vol.1 LAで野球観戦
7月に思わぬ形でNYに行き、耕作との間にあった誤解やわだかまりを解消したばかりか初めて結ばれた日を柔は人生で最も幸福な日として記憶している。それは五輪で金メダルを取った時より、国民栄誉賞を貰った時よりも大切なことだった。
8月に入って仕事は忙しいがどういうわけか臨時の長期休暇を貰うことができた。羽衣に理由を聞くと「試合で土日が休めないことがあるだろう。その代わりなんだそうだよ」と納得できるような出来ないような答えが返ってきた。
何はともあれ、この休みを利用しない手はない。それにちょうど耕作の誕生日もかぶっている。柔は耕作に電話をしてトントン拍子に予定を組んで、旅行代理店の力を駆使して航空券を手配しあっという間に飛行機に乗った。
目的地はLA。耕作の仕事の都合でこの場所になったのだが、柔はどこでも構わないと思っていた。それに飛行機に乗っている時間はNYとそう変わらない。ただ空港はいつもと違うので戸惑いはあったが、英語を勉強してある程度会話も出来るようになっていたので最初にNYに行ったときよりもスムーズに入国できた。
荷物を取りゲートを出ると先に来ているはずの耕作の姿を探す。この空港も人が多い。様々な国籍で人種の人が入り乱れている。背の低い柔はどこへ行っても埋もれてしまう。
「柔さん!」
聞こえた声に胸が弾む。体の温度が上がる。真っ直ぐ手を伸ばすと、その手は温かく大きな手に包まれる。
「やっと見つけた」
「やっと会えた」
二人は照れたように笑うと、手を握ったまま歩き出した。そしてタクシーに乗ると真っ直ぐホテルへ向かう。とりあえず荷物はホテルに預けて身軽にしたい。
「せっかく来てくれたのに仕事でごめんな」
「そんな! あたしが急に来たんだからそんなの当たり前です。それに一度LAにも来てみたかったのでよかったです」
「そうか……」
「それでお仕事の間、あたしはどうしたらいいですか?」
「それなら考えてるよ。球場で野球を見るか、カフェかレストランで時間をつぶすか、ホテルにいるか」
「観光はしちゃダメなの?」
「LAのことは詳しくないからどこなら安心して観光できるか正直わからないんだ。だからできればあまり動かないで欲しいかな」
伺うように柔を見る耕作。あまり縛り付けるのはよくないが、アメリカはやはりまだ日本のように安全とは言えない。
「だったら野球が見たいわ。本場の野球なんてそう見る機会がないもの」
「そりゃいい! これも観光だしな」
30分程でホテルに到着し、すでに耕作がチェックインしていたので同じ部屋に荷物を運びこむ。今回は3泊するから荷物も多い。
「わーいい眺め」
窓からはLAの街並が一望できスタジアムも見える。NYとは違った陽気で明るい街が広がっていた。
「素敵なところですね」
「海の方もいい感じだぞ。まあ、そっちは明日行くとして。さあ、スタジアムに向かうぞ」
ホテルからは徒歩でスタジアムに行った。その大きさに柔は思わず目を見開き見上げる。試合までまだ1時間以上はあるが、すでに多くのファンの姿が見える。
「試合までまだあるけど、スタジアムには入れるんだ。選手が練習してるところとか見られるから、早くから行く人もいるんだ。チケット買ってくるから待ってて」
柔は道行く人々の会話に耳を澄ます。何となく何を言っているか分かるようになった。それがとてもうれしい。
「どうした?」
「いえ……たいしたことでは」
「そっか。じゃあこれチケット。いい席は売り切れたからそこそこの席だけど、迫力あると思うよ」
「ありがとうございます」
「ところで柔さん、野球のルール知ってる?」
「何言ってるんですか? あたしこれでもスポーツ選手ですよ」
「長嶋も知らなかったのに?」
「それはそうですけど、ホームランくらいは知ってます!」
「ホームラン? それ以外は?」
「さあ? でも大体わかりますよ」
