猪熊家の台所からはいい匂いが家中に漂っている。おせちの準備をする玉緒は忙しそうにしているが、その傍らには柔の姿はない。
大掃除は前日に終わらせ本来なら玉緒の手伝いをしないといけないのだが、柔は仕事で家を出ている。仕事と言っても鶴亀トラベルではなく別の仕事だ。
夕方になり、道場に姿を現さない柔に滋悟郎は怒りを抑えられずに家中を歩き回った。
「あのバカ娘は稽古の時間になっても姿も見せん! 調子に乗って遊び歩いてるんぢゃろ!」
「まあまあ、お義父さん。柔はお仕事で出かけるって言ってたじゃないでないですか」
「わしは聞いとらん!」
「一昨日は随分、お飲みになってましたものね」
「そ、そんなことはないぞ。あれくらいでどうにかなるわしぢゃない!」
「まあ、だったら柔の話も聞いていましたでしょ」
「そ、そうだったな」
ふふふっと笑う玉緒を虎滋郎は感心したような顔で見ていた。あの滋悟郎を手玉に取られるのは玉緒以外もういないだろう。
午後7時を回った辺りで、玉緒はテーブルにおつまみをいくつか並べお酒の用意を始めた。稽古を終えた滋悟郎と虎滋郎は順番に風呂に入ると、ホカホカの体で酒を飲みはじめテレビをつけた。
「あのばか娘はまだ帰らんのか!」
「ええ、遅くなるって言ってましたわ」
「ふん! こんな年の瀬に仕事なぞろくなものぢゃないわ!」
『さあ、今年も始まりました紅白歌合戦』
テレビから聞こえてきた声に滋悟郎は無意識に顔を向ける。三波晴夫も島倉千代子も出ない紅白に見る価値はないと思っていたが、他に見る番組もなく毎年何となく紅白を見ている。紅白を見ないと大晦日じゃない気がして、年が越せないのだ。
「お蕎麦は後でいいですか?」
「そうじゃな。今は酒ぢゃ」
「ああ」
その言葉に玉緒は腰を下ろす。ひと息ついてテレビを見ていると、審査員の紹介が始まった。次々と紹介される審査員。そして滋悟郎は見つけた。
「柔!?」
『バルセロナ・オリンピック女子柔道48kg以下級と無差別級で金メダル、そして国民栄誉賞を授与された猪熊柔さんです』
テレビに映る柔はいつも通り曖昧な笑顔でお辞儀をした。
「まあ、綺麗なお着物ね」
「知ってたのか?」
虎滋郎も驚いていたが、玉緒だけ平然としていた。
「もちろん、聞いていましたよ」
「ぐぬー、わしを差し置いて紅白の審査員ぢゃと! わしよりも目立ちおって!」
今にでも出て生きそうな勢いで立ち上がる滋悟郎。しかし、大人しく座り再び酒を飲み始めた。
「あら、会場には行かれないんですか?」
「呼ばれてないところにわざわざ行くこともあるまい」
玉緒と虎滋郎は顔を見合わせる。今までだったら呼ばれてないところにも堂々と乗り込んでいたはずなのだが。何か心境の変化でもあったのか。
「うん! んまい! この煮しめ絶品ぢゃの。さすが玉緒さんぢゃ」
滋悟郎の顔は綻んでいる。今日はこのまま三人で団欒となるだろう。
一方、NHKホールの柔はステージの歌手たちに聞き惚れ、見入っていた。しかし元々、こういうテレビの仕事は苦手で滋悟郎がいないものには殆ど出たことがないが、国民栄誉賞と頂いたことで出ないわけにはいかない空気となり引き受けた。滋悟郎がいると段取り通りに進まなくなる恐れがあり、それは大勢の歌手やスタッフに迷惑をかけることになるだろうと判断した柔は、滋悟郎には紅白のことは秘密にしておいた。事前に知っていたら絶対に乗り込んで来ていたはずだからだ。
「今日は滋悟郎先生は来てないの?」
バルセロナ五輪男子柔道71kg級で金メダルを獲得した甲賀が柔の隣に座っていた。怪我を克服しての金メダルに国民の皆が涙したのだが、翌日からの連続の金メダルを獲得した柔に話題をさらわれた形になったのは否めない。しかも国民栄誉賞も貰っている。スター性で言えば柔の方が上だ。
「はい、今日はさすがに……」
「そうなんだ。さっきは見かけなかったけど、会場のどこかにいるのかと思ってた」
「入り込んでもわからないかもしれないですね。この混雑ぶりでしたら」
