が道着に着替えて向かい合っていた。その様子を柔は陰からこっそり見ていた。
「よくもぬけぬけと帰って来たな。お前が跨いでいい敷居などないわ!」
虎滋郎は黙っている。
「お前は父として、夫としての責務を果たさず、家を空け本来守るべき者らを傷つけた。その罪は重い!」
虎滋郎は無表情でまだ沈黙している。
「わしはそんな息子に育ててしまったことが心から悔しい! わしはお前を許すわけにはいかん。例え玉緒さんや柔がお前の帰りを歓迎したとしても、わしがお前を許すことはない!」
「それは家を出た時から覚悟していた。許して貰おうなどとは思っていない」
「ならば出ていくがいい!」
「やめて二人とも!」
柔は二人の間に割って入った。緊迫した道場の空気が変わる。
「なんじゃ、お前には関係ない話ぢゃ!」
「関係あるわ! お父さんが帰って来たのよ。どうしておじいちゃんが勝手に色々決めちゃうの!?」
「わしはこの家の大黒柱として、放浪息子を家に入れるわけにはいかんと言っとるんぢゃ!」
「でも、あたしは帰って来て欲しい! 一緒にご飯を食べたり話したり、柔道をしたいの」
「なぜじゃ! あれだけお前を悲しませたこの男をなぜ許せる!?」
「お父さんだからよ。ずっと、ずっと待ってたもの」
「柔、いいんだ。俺はお前を傷つけたんだ。身勝手に家を出て心配させて、本阿弥さやかのコーチになってお前をどん底まで苦しめた。だから、本当のことを言え」
虎滋郎の言葉に柔は迷うことはなかった。なぜなら理由をNYで耕作から聞いていたから。
「辛かったのも悲しかったのも本当。でも本当に悲しんだのはお母さんだもの。あたしがお父さんを投げたあの5歳の時、お母さんは道場の陰で泣いてた。こうなることがわかっていたのかもしれない。探し歩いて見つからなくていつも明るく振舞っていたけど、どこかでお父さんが死んでるんじゃないかって心配してた。だからあたしはお母さんが許すならいいの。あたしはお父さんのこと恨んでないから」
「柔……」
「お母さん! 聞いてたの?」
「ええ。ありがとう。そんな風に思ってくれて。でも私も全然お父さんを恨んでないわ。だから遅くなったけど家族みんなでお正月を過ごせたらいいなって思うの。ねえ、お義父さん」
穏やかな微笑みで滋悟郎を見る玉緒。
「う、うむ。玉緒さんと柔がいいと言うなら、家に入ることは許そう」
「おじいちゃん!」
「じゃが、虎滋郎! 二度目はないぞ!」
「ああ、すまない」
何とか和解したような二人は結局対戦することはなかったが……。
「柔! 道着に着替えんか! 稽古の時間ぢゃ!」
「ええー! 今から家族水入らずの時間でしょう」
「何を言っとるんじゃ! 遊んどった分を取りもどさんといかん!」
柔は押し黙ると「はーい」と渋々道着に着替えに行った。
その後、道場に残った三人は顔を見合わせ笑っていた。
◇…*…★…*…◇
稽古はしっかり2時間は行われた。いつもと違ったのは虎滋郎も一緒だったということ。フランスチームのコーチをしている虎滋郎がいてもいいのかという細かいことは気にしない。久しぶりに柔は稽古が楽しかったし、すっきりとした気持ちになれた。
夕食後、柔は玉緒と一緒に後片付けをしていた。
「ねえ、柔」
「なに?」
「さっき、道場であなたが五歳の時にお父さんを投げた時、私が道場の陰で泣いていたって言ってたでしょう?」
「う、うん」
柔は母の涙を見ている。その事は今も心に引っかかってる。
「あれはね、嬉しくて泣いたのよ」
「え? どういうこと?」
玉緒は穏やかに笑っている。
「私は柔道が好きなの。おじいちゃんもお父さんもみんな柔道をやってた。おばあちゃんもやってたのよ。とても強かったみたい。でも私は柔道をしたことがないの。向いてないって言われて」
「誰に?」
「お父さんに。実際、運動神経も、闘争心もないから諦めたのよ。その後、あなたが産まれて、私は少し不安だったの」
「不安?」
「もしかしたら運動神経のないような私に似た子供が産まれたんじゃないかって」
「お母さんはそこまで運動神経ないわけじゃないでしょ」
「体動かすのは好きだけど、スポーツはからきしよ。何やっても上手くいかなくて。だからあなたが柔道を始めた時は嬉しかったし、どんどん上手になって行くのを見て本当に喜んだわ。そしてあの日、あなたがお父さんを投げた時、私は猪熊家にふさわしい子供を産めたことを心から嬉しく思ったし、感動したの。柔道のことはよくわからないけど、楽しそうに柔道をするあなたは輝いていたし、その相手をするお父さんも楽しそうだった」
「でも、それをあたしが投げたことで壊したのよ。あたしが普通の女の子だったらお父さんは家を出なかっただろうし……」
「それは関係ないわ。お父さんはきっと何があっても家を出ていたと思うの」
「どうして?」
「昔からそんな気がしてたから。柔ならきっとわかるわ。いいえ、もうきっとそう感じたことがあるはず」
どういうことかよくわからない柔。耕作に聞いていたのは、自分の修業のためと柔を柔道から遠ざけないために姿を暗ましていたということ。
修業だけなら家でも出来る。むしろ滋悟郎と一緒の方がいいはずだ。それなのに家を出たのは柔に才能が有りそれは虎滋郎にはないものであることを知ったから。そしてより修行を厳しくするために家を出て、虎滋郎が家を出たことで柔道を遠ざけている柔に柔道を辞めさせないために、家に戻らずライバルを育成するという残酷なことをしたのだ。
「あたしにはわからないわ」
首を傾げる柔を玉緒は見つめる。その目はとても穏やかだった。
「ところで、柔。NYは楽しかった?」
「え? あ、まあ楽しかったわ」
突然の話題に柔は動揺する。
「へー、一人旅っておじいちゃんには言ってたみたいだけど、向こうで誰かと会ってたのかしら?」
「そんなこと、あるけど……」
「大丈夫。おじいちゃんには黙ってるから」
「うん。ごめんね。まだ、言うタイミングじゃないと思うから」
「二人のことだもの、二人で決めたらいいわ。でも、おじいちゃんは何も言わないんじゃないかしら」
「そんなことないわ。絶対、何かと口出ししてくるもの。今までもずっとそうだったし」
柔は思い出す。高校の先輩の錦森のこと、そして風祭のことなど滋悟郎は様々に手を使い柔との距離を遠ざけた。柔道に専念させるために、五輪で金メダルを、そして国民栄誉賞を取るために。だがそのどちらの夢を果たした今、滋悟郎は柔に何を言うのか柔自身もわからない。だから怖いのだ。この恋だけは絶対に手放したくない。そう強く願っている。
当の滋悟郎は久々の家族団らんで気分を良くしたのか、酔っぱらってこたつで眠っている。もちろんその横で、虎滋郎も同じように眠り女二人は心置きなく会話が出来ていた。