vol.1 柔の誕生日
柔がNYに来て約3ヶ月。仕事も人間関係も慣れてきてちょっと一息ついたころ、日本からおめでたいニュースが飛び込んできた。
『本阿弥さやか、妊娠!』
耕作からFAXを見せて貰った柔は驚きと喜びで言葉にならなかった。
「出産予定は来年の5月みたいだ」
耕作は英語で話しかける。ブルックリンに行った後、二人で決めたことがある。二人きりでも極力会話は英語でということ。柔の英語力はまだまだ発展途上で、出来るだけ英語に慣れておいた方が仕事も生活も苦労がなくなるだろうと思ったからだ。
「ということは、全日本も体重別も出られないですね」
「淋しいかい?今、日本で君の相手になるのはさやか以外いないだろうしね」
柔はそんなことは考えていなかった。さやかが出ようと出まいと柔は試合に出るわけで、ただ結婚し子供を産むさやかが羨ましい。さやかの普通は柔の思い描く普通ではないけど、それでも幸せなんだろうと想像出来る事が羨ましい。
「柔さん?」
「あ、お手紙とか書いた方がいいですかね?」
「そんな必要はないよ。どうせ嫌でもいつか会うんだし。それより、柔さんは正月はどうするんだい?」
「一応、日本へ帰ろうと思ってます。おじいちゃんやお母さんも心配だし。でも、仕事が休めるかわからないですけど」
「そうだな。でもクリスマスはいるんだろう?」
「はい。今年もロックフェラーのツリーを見に行きましょうね」
「前見たのは一昨年だったっけ」
「そうですよ。折角NYに来たのに、あたし疲れて寝ちゃうし」
「俺は仕事で」
「だからロックフェラーのツリーは大切な思い出です」
そう言って笑う柔に耕作は胸が締め付けられる。NYに来てよく会うようになっても、何度も腕の中で眠る顔を見てもこの想いが薄れることがない。それどころかますます愛おしい。
「さ、さあ、行こうか」
「はい」
今日は柔の誕生日だ。初めて二人でお祝いする。柔がNYに来た時にはレストランを予約していた。ちょっと奮発してオシャレで美味しい有名店だ。
プレゼントは店に行く前に渡した。耕作らしくムードも何もなく、迎えに行って直ぐに「はい、誕生日おめでとう」と差し出した。あっけにとられる柔だったが、もう慣れたもので直ぐに笑顔になって受け取った。小さな紙袋の中に入っていた箱を開けると、綺麗なピンクの石が付いたシルバーのペンダントで柔はさっそく首に付けた。今日来ている服によく合っていた。
「どう?似合う?」
「あ、ああ」
その照れた反応だけで柔は分かる。それに似合わないものをプレゼントしないだろう。いくらオシャレや女心に疎い耕作と言えども。
そのペンダントが胸元で光って今日も柔は幸せそうだった。それを耕作も嬉しそうに見ていた。
◇…*…★…*…◇
一方、日本では柔が日本にいないことが既にマスコミには知れ渡っていた。猪熊家に取材に行っても姿もなく、鶴亀の柔道部にもいないことは直ぐにわかることだ。ただ、どこにいるかということは極秘にされ、社内でも限られた人しか知らない。
さやかの妊娠がわかり、コメントを求めようにも柔の所在が分からないでいると、一部のマスコミは柔も海外で極秘で出産しているのではないかと憶測を言い始めた。だが、滋悟郎がそんな根拠のないことをいう記者を一喝したので、年末にはその話はデマということで消え去った。
「余計な騒ぎは勘弁してほしいですね」
「同業者のお前が何を言うか、野波」
滋悟郎はやれやれと言った様子でお茶を飲む。
「まあ、そうなんですけどね。ただ、西野の所在が分からない今、変に刺激してもいいことなんてないじゃないですか」
「それにしても、西野とやらはどこへ行ったのか」
「前の会社や元同僚にも聞いたんですけどね、全く手がかりがないんですよ」
「家族はいないのか?」
「独身ですし、両親はすでに他界してるみたいで」