「ところでさ、今度食事でもどうかな。今後の柔道界を考えるためにゆっくり話したいんだけど」
「え? 今後の柔道界ですか?」
正直柔には興味がない。それにこんなところでそんな話をするのも何か非常識だ。すると、会場から歓声が上がり少年隊がステージに現れた。第二部の始まりだ。柔は甲賀に返事はせず、仕事に戻る形でステージを見ていた。少年隊はかつて大ファンだったグループで、楽しみにしていた。
紅白は続き、柔も何度かコメントを求められ何とか仕事を終えた。疲れ切った表情でスタッフに促されるまま、バックステージに誘導されひと息つこうと思ったがどこもかしこも人だらけ。審査員の控室には甲賀がいるし、柔はあてもなく廊下をウロウロしていた。
「あれ? 猪熊柔じゃない?」
騒々しい中でも自分の名前は耳に入る。最近では街中でも聞こえてきては、振り返らずに逃げ切ることが得意になったがここでは無理だ。声を掛けられなきゃいいんだけど、と思っていると男性が二人柔の前に現れた。
「ねえ、猪熊柔ちゃんだよね?」
見覚えのある二人。さっきまでステージで歌っていた歌手だった。
「テレビで見るより小さいね」
「これであの巨体を投げてるんだ。すごいや」
興味深々という表情で柔を見ている。
「あの、ステージ素晴らしかったです。感動しました」
柔に言われて二人は歌手の顔に戻る。
「ありがとう。これから打ち上げなんだけど、一緒に来る?」
「それよりも、連絡先交換しよう。今度、ご飯でも食べよう」
「お前ズルいぞ。俺も交換してよ」
「あの、そう言うのはちょっと……うちにはおじいちゃんがいて」
「ああ、あの元気なじいさんか。大丈夫、大丈夫。ね、交換しようよ」
強引に詰め寄ってくる二人。背の低い柔は壁際にいたので逃げ場がない。
その時、フラッシュが光り男二人は背後を振り返った。
「スクープ、撮ったぞ!」
「お、おい。何もしてないだろう。仲良く話してただけで、スクープはないぞ」
「そうだ、そうだ。じゃあ、お疲れ様、猪熊さん」
男性二人はそのまま立ち去って柔はほっと肩を撫で下ろす。
「余計なことしたかな、柔ちゃん」
聞き覚えのある声に振り返ると、パイナップル頭の鴨田がいた。
「あ、鴨田さん。お久しぶりです。助けていただいてありがとうございます。でも、どうしてここに?」
「審査員お疲れ様。僕は紅白の取材だけど、柔ちゃんはこんなところでどうしたの?」
「ちょっと居場所がなくて……」
「控室は? 迷子になったの?」
「そう言うわけじゃないんですけど。居づらくて」
「遠慮しすぎだよ。柔ちゃんは今やスーパースターだよ」
「そんなことないですから……」
「あ、そうだ。柔ちゃんそこに立って」
白い壁の前に柔を立たせる鴨田。柔は言われるがまま移動した。
「写真撮るよー」
「え? 写真?」
「ポーズとって」
そう言われてもモデルじゃないからポーズなんてとれない。しかし柔は笑顔を作って写真に納まる。
「良い写真が撮れたよ、ありがとう」
「いえ、そんなものどうするんですか? 新聞には載せないですよね」
「記念だよ。折角、綺麗な着物を着てるんだし。現像したらあげるから。じゃあ、また」
鴨田はそう言うとさっさと帰ってしまった。辺りはまだスタッフが入り乱れて仕事をしていて、柔はふーっとため息を吐いた。腕時計はとっくに12時を回っていて、いつの間にか1993年を迎えていた。なんだか虚しい年越しとなった。
帰宅したのは深夜だった。着替えてタクシーに乗って自宅に戻ると、家の灯りは消えており冷えた空気の廊下を歩いた。沢山の人がいたけど、寂しい年越しだった。こんなことなら虎滋郎もいる家でみんなでわいわいしてた方がよかった。
「おかえり」
玉緒が声を掛けた。
「お母さん、起きてたの?」
「まさか何時だと思ってるの? ちょっと水を飲みに起きただけよ」
「そうよね。驚いたわ」
「疲れてるでしょう。早く寝なさい」
「はーい」
静寂に包まれる猪熊家。母子の会話を別の部屋にいた祖父と父も聞いていて、無事に帰って来た娘の声を聞いた再び眠りについた。