不安はあったが記者席に連れて行くことは出来ないので一旦ここで別れた。柔はスタジアム内のショップで青いキャップを買い、それをかぶった。日差しが暑くて堪らなかったがこれで幾分か紛れた。喉も乾いたのでジュースとホットドックを買う。ホットドックはソースを自分でかけるタイプで柔はケチャップをたっぷり乗せた。
席についてジュースを飲みながらフィールド内の選手を見る。練習しているところが見れるというのは本当で、キャッチボールをしてる選手もいればストレッチしている選手もいる。その間に柔はホットドッグを平らげ周りを見る。なんだかとてもLAにいるという気がする。一人であることは寂しいが久しぶりにこんな青空の下で物を食べて解放感に包まれる。日本ではこんなことが出来なくなった。
暫くすると試合が始まり、周りの人の熱狂もすさまじくよくわからないが何度も見る内にルールを理解し、試合が終わる頃にはすっかり野球を楽しめるほどになっていた。
この日、ドジャースの勝利に終わったのはとても幸運だ。負けるとやはりファンの機嫌は悪くなる。わけもわからず喧嘩が始まることだってある。だが逆に勝つと上機嫌で誰彼かまわず話しかけたりすることもあるが、比較的安全にいられる。
耕作は仕事で来ているので試合が終わったからといって直ぐに帰るわけじゃない。スタジアムを出た柔は外で少し時間をつぶしていると、聞きなれた声だけど胸が少し跳ねる声が聞こえた。しかも至近距離だった。
「柔さん」
「どうしたんですか? そんな小声で」
「日本の記者がいる。そりゃいるんだけど、普段はあんまりいないから大丈夫かと思ってたけど見つかると面倒だから早めにホテルに戻ろう」
「ええ……」
柔は帽子を深くかぶり耕作について歩く。前で揺れる手を握りたくてでも、我慢した。
ホテルに着くと耕作は記事を書かなくてはいけないようで、申し訳なさそうにデスクに向かう。柔は邪魔をしないようにホテルの中を散歩したり、カフェでお茶したりした。
1時間程するとロビーに耕作の姿があり、フロントで会話をした後辺りを見渡した。ちょうど柔もその辺りにいたので二人はそのまま外に出て行った。
「大丈夫ですか?」
「仕事のことかい? それだったらもう終わったから」
「そうですか。だったら安心ですね」
一昨年、NYに行ったときには思いがけない仕事が入りゆっくり出来る時間がなかった。だけど今回は仕事は片付いたし、LAにいるので追加の仕事もないだろう。二人は久しぶりに楽しい時間を過ごせそうだった。
耕作はあらかじめ調べていた店に柔を招待し、夕食をとった。シーフードの専門店で気取らず普段着でも入れて味も最高。周りに日本人の姿もないので二人は気兼ねなく話をしていた。食事も終盤になり、耕作は明日のことを切り出す。
「明日は一緒に行って欲しいところがあるんだけど」
「もしかして、出版社ですか?」
「察しがいいね。ちょうどLAにいるし紹介したいからね」
「あたしも是非ご挨拶したいです。おじいちゃんとも縁があるようだし」
「そうだね。前の社長と滋悟郎さんは知り合いだったっていうのが驚くよな」
「話には聞いたことあったんですよ。新聞記者の知り合いがいていつも取材に来てたって。でも、とても信じられなくて。おじいちゃんの言うことなんで」
「滋悟郎さんってちょっとそういうところあるよな。話を大きくするって言うか」
「しすぎなんです。でも、今思えばその記者さんのことは後に誰でも知ってるあの人になったって言わなかったわ」
「どういうこと?」
「おじいちゃんの癖みたいなもので、自分と関わった人が実は誰でも知ってるあの人だったって付け加えることあるんですよ。川端康成とか貴の花とかベーブルースだったなんて」
「へーそりゃすごい」
「どこまで本当かわかりませんよ。話す相手によって変わってるんですから」
「じゃあ、逆に松平社長はちゃんと実在してたってことだね」