10月のNYは朝と昼の寒暖差があり、重ね着などして調節しないと風邪をひきそうだと耕作は言うが、柔は産まれてこの方、風邪を引いたことがないからわからない。ただ、朝と夜は肌寒く耕作に貰ったストールを巻いて過ごしていた。
柔は1週間前にNYに来た。突然の転勤にバタバタと荷造りをして、会社が用意したアパートに送って様々な手続きをしてよくわからないままNYに降り立った。
会社から転勤に関してあまり口外しない方がいいと言われ、それには柔も余計な詮索などされたら面倒なので了承した。
連絡先を教えたのは友人では富士子だけだった。そんなに長くいるわけじゃないし、他の友人たちに教えたところで連絡を取るわけじゃないなら教えない方がいいかもと思ったのだ。それに用事があれば家にかけるだろうから、その時には玉緒の方から説明があるだろう。
柔道関係に柔は全く関知してないので、日本にいる滋悟郎に任せている。
邦子には耕作の方から情報が伝わっているようだったが、柔から電話をして知らせた。それでも声を上げて喜んでいた。それに柔はどんな反応していいかわからなかった。
支店での仕事は覚えることが多く、手伝いというには想像よりも大変だった。でもそれくらいの方がやりがいもある。耕作の本のお陰で柔のことを知っている人も多く、現地スタッフの柔道への理解も得ていたが、柔は仕事の方が楽しかった。
しかし柔道も仕事の内なので、滋悟郎から言われているメニューをアリシアと一緒に行った。柔にとってはいつものメニューだが、アリシアは付いてくることも出来ずにヘロヘロになっていた。
「全然慣れないわ。ヤワラはいつからこのトレーニングを?」
「子供の頃からだけど?」
アリシアは絶句する。
「ヤワラの強さの秘密がわかったわ」
それでも日本でのメニューの半分程度しかしていない。それに大きな大会の前になるともっと別のメニューが増える。それはアリシアには黙っていた。
「ところで、コーサクには会ってるの?」
休憩時間に水分補給をしていると、アリシアが不安そうに問い掛けた。
「実は会えてなくて」
「信じられない!こっちに来てもう1週間じゃない?」
「うん。でも、松田さんも忙しいみたいだし」
「それもそうかもしれないけど、せっかく会える距離にいるのに何のつもりかしら?」
柔は困ったように笑う。耕作は取材でアメリカ中を飛び回っている。電話はしてくれるが、なかなかNYに戻って来れないし戻って来ても深夜だったりして会いに行けない。柔はそのことを理解していたのでアリシアが思うほど怒ったりはしていない。日本にいる時に比べれば、近いのだから。
「でもね、明後日に会う約束をしてるの」
「そうなの?じゃあ、まあいいわ。どこへ行くの?なんならいい店教えるわよ」
「ちょっと会いたい人がいて」
「コーサクじゃなくて?」
「うん。アリシアはよく知ってると思うけど。ラスティさんに」
「ラスティって?ラスティ・カノギ?」
「うん。松田さんから話を聞いて会ってお話したいと思って。そしたら松田さんが会わせてくれるって言うから」
「そっか。ラスティは素敵な人よ。強いの。柔道も精神も。そして優しくて大きな人であたしの師匠」
「そうなの!?楽しみだわ」
柔は立ち上がると帯を締めなおす。
「さあ、休憩はここまで!次行きましょう」
「はい!」
柔はアリシアに稽古をつけているみたいだった。今後、自分の前に立ちはだかる強敵になるかもしれないのに、柔は楽しんでいた。
◇…*…★…*…◇
2日後、耕作は初めて柔の住むアパートにやって来た。鶴亀トラベルが借りているアパートは耕作のアパートよりも綺麗だが少し手狭だ。セキュリティは万全でオートロックで簡単には入れない。
「お待たせしました」
ちょっとおしゃれをした柔がアパートの玄関から出てきた。いつもと違うシチュエーションで二人は何となく照れ笑いを浮かべる。
「じゃあ、行こうか」
耕作は会社のボロイ車で来ていて、それに乗ってブルックリンにあるレストランへ向かった。久しぶりに耕作の横に座る。前にこの車に乗った時よりも、緊張している気がした。
「柔さん?」
「は、はい」
「どうした? 緊張してるのか?」
「え、ええ」
「怖い人じゃないから大丈夫だよ。それよりも、先に言っておきたいことがあるんだ」
「なんですか?」
「今回、ラスティと会って話すことを本に入れようと思うんだ」
「日本版のですか?」
「ああ。ラスティのことを知らない日本人は多いから。それは君のことを知らなかったアメリカ人に君のことを教えるために本を書いたのと同じように、ラスティのことを日本人にも知って貰いたいと思ったんだ。急で悪いんだけど……」
「構いませんよ。ラスティさんが許可してくれるならそれでいいですよ」
「それならもう話はしてあるんだ。柔さんと同じことを言ってたよ」
「そうですか。じゃあ、変なこと言わないようにしますね」
「なんだよ、変なことって?」
柔はクスクス笑う。車はアリシアの家とは別の方角に進み、レンガ造りの建物が並び映画の中で見るような昔のアメリカと言った風情の街に出た。可愛いアパートや庭に柔は目を奪われていた。小さな店も点在し歩いて回ったら楽しいだろうなと思っていた。
対談場所のレストランは古くからブルックリンにある店のようで、建物もドアも歴史を感じた。中に入るとチーズのいい匂いがして、テーブルにいた客が美味しそうにピザを食べていた。