耕作の帰国は一部の関係者にしか知らされていなかった。国民栄誉賞授与式で柔と共に会場を出て行って交際報道まで出て、それを否定してNYにいることが分かって騒動はすぐに沈静化した。しかし「YAWARA!」がアメリカで発売になると、日本でも話題になりその著者が耕作だと分かると再び交際を疑う声が出てきた。それにはっきりとした答えを出さないでいたのだが、その後出た柔の別の熱愛報道とその否定報道により何となく沈静化した。
今年に入ってからは阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のことを報道することでいっぱいで、柔の交際報道など消え去っていた。
それでも二人の接触を写真に撮られたりするのはよくないと考えた耕作は、極秘に帰国して隠密活動のように仕事をして全日本選手権の応援に行く予定を立てていた。
「余計怪しくないですか?」
そう言う柔に松田は笑って言った。
「用心するに越したことはないんだよ。なんせ俺はマスコミの人間だから、彼らの鼻の良さは嫌ってほど知ってる。犬並みさ」
耕作はマスコミ以外にも警戒する人物がいることをわかっていたから、こんな面倒なことをしたのだ。
『西野が姿を消した』
去年の7月に野波から聞いたとき、恐怖と不安を感じた。滋悟郎は万が一のために繋いだレオナルドとのパイプを日本に帰り次第使うことを躊躇わなかった。だからこそすぐに柔をNYに転勤させるように鶴亀トラベルと協議した。鶴亀トラベルの上層部の一部は柔を取り巻く異常事態を認識していたし、守るための決断に迷いはなかった。
耕作の帰国の目的は主に書籍の日本版に向けての最終チェックで、編集長と書籍担当者に会えば済む話だ。二人とも信用のおける人だから安心できる。
4月15日、耕作は1年以上ぶりに日本の地を踏んだ。迎えなどは一切断っていた。知り合いにばったり会う前にタクシーに乗り込んで、日刊エヴリー本社に行った。しかし待ち合わせたのはその近くの喫茶店だった。
電話ではよく話している編集長と久々に会ったところで、何の感慨もない。すぐさま、仕事の話になった。
編集長と書籍担当者と打ち合わせやチェックなどをして数時間が経った。
「じゃあ、これで印刷に回すから。でもこんなこと書いて大丈夫か?」
編集長は疲れた顔をしていた。忙しい合間を縫っての書籍の打ち合わせに、少し申し訳ない気持ちになる。
「ラスティのことですよね。日本の柔道界を敵に回すかもなって思ったけど、柔さんが対談してくれたからそこまで怒り心頭にはならないと思いますよ。それにこれは真実だから」
「まあ、それならそれでいいんだけど。これが最終でいいんだよな」
念を押すように編集長は言う。隣の担当者はどういうことだ? という顔をしている。
「実はもしかしたら加筆するかもしれなくて」
「ふーん。相手はなんて言ってるんだ?」
「いや、一応了承してますけど、家族の許しがないと……」
「もう少しなら待ってやれる。ちゃんと話して来いよ」
「はい……」
ホテルにチェックインした耕作は時差ボケの頭を解放して、そのままベッドに横になる。明日は野波と会う約束をしてる。実家にも電話をしなくてはいけない。もちろん柔にも電話しなくては……と思いながら眠りに落ちた。
翌朝目が覚めたのは、窓からの光があまりに眩しかったから。その光にちょっと苛立ちながら目を背け、ふーっと息を吐いてお腹が空いていることに気付いた。
昨日は何を食べたかな。そう考えていると、自分が日本に帰ってきていることに気づいた。そして電話を一切してないことにも気づいた。時刻は午前7時。耕作は慌てて受話器を取り、柔の家に電話を掛けた。数コールの後、聞きなれた声が出たがその声は少し怒っていた。
「あの、松田だけど……」