だから怖いのだ。誰かと関わり楽しくしていれば大丈夫だろうが、もし一人で思い詰めていたら何を考え行動するかわからない。
「柔さんの帰国の予定はあるんですか?」
「正月には戻ると言っておった」
「そうですか。僕が前に見たのは正月付近なので警戒は怠らないようにした方がいいですね」
「言われんでもわかっておるわ!」
野波はそそくさと猪熊家を出て行った。12月の風が首をかすめ、冷たさに身震いした。曇った空から雪が降って来て頬で溶ける。マフラーを巻いて会社に戻る。
◇…*…★…*…◇
ドアをノックする音がした。とても静かな雨のクリスマスの朝だ。
「松田さん?」
デスクの上には書きかけの原稿。少し開いた引き出しを見つめていた耕作は、柔の声に顔を上げた。
「ああ、直ぐ行くよ」
昨日、耕作のアパートに泊まった柔は出かける準備をしていた。少しだけ仕事が残っていた耕作は原稿を書こうと思っていたのだが全く手に着かなかった。昨日のクリスマス・イヴにはレストランに食事に行って、ロックフェラーのクリスマスツリーを見てアパートに帰って来た。一昨年とは違って甘い夜を過ごした二人だったのだが、耕作は浮かない顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、雨だなって思って」
「そうですね。こんなに寒いのに雪じゃないんですね」
「せめて雪ならよかったのにな」
「その方がロマンチックですね」
二人は街に出かけた。店が開いてないことは分かっていたが、クリスマスの雰囲気を味わうために出かけたのだ。部屋にいてもよかったのだが、柔は半分仕事も兼ねてよく外に出ていく。
NYに住んでわかったことだが、ニューヨーカーは雨の日に傘をさす人が少ない。雨に濡れても気にしないようだ。雨が少ない都市だからかもしれないが、それでもびしょ濡れで平気な顔で歩いてるのを見るのは不思議だった。
そんな中、二人は日本から持って来ていた傘をさして歩いていた。
「NYの暮らしには慣れたかい?」
「ええ。最近はやっと英語ばっかりの中にいる事にも慣れました」
NYに来て直ぐは落ち込んでたり、不安な顔をしていることもあったけど今は笑顔でいることが多い。柔は確実に自分の世界を広げている。それが自信になっていることは耕作の目から見ても明らかだった。
だから考えるのだ。このままでいいのかと。ポケットの中にしまい込んだ物を耕作は昨日、出すことが出来なかった。いくら本がアメリカで話題になって売れても、それは耕作というよりも柔への興味で自分の功績とは言えない気がした。そういう感情をデイビットに話した時、「考え過ぎだし、コーサクはもっと自信を持つべき」と言って励ましてくれた。自分が柔を支えて、応援していたころと状況が変わった。柔は自分の道を歩むことで別のものを見つけてしまうかもしれない。それを素直に喜べないことで器の小ささを実感してしまった。
赤い傘をさした柔がどんどん前に進んでいく。置いて行かれるような気分になるのはこれが初めてではないが、恋人同士になって柔が無邪気に笑って頼ってくるようになってからは耕作はその距離を詰める努力をしていた。それなのに、柔はNYで立派に生活して耕作が手を貸すこともあまりなくなった。それがやけに寂しい。
「松田さん!」
振り返って満面の笑みで耕作を見る柔をこんなにも愛おしく思うのに、これ以上を望むことを恐れている。
「どうしたんですか?」
「いや、どうしようかと思って」
「これからですか?」
「ああ、店はあんまりやってないし」
「街を歩くの好きですよ。雨は残念ですけど」
「そっか、じゃあ適当に歩くか」
本文中にも書いてありますが、柔と耕作のNYでの会話はほぼ英語です。ただ、名前はいつまでたっても「松田さん」と「柔さん」です。前後の会話が英語の場合は「松田さん」「柔さん」と日本語で読んでいますが、フォントは変えています。