家に帰ると滋悟郎は居間に座ってテレビを見ていた。まだ食事の時間には早いので、柔はここで話そうと決めた。
「おじいちゃん。今日、会社であたしがNY支店の手伝いに行くことを了承したって聞いたけど」
「何か不満でもあるのか」
「不満って……長期間日本を離れておじいちゃんもいないのよ」
「それがなんじゃ」
「柔道はどうするのよ」
「アメリカでよい場所を見つけておる」
「よい場所?」
「この前、試合したあの道場ぢゃ」
「あそこは、道場って言うかアリシアさんの家で……」
「何を言っておる。だからあの優男に許しを得たわけぢゃ」
「レオナルド社長に?」
「そうぢゃ。あの嬢ちゃんとお前と一緒に稽古すればよかろう。あの嬢ちゃんにも指導者がいるようぢゃし教えてもらえばお前も勉強になるぢゃろう」
滋悟郎の言っていることはわかる。でも、柔を他の誰かに預けて、自分の目の届かない場所に行かせることが不自然でならない。なんでも首を突っ込んで何でも自分の思い通りにするのが滋悟郎なのだ。
煩わしいと思うことは幾度となくあったけど、突き放されると淋しい。滋悟郎は話は終わったと言うようにテレビに向き直り晩酌を楽しんでいる。柔はとぼとぼと台所へ行くと玉緒に相談した。滋悟郎の様子がおかしいことに対して共感してくれると思った。だけど。
「いい機会じゃない、NY行ってきなさいよ」
「お母さんまで!?」
「何? 行きたくないの?」
「そう言うわけじゃないけど。おじいちゃんがこんなにあっさりあたしをNYに行かせることを承諾するなんておかしいじゃない。それにあたしは柔道部が出来てからは、旅行業の仕事はあまりしてないし多分職場の人もそれでいいと思ってると思うの。柔道をやっていればいいって」
「柔はそれでいいの?」
「え?」
「柔道するために就職したんじゃないでしょ。仕事をしたくて就職して、覚えることが多くて大変って言いながら楽しそうに仕事に行ってたじゃない。柔道も一段落ついたし、おじいちゃんも柔の将来を考えてそういう決断をしたんじゃないかしら」
「おじいちゃんが……」
二階に上がってストンとベッドに座って、柔はふと思う。自分の将来のこと。就職してからは学生の時のように将来を考えなくなった。結婚はしたいし、相手は一人しか考えられないけどそれはまだ先のこと。そうじゃない、一番考えなきゃいけない未来がある。
柔道を辞めた後のこと。
藤堂が言っていたことがる。「あんたみたいに就職でもしていれば」と漏らしていた。柔道しかしてなかったからこそ、世界に通用する選手になれるのだが選手生命はそんなに長くない。でも、決定的に柔道以外の経験値が少ないのだ。その点で言えば柔は仕事もして柔道以外の居場所を得ている。それは強みになる。
漠然と柔道を辞めたらそのまま鶴亀トラベルでOLしながら、柔道部の指導をしていつか耕作のお嫁さんになれればいいなんて思っていた。そしていつか子供を産んで普通のお母さんになる。そんな風にぼんやりとは将来を考えていた。でも、そこには夢とか理想が多く含まれていた。なぜなら、結婚という重要な出来事は柔だけで出来る事ではないし、今の段階でそれは難しい。耕作がNYにいてそばにいられないのに結婚はどこか違和感がある。
だったら仕事をしていた方が社会人としての経験値は増やせる。だがその代り柔道が疎かになるかもしれない。国民栄誉賞と言う大きな賞を貰ってから成績が悪くなっては多くの人に対して申し訳ない。
柔は結局、結論が出せなかったので耕作に相談してから決めようと思った。NYで暮すようになったらきっと何かと頼ってしまう。そうしないようにはしたいが、そこまで柔は強くない。
夕食後、タイミングよく耕作から電話があった。滋悟郎は自室にこもっているので柔は玄関前の電話のそばに座って話しはじめた。
「松田さん、相談があるんですが」
「あらたまってどうしたの?」
「あの、仕事でNYに行かないかと言われてまして」
「いいじゃないか、出張ってこと?」
「いえ、NY支社の手伝いで数ヶ月はいることになりそうなんです」
「ええ! 滋悟郎さんはなんて?」
「行けばいいって。柔道もNYでアリシアさんと一緒に稽古したらいいじゃないかって」
「つまり賛成していると?」
「ええ。あのおじいちゃんがそんなこと許すなんて。しかもあたしが相談に行く前に、すでに会社に許可を出してたみたいなの。何か裏があるんじゃないかと思って……」
この言葉に耕作はとあることが頭をよぎる。もしそれが当たっているのなら柔は出来るだけ早くNYに来るべきだと察した。
「松田さん?」
「あ、ごめん。アリシアも絡んでるならちょっと事情を聞いてみるよ。どういう風に話しが来たのかって。それ次第ではまた結論も変わるだろうし」
「そうですね。よろしくお願いします」
「ああ。ところで最近、調子はどう?」
「普通ですよ?」
「そっか。じゃあ、また電話するよ」
「はい。じゃあ、お仕事頑張ってください」
「ありがとう。柔さんはおやすみだな」
「はい。おやすみなさい」
時差の関係で活動時間の差があるが、それもそれで面白い。まったく合わない時間と言うわけでもないのが救いだ。