「はい。随分飛行機が遅れたんですね」
「いや、そう言うわけじゃないんだけど。ごめん! 編集長と打ち合わせしてホテルに行ったら寝ちまった」
柔は無言だった。その沈黙を耕作は怯えて、次の言葉を探す。
「ふふっ」
「え?」
「おかしいもの。松田さん、そんなに慌てて電話して謝って」
「君が心配してると思って」
「心配はしてました。でも、飛行機が遅れたとかましてや事故を起こしたなんて聞いてないから、日本に無事についてるんだろうなと思ってましたよ。それにお仕事をすることも知ってましたから、そのままホテルで寝てしまったんだろうなってことも想定してました」
「お見通しってわけか」
「ええ。でも、こんな風に電話してくれて嬉しいです」
「直接行ければいいんだけど」
「お仕事があるんですよね。それに、明日応援に来てくれるからいいんです」
「そうか……」
「だって、取材じゃなくて応援ですよね」
「あ、ああ」
何が違うんだ? と、耕作は思ったが柔の声は嬉しそうだ。
「明日、あたし頑張りますから!」
「おう! 久々に柔さんの試合が見れるんだ。俺も、今から楽しみだ!」
「あ、そろそろ朝食なんで失礼します」
「ああ。この後も、稽古だろう?」
「ええ、明日に向けて最終調整です」
「本当に楽しみだ」
「あ! 言い忘れてましたけど、お父さん帰ってますよ」
「え! 何で? フランスは?」
「さあ? 気まぐれで帰って来たのかも。ちょうどよかったじゃないですか」
「そ、そうだな……」
結婚の承諾を得るための訪問は全日本選手権の翌日にした。玉緒には既に柔から話がされていて、後は滋悟郎だけだと思っていたのだが虎滋郎までもいるとなると緊張は増すばかりだ。
受話器を置いて、今度は山形の実家に電話を掛ける。民宿を営んでいるので必ず「はい、民宿まつだですが?」と母の声が聞こえる。久々のその声に耕作は胸が暖かくなる。
「あ、俺だけど」
「なんだ? NYに行って年に一度しか電話もしてこねー親不孝息子が何のようだ?」
「それに関しては申し開きも出来ないが、急で悪いんだけど明々後日帰るから」
「あ? 急に何言ってるが?」
「だから言っただろう。急で悪いって。それでその時、紹介したい人連れて行くから」
「紹介したい人? まさかやっと結婚する気になったか?」
「ま、そういうことだよ」
「NY行って見つけて来たってことは、加賀さんじゃないってことか?」
「加賀くんは同僚だよ。それ以上の関係はないよ」
「そうか。じゃあ、一泊ぐらいするのが?」
「そのつもりだけど、部屋ないならホテルでもとるけど」
「あいてる。平日だし、スキーももう終わり時だしな。相手のお嬢さんが良ければ家に泊まればいいさ」
「じゃあ、頼む。それから俺が帰ることとか結婚のことはまだ近所には言ったりしないでくれよ」
「そうか……わかった。食事は洋食の方がいいか?」
「なんでもいいよ」
「口に合わなかったら申し訳ねえだろう」
「大丈夫だよ」
「それならいいんだが。じゃあ、気を付けて来るんだよ」
「うん。親父にもよろしく言っておいてくれ」
電話を切った。母親は完全に連れて行く人がアメリカ人だと思っているようだ。まあ、それならそれで勘違いしておいてもらえればいい。柔を連れて行くことを事前に言えればいいのだが、何となく言えなかった。
父親には以前、柔はやめておけと言われた。国民的英雄になってしまう彼女と自分じゃ差がありすぎると。自覚はしてたし、その差を埋める努力もした。まだまだ人の目から見ればつり合いのとれない、格差のある夫婦になるだろうけど当の本人たちはそんなことは感じていなかった。柔自身が自分をスーパースターだとも特別な人間だと思っていないし、そうなりたくないと思っているからだ。
耕作はとりあえず、シャワーを浴びて食事をしに出かけた。