「あの~すみません」
逆光で誰だかわからないが、小柄な女性だ。それが誰だか花園は分かっていた。
女性はぺこりとお辞儀をして道場に入ると、真っ直ぐ高田の元へ向かった。
次第に見えてくるその顔に誰もが見覚えがある。
「高田さん……先ほどのお話全部聞いていました」
「え?」
「随分な言われ用です。女と言うだけでそれまでの努力や成果を否定なさるのですか?」
「いや、あの……」
「そこまでおっしゃるのであれば、あたしと試合してくださいませんか?」
「あの……」
高田はしどろもどろになる。変な汗も吹き出していた。
「自信がないというのですか? あたしはあなたの半分ほどしか体重もないし力も弱い女ですよ。勝てないはずないですよね?」
「それはそうですが……」
「では試合しましょう」
にこりと微笑む柔に怒りの表情が見えた。
西中の生徒たちからは誰だかわからない。その中で佳恵だけは感じていた。そこにいる人の常人でないオーラと強さを。
女性が西中の生徒たちの方に歩いてくる。次第に見えるその顔。佳恵の予想が確信に変わり、みんなが気付いたとき声を掛けたのは花園だ。
「猪熊……どうして?」
「あそこまで言われて黙っていられない。富士子さんのことだって原因はあたしにあるのにあんな言われようはないわ。それにこの子も……」
柔は佳恵を見る。短く切られた髪に強い瞳。でも表情にはどこか不安が見える。
「頑張ったわね。大人の男の人にあんなこと言うのがどれだけ勇気がいるか。あたしなら出来なかったわ。でもあなたは富士子さんのためにそしてここにいるみんなのために勇気を出した。とても出来ることじゃないわ」
柔はニコリを笑う。それに佳恵の目は潤む。
「沢井さん。それでお願いなんだけど。道着を貸してくれないかしら?」
「え?」
「今日は柔道するつもりで来てないから、道着は持って来てないのよ」
「はい!」
二人が倉庫で着替えをしてる最中、花園は高田と話した。
「どういうことだ?」
「よっぽどだったんじゃないですか。猪熊があんなに怒ってるのは久しぶりに見ましたよ」
「来ていることは知ってたのか?」
「はい。でも、帰ったとばかり思ってました」
高田は不満そうにしていたが、道場の隅で持って来ていた道着に着替えた。自分の思っていることに嘘はない。力も弱く体重も軽い女なんか直ぐに倒せる。だけどどういうわけか、柔と対峙したとき言いようのない恐怖を感じた。
倉庫で二人きりになる柔と佳恵。
「あの、本当にいいんですか?」
「なにが?」
「こんなところで試合しても」
「大丈夫よ。みんなが黙っていてくれればね」
見つかって面倒なのは滋悟郎だけだから、別にどこで何しようと何か問題になるわけじゃない。
「それにね沢井さんの一本背負いとても綺麗だったわ。あれを見てあたしもちょっと体動かしたくなったの」
「見てたんですか!」
「もちろんよ。あなたは筋がいいから、もっと強くなれるわ」
倉庫を出て軽く体を動かす柔。準備運動はしないと体に良くない。
花園が走って来て小声で言う。
「いいのか? こんなこと滋悟郎先生に知れたら……」
「だから内緒にしててよ。それにこれは必要な試合よ。誰も反対しないわ」
柔の気迫は物凄いものだ。ソウル五輪のテレシコワ戦の時のような怒りに満ちたものではなく、冷静さもその目にはあった。
対峙する柔と高田。背の高さだけでも20センチほど違いとても試合になるとは思えなかった。
佳恵は仲間の元へ戻る。
「本物の猪熊柔なのか?」
「うん。そうだった」
「五輪の金メダルの?」
「うん」
「国民栄誉賞だぞ」
「なんでこんなところにいるんだ?」
どこかしこから聞こえてきたざわめき。そしてテレビで見るよりも小さい柔。それに不安に思う西中生徒。
「礼!」
花園がそう言うと二人は礼をする。そして顔を上げて目が合う。高田は再びあの目に睨まれる。どう見ても高田が肉食動物で柔が草食動物なのに、当の高田は全くそうは思えなかった。
「はじめ!」
柔道をする者として高田も無知ではない。猪熊柔道を見ていた。だからこそ警戒する。むやみに飛び込んではいけない。だけどこんなに小さな女に投げられるなんてありえない。そう思った矢先に体が動いていた。
「だあ!!」
この時その場にいた誰もが息を飲んだ。柔の姿が消えたのだ。そう、まるで消えたように素早く高田の懐に潜り込んでそして気づけば高田は宙を舞っていた。まさに一瞬の出来事。
