vol.1 愛の証にふれて
LAで過ごした3日間は柔にとって夢にまで見た、耕作との甘い時間となった。初めてLAであることや自分の英語力が上がったことでより充実したのも確かだ。
日本に戻って来て夜の空港の外で残る暑さと湿気の多さに、現実に戻って来たという実感がわきため息をつく。楽しい時間を過ごしてきたからこそ、離れていることへの淋しさがまた募る。
タクシーを使って家に帰る。見慣れた大きな門も何だか懐かしい。
「ただいまー」
そう言って家に入ると、玉緒が出迎えてくれた。
「おかえり、柔。アメリカは楽しかった?」
「うん」
「松田さんは元気だった?」
「うん……」
「そう。疲れてるでしょうから先にお風呂にしたら?」
「そうだね。ありがとう」
柔は荷物を二階に運んで着替えを持って脱衣所に向かった。メイクを落として服を脱ぐ。
「あ……」
胸の辺りに赤い傷みたいなものがある。それを指でそっと触れる。それが傷でないことはわかっている。耕作からの愛の証。目立たないところに付けたのだろうけど、場所が場所だけに他の人に見られたら言い訳できない。
柔の目は少し潤んでいた。だが、自分の弱さを振り払うようにお風呂に入って顔を洗う。また耕作のいない日々を過ごさないといけない。それは仕方のないことだけど、今だけ少しだけ泣いていたい。
◇…*…★…*…◇
柔は日常に戻る。柔道をして仕事をして、柔道をする。たまに短大時代の友人と食事に行くこともあるし、雑誌の取材も受けることがあった。それでもどうも耕作がいない日々は色がないように思えて仕方ない。
「LAはどうでした?」
英会話スクールのパトリックに聞かれ、柔が思い出すのは耕作との日々。でもそれを言うことはできないので、食べた物や行った場所を話した。
「現地の人と話すことも出来ました」
「自信につながったんじゃないかな。実際、ヤワラの英語力は上がっているよ」
「ありがとう」
「ところで今日は、ハゴロモさんは?」
「課長は仕事が残っているとかで、今日は休むと言ってました」
「そうか。彼はもう少しレッスンが必要かもな」
羽衣は柔の付き添いみたいなものなので、英語力は一向に上達しない。それでも通い続けているので少し話すことはできるようになった。そんな羽衣が柔と一緒にレッスンを受けなかったのは過去に一度だけ。柔がレッスンの日を変えた時だけだ。だから予約を入れている日に急に休むというのは仕事で何かあったということだ。だが、柔には関係ないのか帰り際にトラブルなどの話は聞いていない。
レッスンを終えて外に出ると、真夏の熱気のせいで汗が噴き出る。だけど駅に向かって小走りをする。どこで誰が見ているかわからない。LAに行ったときも散々、耕作やシゲルに周りに気を付けるようにと言われた。強いことを過信してはいけない。柔は女性なのだと念を押された。
自分が女であることを忘れたことはないが、誰かに絡まれても何とかなると思っているのは確かだ。でも、フェアなことをしない輩もいることを忘れないようにと耕作に言われた。その目があまりに真剣だったから、日本に帰って来てから何かと周りを気にする癖がついた。
だから家に帰るとホッとして疲れがどっとでる。それなのに稽古だのなんだと滋悟郎がうるさいのがちょっと憂鬱なのだ。
「あれ? おじいちゃんは?」
それでも滋悟郎がいないことは気になる。玉緒に聞くと「源さんのところじゃないかしら?」とあっさり返事。いつもの事なので気にしないが、時間も時間なので少し心配になる。
「大丈夫よ。町内会のお祭りの事だから」
「そう言えば、そろそろよね」
「明後日よ。お仕事、休みなら行ってみたら?」
「あたしはいいわ。人が多い場所は行かないようにしているし」
「そうね。それがいいわね。なんか不便ね」
「だからあんな大きな賞は困っちゃうのよ」
「それだけじゃないでしょ。でも、柔はいつまでたっても柔よね」
「何それ? あたし以外の何になるって言うのよ」
「そのままでいなさいってことよ。さあ、夕飯にしましょう」
柔は二階に上がって着替えていると、耕作との写真が目に入る。LAで撮った写真は二人ともいい笑顔で写っている。LAから帰って来てから何だか、周りの様子が、特に会社関係がおかしい気がする。というか、もっと前からおかしかったのだが顕著になったような気がするのだ。
その理由がわかったのは9月に入って直ぐの事だった。柔は柔道部の稽古の前に羽衣に呼び出された。普段の仕事の指示だったらその場で口頭で言うところなのだが、会議室で周りに聞かれないように配慮して話すときは、ちょっと面倒なことが多い。錦森との対談やレオナルドとの見合いなど。
「実はね、レオナルド社長との契約が上手くいってね」
「そうだったんですか! じゃあ、テンプルトン・ホテルに優先的に予約できるということですね?」
「そうなんだ。だからそれに伴ってNY支店をリニューアルすることになってね」
「そうなんですね」
「それで、その手伝いに行って欲しいと思ってるんだ」
相変わらず遠慮気味に話す羽衣。柔は何を言っているのかわからない。
「誰が行くんですか?」
「猪熊くんだよ」
「え? あたしですか?」
「ああ。テンプルトン・ホテルとの縁を繋いだのは君だし、英語も上達してると聞いた。適任だと思うんだが」
「いえいえ、あたしなんか何の役にも立たないですよ。それに他にもっと社員はいるじゃないですか?」
「上層部とも話して決まったことだよ」
「決まったって……あたしは柔道がありますし。祖父が何て言うか」
「それなら話はしてある。名誉顧問も賛成してくれたよ」
「まさか!」
思わず口に出た言葉。でも、真実だ。
「祖父が、そんなこと許すわけありません。長期間日本を離れて柔道も満足に出来ない環境にあたしを置くことなんて考えられません」
「もちろん、柔道のことは考えている。レオナルド社長の妹さんが柔道をやっているそうじゃないか。彼女と一緒に稽古をすることを名誉顧問は提案しているよ。まあ、先方さえよければだけど」
柔は納得いっていなかった。もちろんNYに長期滞在できることになれば、こんな嬉しいことはない。だけど滋悟郎の思惑がわからない今、両手を振って喜ぶわけにはいかない。
「それは正式な辞令ですか?」
「いや、まだ内密なもので、こういう話もあるって程度なんだ」
「そうですか……一旦、祖父と話してみます。何か裏があるといけないんで」
「……名誉顧問は優しい人だよ」
ぼそりと羽衣は言う。
「え?」
「いや……話し合ってみるのもいいだろう。行くのは猪熊くんなんだから」
「はい……」