「じゃあ、逆に松平社長はちゃんと実在してたってことだね」
「そうなりますね。あ、もう一人いました」
「誰だい?」
「デベソさん」
「デベソ?」
「はい……おじいちゃんの弟子になったって言うデベソさん」
「ああ……」
「心当たりでも?」
「少しね。ベルリン五輪のレスリングのアメリカ代表だろ」
「そうです。よく知ってましたね」
「滋悟郎さんから少々資料をお借りしたので、そこら辺は記録が残っててね」
「資料? 記録?」
「カネコさんの日記だよ」
「おばあちゃんの? 松田さん持ってるんですか?」
「本を書くときの参考にって滋悟郎さんが貸してくれてね。今度日本に帰る時に持っていくよ」
「あたしも見たかったな。おばあちゃんはあたしが生まれてすぐに亡くなってしまったから、どういう人かってあまり知らないの」
「そうだね。滋悟郎さんの許しがあれば見てみるといいよ」
柔は難しそうな顔をする。
「きっと無理ね。おじいちゃんはそう言うのあたしには見せないし」
「それじゃあ、仕方ないな」
「ズルいわ、松田さん。お母さんたちからも色々聞いたんでしょう?」
「取材だからね」
「でも、教えてくれないのよね?」
「そりゃ、口が軽い記者は信用できないだろう」
「そうだけど……」
「子供には恥ずかしくて話せないこともあるよ。第三者だから言えるっていうのはあるだろう?」
「ええ……じゃあ、松田さんは松田さんのご両親のことはあまり知らないんですか?」
「うちの親の事なんて知らないよ。興味もないし」
「そんなものですか?」
「そうだよ。うちは見合いだって言ってたからそれで終わり」
「お見合いですか。うちもお父さんを見てるとそんな気がしないでもないけど」
「どうだろうね」
「松田さん、やっぱりズルい」
むくれる柔が可愛くて耕作は思わず笑ってしまう。そして柔も顔が綻んで一緒に笑う。こんなに幸せなのが嘘みたい。でも、触れられる距離にいる。嘘じゃない。
「さあ、ホテルに戻ろうか」
「うん」
手を繋いでLAの夜を歩く。街がカラフルに色づき、夢の国のようだ。
耕作は突然、柔を自分の方へ引き寄せる。
「ま、松田さん!?」
「ちょっと気温が下がって来たから」
「そ、そうですね」
と言いつつも、柔の体は熱を帯びていた。きっと顔も赤い。耕作の大きくて暖かい手が腰にあるだけでドキドキが止まらない。
「少し酔ってる?」
「そうかな……そうかも」
うるんだ目で見つめる柔。ここにいること、耕作に触れていること、耳元で声が聞こえることすべてが夢みたいだった。ふわりと浮いたような気持が心地いい。
ホテルで抱き合う二人は夢に溶けるように交わる。体温も汗も吐息すらも視線と共に二人で一つになる。
浅い眠りから目覚め、隣で眠る耕作の姿が堪らなく愛おしい。うっすら生えた髭が見える距離。それだけなのに、胸が高鳴る。
「……起きたの?」
うすく目を開け耕作は柔を見た。眠そうに目を擦っている。
「うん。眠れなくて」
「時差ボケ?」
「ううん。幸せで落ち着かない」
「そう……だな」
耕作を上目づかいで見る柔の可愛さに耕作もドキリとする。柔はまだ色気よりも可愛さが勝る。だがそれが耕作にはたまらない。柔らかくて滑らかな肌が自分の肌に触れている。一般的な女性よりもたくましいのは仕方ないしそんなことを耕作は気にしたことも無いが、柔は耕作が触れるとどこか恥ずかしそうにする。それはただの恥じらいではなく、痣や擦り傷、筋肉の付いた体を見られて触れられることへの恥じらいだ。
「松田さん……」
「なんだい?」
「あ、間違えた。耕作さん……」
不意に呼ばれた名前に耕作の心臓がとてつもなく飛び跳ねた。
「い、いきなりなんだい?」
「お誕生日おめでとうございます」
「え? 誕生日?」