気づけば高田は畳に背を付け天井を見ていた。辛うじて受け身は取っていたようで意識はあったが、放心状態だった。
「高田先生、大丈夫ですか?」
花園の暑苦しい顔が視界に入り高田は我に返る。自力で起き上がると、柔は既に所定の位置に立っていた。
二人は礼をした。高田は未だに自分が立っているのかよくわからない。あの時、自分から技を仕掛けに行ったのに何もすることなく、何もさせてもらうことなくすべての勝敗は決していた。
「これでも女の方が弱いといいますか?」
柔は息一つ乱れていない。さっきと変わらない表情で高田に言う。
「それは……」
何も言えない高田。万全でないコンディションなのはお互い様だ。それでも高田はなす術なく負けた。完敗だ。
それ以上、柔は何も言わず再び倉庫に戻り着替えた。借りていた道着を佳恵に返すと柔は道場を出て行った。
「猪熊さん……」
富士子が不安そうにしていた。
「ごめんね、富士子さん。あたしどうしても我慢できなくて。今後の花園くんのこと考えたらこんなことするべきじゃなかったわ」
「ううん。ありがとう猪熊さん。あたし、すっきりした!」
富士子は高田の言葉を心を痛めながらも目を逸らさず聞いていた。苦しい辛い言葉が多かったけどそれを受け止めなきゃいけないと思っていたのだ。でも、それを見ていた柔は黙っていられなかった。富士子が出産後、柔道を始めたのは自分の為だから。それを富士子に言っても「それだけじゃないのよ」って言うだろうけどそれでもきっかけは柔だ。
「そろそろ行こうか」
歩き出す二人。そこに高田が走ってきた。
「待ってくれ!」
振り返る二人。
「すまなかった!」
高田は頭を下げた。
「差別発言は俺が全面的に悪い。それは認める。でも……」
拳を握る。顔は赤く汗が流れ落ちている。
「稲垣を追い詰めるほどの花園が五輪を目指さなかったことが、俺は勿体ないとしか思えない。俺の勝手な思いだけど、それだけの実力を持っていると今も思っている」
富士子の目は潤んでいた。そして高田に歩み寄った。
「あたしもそう思います。花園くんは強い。そう認めてくれる人が近くにいることが今素直にうれしいです。あたしの妊娠で花園くんの選手としての道は終わってしまったけど、今は五輪に出られるような選手を育てる事が夢だと言ってました。あたしはそれを全力で応援したいと思っています」
富士子は笑顔で高田に言った。その言葉に高田もこの夫婦の強い意志を感じだ。そして柔にも頭を下げた。
「数々の非礼、柔道家として本当に申し訳ない。猪熊さん」
「はい」
「あなたの強さは本物だった。世界の強さを身をもって感じた。女だからといって男に劣るということは決してないと痛感しました」
「本当はわかってらしたのでしょう」
「え?」
「沢井さんが勝った時、彼女が女子選手だとあなたは気づいていた。でもここで何も言わなければ東中の負けが決まり、それで試合は終了し大将の生徒のプライドを傷つけずにすんでいた。でも、生徒が女子選手だと発言したことで、かばわないといけなくなった。それがああいう発言に繋がったのだと思いました」
「買いかぶり過ぎです。例えそうだとしてもそれは俺から出た言葉。俺の心にあった言葉だ。生徒の前で人として最低なことを言った。それは事実だ」
「きっと生徒さんもわかってくれますよ」
柔の視線の先には心配そうに見つめる東中の生徒がいた。
「それでは失礼します」
柔と富士子はお辞儀をして戻って行った。
道場に戻る高田はまっすぐ佳恵の元に行き、謝罪した。佳恵は笑って許した。もう気は済んでいた。
そこに気まずそうに入ってきた佳恵の兄・恵一。
「あ、お前今頃何しに来たんだ!」
「腹痛が治まったから来たんだけどもう遅いよな?」
「当たり前だろう! 色々大変だったんだぞ」
「なあ、ところでさっきそこで猪熊柔に似た人を見たんだけど」
その場にいた人は顔を見合わせた。そしてニヤリと笑い声を揃えて言った。
「そっくりさんだよ」
「えー」
「ははっ、後でちゃんと教えてあげるから」
佳恵は笑って言うが、恵一は腑に落ちない顔をしていた。そして誰もがさっき見た奇跡のような試合を思い出す。本当の強さとはなんなのか見た気がした。
「花園先生!」
「なんだ!?」
「午後の部活は何時からですか?」
「午後は部活ないぞ」
「でも、やります」
「そうか!」
真夏の中学校で起こったこの出来事は、生徒たちの心に火を灯し忘れられない出来事となった。