部屋で仕事をしていると昼過ぎには野波がホテルに尋ねて来て、西野のことについて報告があった。
「結局所在不明か?」
「はい。恐らく部屋に入ったことがばれたんじゃないかと思うんです」
「なぜ?」
「僕が部屋に入ったあと直ぐに消えたんで」
「写真の持ち出しも知ってるかもしれないってことか?」
「そうですね。ネガも気づかれているかもしれません」
そうは言ってもあの写真とネガは回収しておかないと、後々何が起こるかわからない。
「怪文書もたまにだけど送られてきているみたいですよ。でもどれも郵送されてるようで、しかも消印の住所がめちゃくちゃだって言ってました」
「用意周到だな。何を考えているのまったくわからんな」
「わかったら怖いですよ。ところで、正月のことは聞きました?」
「正月? いや……」
「西野の年賀状が直接投函されてたそうです」
「は!?」
「年賀状って輪ゴムで束にして送られてくるみたいなんですけど、その年賀状だけ一番下に一枚だけあったようなんです」
「つまり郵便が来る前に投函されたと?」
「正確に言えば新聞より前です」
「そんな早くに……」
考えただけで背筋が凍る。大晦日から日付が変わる頃までは、住宅街と言えども人気がある。新聞が来るのが午前3時くらいだとすると、その2時間くらいの間に誰の目に触れずにことに及んだと言うことだ。
「しかも、赤く色が塗られていてそれが不気味で」
「年賀状はわりと赤いの多いと思うけど」
「朱色じゃなくて赤くて少し黒いんですよ。血液みたいで気味悪かったです。それが裏面に隙間なく塗られてるんです」
想像するとおめでたい雰囲気とは正反対な色だ。もう狂気の沙汰と思ってもいい。
「野波、俺、実は結婚するんだ」
耕作は俯きながら、低い声で言った。
「え? それはおめでとう……って大丈夫ですか?」
「そうなんだよな。今はきっとあいつも俺の事なんて知らないと思うんだけど、結婚ってなれば公表するしどう感情が動いて何をするか全く予想も出来ない」
「せめて居場所でもわかればわからせることもできるのに」
「わからせる?」
「ええ、やり方はいくらでもあります」
ニコッと笑う野波の笑顔が冷たく、若い頃に何をしてきたかを物語っていたがあえてそこは聞かずにおいた。
「公表のタイミングは編集長と相談するとして、これなんだけど」
耕作は封筒を渡した。
「これは?」
「原稿のコピーさ。ラスティの功績をまとめたものと柔さんとの対談を加筆した。原稿自体はもう編集長へ渡してある。君の満足いく内容になってればいいんだけど」
「本当に約束守ってくれたんですね」
「そりゃね。それにラスティのことは日本人なら知っておかなきゃいけないと思うし。それから何か違うなって思うところがあったら言ってくれ。まだ、少しだけ時間があるからなおしは出来るよ」
「一度持ち帰って読まさせていただきます」
野波は仕事が残っていると言うことで、会社に戻って行った。耕作は久しぶりの東京の街を歩いた。去年来た時は時間も無くて空港と会社と猪熊家しか行っていない。劇的に何か変わったわけじゃないけど、耕作の知る東京とは違う気がする。
派手に騒いで浮かれていた日本はそこにはない。耕作がNYに行っている間に日本の経済は大きく変化した。その影響で人々は慎重になり、どこか暗い空気が漂っている。
喫茶店に入ってコーヒーを飲んでいると、テレビで明日の全日本選手権のことを報道していた。柔は去年の体重別から試合には出ていない。約一年ぶりの試合に日本中が期待している。元々、試合数の少ない柔は出場すると言うだけで注目され、チケットも売り切れる。それにさやかが出場するとなると、更に入手は困難となる。だが今回はさやかの出場はないので比較的簡単にチケットはとれた。
「今年も猪熊の優勝ですかね」
「どうだろう。去年の試合は酷かったじゃないか。ギリギリ勝ってるようだった」
「それは感じましたね。やはりバルセロナがピークだったんですかね」
「年々、若い選手も出て来てるし猪熊だって年は取るだろう。負けたことがないけどいつかは負けるんだよ。誰だってそうさ」
耕作は黙って聞いていた。ここでもめ事を起こしても仕方がない。それに彼の言うことは間違ってはない。柔の強さは本物だけど、楽勝で勝って来てるわけじゃない。天才と言えども何かを間違えば負けることもある。
でもそれは明日じゃない。
耕作は会計を済ませ立ち去り際に言った。
「猪熊は絶好調ですよ」
「え?」
ドアを開けて外に出ると、綺麗な夕焼けが見えていた。
◇…*…★…*…◇
翌日は雲一つない快晴だった。続々と会場入りする選手たち。柔も道着に着替えて体を温めはじめていた。
「柔ちゃーん」
甘えた声を出したのは邦子だった。その後ろから野波の姿も見えた。
「あ、邦子さん、野波さんお久しぶりです」
「調子はどう?」
「いつも通りですよ」
「そんなこと言って、絶好調なんでしょ」
邦子はニヤリとして柔を肘で押す。
「ええ、まあ」
「で、どこにいるの?」
「観客席にいるようです」
「なんで?」
「色々、面倒なんで今日は静かに見るって言ってました」
「そう。その方がいいかもね。取材はあたしたちが頑張ればいいものね。野波くん」
「え、ええ」
邦子に話しかけられるまで野波は険しい顔で辺りを見ていた。それは観客席にいた耕作も同じだった。
帽子をかぶって少し変装をしている耕作は、早くに会場に入って辺りを歩いていた。もしかしたら西野が来ているかもしれないからだ。しかしあまりの人の多さに判別が出来ないでいた。
柔の近くは滋悟郎もいるし警備員もいる。危険はないはずだ。
試合が始まり、柔の登場になると物凄い歓声が上がる。特に目立つのが男性ファンの多さだ。さやかにも男性ファンが多いが、柔の控えめな性格と愛らしい容姿で徐々に男性ファンは増え続けている。メディアにあまり出ないことなどもあり、試合となれば全力で応援するスタイルは他の応援客が驚くほどだった。
柔は喫茶店の客の予想をはるかに裏切る結果を出した。全部の試合を開始一分以内で一本勝ち。どの選手も柔対策はしていたはずなのに、誰も歯が立たなかった。柔はバルセロナ五輪のころより進化している。
その結果に記者たちも興奮してなかなか柔を解放してくれなかった。滋悟郎が中に入って質問に答えようとしたが記者は意に介さず、柔にばかり質問を続けた。これではらちが明かないので更衣室に無理矢理入った柔は急いで着替えて、滋悟郎の手を引いてタクシーに乗り込んだ。
「まったくしつこい連中ぢゃ!」
「こんなことになるなんて思っても見なかった。あ、運転手さん、テンプルトン・ホテルへ行ってください」
「なんぢゃ、祝勝会でもやろうっていうのか?」
「言ったでしょ。試合の後に大切な用事があるって」
「わしも行くのか?」
「もちろん」