約束は午前10時だった。少し観光をして二人は出版社「パイン・フラット社」に向かう。
リトル・トーキョーはパラレルワールドにある東京のような、不思議な感じがした。日本らしくしているがどこか違う。でも、それが面白い。
耕作は何度かこのオフィスに行っているの慣れた様子で階段を上ってドアを開けた。
「ハロー??」
中には待っていましたと言わんばかりに、シゲルが駆け寄ってきた。
「遅かったじゃないか?」
「早いくらいじゃないですか?」
「いやいや、ヤワラの本を出すのに本人に会うのがはじめてなのは遅いくらいさ」
「そういうことか。じゃあ、紹介します。彼女が猪熊柔さんです」
「初めまして、猪熊柔です。ごあいさつが遅くなり申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げる柔の目の前に、大きな手が差し出される。柔はその手を握る。
「こちらこそ遠いところを来ていただいて恐縮です。私はシゲル・マツダイラ。さあ、こちらへどうぞ」
狭いオフィスの片隅にあるソファに柔は腰かける。他のスタッフもチラチラと落ち着かない様子だ。
「LAはいかがかな?」
「昼間は暑いですけど、日本に比べれば過ごしやすいですね。食事も美味しいですし」
「それはよかった。着いたのが昨日じゃあまり遊びにはいけてないだろうね」
「でも、野球も見ましたしビーチの方へも行きましたよ」
「泳いだのかい?」
シゲルは柔に問う。
「いえいえ、水着を持って来てないので浜辺を歩いただけですよ」
「水着くらい買ってやればいいじゃないか、コーサク」
「いや、本人が着ないって言ってるのを無理矢理着せるのはどうかと思うけど」
「本音を言ったらどうだ? 他の人に見せたくなかったって」
「な!!」
耕作はシゲルに全て見透かされているようでドキリとする。
「そ、そんなことはいいから仕事の話をしましょう」
「それもそうだな。それで、日本語版の方はどういう形で出版するんだ?」
「俺の勤め先である、日刊エヴリーから出すことで話はしています。ただ書籍の発売自体殆どしたことないからちょっと手間取って時間がかかりそうなんですよ」
「そうか。うちはアメリカ以外でも発売出来るしそのことで何か言うことはないけど、ヤワラはどう思ってるんだ?」
「あたしですか?」
「君の本だからね。今回、アメリカで出たこともどう思っているのかということは気になってはいたんだ」
「あたしが気にしていたのは、アメリカの人があたしのことなんか知りたいのかなってことです。本を出して全然売れなかったら申し訳ないですから」
シゲルは耕作を見てちょっと肩をすくめる。
「コーサクの言うとおりだね。ヤワラは自己評価がまるで低い。君がそこらへんにいる女性と同じだったらそんなこと言わないけど、君はヤワラ・イノクマだよ。オリンピックメダリストで日本で栄誉ある賞を貰った。みんな君に興味津々だよ」
「そうなんですね……」
やはりあまり自覚のない返事。柔は良くも悪くも周りを気にしない。自己中心的だと言う人もいれば、自分の意見を持っている人だと言う人もいる。
その後、オフィスにいたスタッフも混じりながら、1時間ほど談笑した。最初こそ、有名人といことで気を遣って話していたが、柔は気取ることもなく普通に話すのでみんなはそれにつられて仕事そっちのけで話してしまった。
「社長、そろそろお時間ですよ」
スタッフの一人が声を掛ける。
「あ、もうそんな時間か。すまない、次の予定があってね」
「YAWARA!」が出版されてからこの「パイン・フラット社」も忙しさを増している。とはいえ、出版物に関しては妥協したくないので著者とは必ず対面して原稿を読んでから決めている。それが信念だ。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔してしまってすみません」
「何を言ってるんだ。こちらこそ無理言ってすまないと思ってるよ。ヤワラは忙しい身で渡米するのだって大変だろうに。そんな中、来てくれたんだ感謝しているよ」
「あたしもお会いしたいと思っていたので、このタイミングでごあいさつで来てよかったです」
「そうか?二人の時間を邪魔したんじゃないかな?」
シゲルは何もかも見透かしたような目で二人を見やる。柔と耕作は思わぬ言葉に動きが止まる。
「はははっ!バレバレなんだよ。そもそもコーサクの本を読んで誰もが疑っていた。それで二人一緒に来てその雰囲気でわからないわけないさ」
「そんなにわかりやすいですか?」
「まあな。私は普段のコーサクも知ってるから、その態度の違いなんかがよくわかる」
「こりゃ、気を付けないといけないですね」
「そうですね」
「秘密にするなら気を付けないとな。日本で本を出すときには発表するのかい?」
「そこまでは考えてないですけど……アメリカ版との違いを出すために何か考えなくてはいけないと思ってますよ。日本でもすでに知られている本ですから」
「そりゃ、いい。出来たら送ってくれよ」
「もちろん。じゃあ、そろそろ俺たちは失礼します」
耕作がそう言って立ち上がって挨拶すると、柔もそれに続き二人で外に出た。
お昼過ぎのLAはからっとした暑さで、誇りっぽい風が吹いていた。
「いい人たちでしたね」
「そうだろう。滋悟郎さんとの縁もあるし、NYから遠いけど運命的な出会いだと思ったよ」
「ところで、日本版の出版の際には何かやるんですか?」
「え? そうだな……それはまた考えるよ」
「そうですか。じゃあ、どこかでランチにしませんか?」
「ああ。この辺りだとなにがあるかな」
二人は歩き出した。その様子を、シゲルがオフィスの上から嬉しそうに眺めていた。