「そうですよ。日付が変わって今日は8月26日ですよ。だから一番におめでとうが言いたかったんです」
極上の笑顔を見せる柔に耕作は思わず抱きしめる。強く強く抱きしめると、柔が「苦し~」と言ったので腕を緩めた。
「ごめん、嬉しすぎて」
「あたしも喜んでもらえてうれしい」
耕作はそっと柔にキスする。
「プレゼント貰ってもいい?」
「今ですか? ちょっと待っ……」
言い終わる前に耕作は柔に深く口づける。そう言うことかと察した柔は耕作を受け入れる。息が荒くなる二人はまた夢のような時間を過ごす。
◇…*…★…*…◇
LAは1年のほとんどが晴れている。もちろんこの日も晴天で、窓の外は青い空が広がっていた。
「いいお天気ですよ」
朝から元気な柔はまるで子供のようだ。
「朝食は外で食べようか?」
「じゃあ、あたしご馳走しますよ」
「いや、悪いよ」
「今日はお誕生日ですよ」
「そうだけど……」
「任せてください! 調べて来てますから」
柔は上機嫌ではしゃいでいた。それだけで耕作は嬉しくなる。
二人は身支度を整えてホテルを出た。そんなに離れてない場所にあるカフェに向かう。ガイド本にも乗っているそのカフェはさすがに混んでいたが、10分程でテラス席へ案内された。
オシャレで綺麗な席に座っておすすめの朝食をオーダーする。柔の英語はばっちり通じていて耕作の出番はないようだった。久しぶりに気が抜けてぼんやり辺りを見ていた。まだそこまで気温が上がっていないので、夏だけど心地よかった。
「ん?」
注文が終って柔がホッと一息ついていると、耕作は何かを見つけて声を出した。
「ちょっとごめん。すぐ戻る。帽子深くかぶってろよ」
耕作は行きかう人々の方を真っ直ぐ見て、そう柔に言うとテラスから出て行った。
「え? ちょっと……」
何が何だかわからないけど、とにかく走って行ってしまった耕作を追いかけることが出来ずその場に留まった。言われた通り、昨日買ったキャップのつばを顔の方に下ろして俯いていた。
もしかしたら知り合いでもいたのかもしれない。声を掛けなきゃいけないほどの知り合いが、このLAにいるのだろうか。出版社の人だとしたら柔が顔を隠す必要などないし、この後会いに行く約束をしているから慌てて行く必要もない。
全く見当もつかないまま一人でテラスにいると、注文していた料理が運ばれてきた。野菜とローストビーフがたっぷり入ったサンドウィッチ。フレッシュジュースは生の果物と野菜を絞ったものでとても体にいい。でも、向かいの席は未だ空席。
「ごめん、何もなかった?」
突然、声が聞こえた。俯いていたからわからなかったが、耕作はもうすぐそこまで来ていたのだ。
「何もないけど、どうしてなのか教えて欲しいわ」
「ごめん、ごめん。あ、これ朝飯? うまそー」
「誤魔化さないでください」
「いや、そう言うわけじゃないんだけど。何て言うか、ずっと取材したいなって思ってた人がそこを歩いてたから、挨拶に行ってきた。俺の名前を憶えて貰いたかったから、ちょっと時間がかかった。すまない」
「そう言うことならいいんですけど……日本人ですか?」
「ああ。本当ならここにいる人じゃないから、相当驚いてたな」
「どういうことですか?」
「それはまた話せるときに話すよ。今は相手のこともあるから……」
「わかりました。じゃあ、食べましょう」
柔は笑顔で言った。
「え? ああ、いただきます」
今までならむくれてしばらくは機嫌が悪かったのだが、柔は特に不機嫌と言うわけでもなく美味しそうにサンドウィッチを食べている。
「どうしたんですか?」
「怒ってるかなって思って……」
「怒ってませんよ」
「そうか、だったらよかった。今度からは気をつけるよ」
柔はニコリと笑う。怒られるよりもなんか怖いと耕作は思った。