東京のテンプルトン・ホテルは5年前に開業した。東京の一等地にある立派な建物でサービスや食事などは超一流の高級ホテルだ。
正面玄関にタクシーが到着すると、ドアマンがにこりと微笑んでドアを開けベルボーイが引き継ぎ小声でささやいた。
「猪熊さまですね。ご案内いたします」
落ち着いた雰囲気のフロントを通り過ぎ、エレベーターで15階まで上った。
「全日本優勝おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
「なんで知っておるんぢゃ。おぬし、仕事をさぼってテレビでも見ておったのか?」
「そんなわけないじゃない。すみません」
ベルボーイはニコリを微笑んだ。もちろんさぼってなどいない。柔が来ることを知っていた別のスタッフに、状況を把握するために見ていたテレビの情報を教えて貰ったのだ。
エレベーターのドアが開いてレストランの個室へと案内された。中に入ると耕作はもちろんだが、玉緒と虎滋郎が席についていた。
「あ、柔さん」
「遅くなってごめんなさい」
「なんぢゃ? 日刊エヴリーが何でここにおる?」
「それはこれから説明するから。座って」
滋悟郎はドシドシと歩いて見るからに高そうな椅子にドシンと座った。それに続くように柔と耕作も並んで座る。
高級ホテルのレストランってだけでも緊張するのに、豪華な装飾で目が眩みそうな場違い感が耕作をより緊張させた。でも、耕作はありったけの決意と勇気をもって口を開いた。
「ここにお集まりいただいたのは……」
目の前にいる滋悟郎と目が合う。鋭い目つきはとても老人とは思えない。だがそれに臆するほど耕作は滋悟郎を知らないわけじゃない。
「僕と柔さんの結婚を認めていただきたく……」
チラリと滋悟郎を見る。表情に変化はない。それをどうとらえていいかわからない。
「あの……滋悟郎さん?」
「なんぢゃ?」
「柔さんとの結婚を認めていただけますか?」
「柔がいいと言っているならいいではないか。それに玉緒さんがいいならわしはいうことはない」
「おじいちゃん?」
「反対するとでも思ったのか?」
「はい……」
「相変わらず何もわかっとらんな。お前がどうしようもない男ぢゃったらわしはとっくの昔に、柔から遠ざけておるわ」
「それもそうね……って、そんな風に誰かに何かしてないでしょうね」
「言わぬが花ぢゃぞ」
そういって笑う滋悟郎に安堵した耕作。そして続いては虎滋郎の方へ向く。
「あの、虎滋郎さん……」
「俺は何も言う権利はない。ただ松田くんなら安心だ」
「そうですよ。柔のことをずっと見ていてくれたんですもの」
玉緒がそう言って微笑むと耕作は泣きそうになる。柔も安堵の表情を浮かべる。
「さあ、飯ぢゃ、飯ぢゃ」
「もう、おじいちゃんったら、食事の事しか興味ないの?」
「用事は済んだのぢゃろ。だったら腹ごしらえぢゃ」
すっかり緊張も解けた耕作は普段通りに戻って、全日本の興奮を熱く語る。オリンピック以来の柔の公式戦だっただけに、語りつくせないほどだった。柔は褒められているのがとてもくすぐったくて、でも耕作のいきいきとした表情に胸がきゅんとする。
「ところで、松田さん」
「なんでしょうか」
玉緒が様子を見計らって言葉を挟んだ。このまま楽しく食事をして終わりでもいいのだが、耕作はアメリカに戻らなくてはいけない。それまでに話さなければいけないこともある。
「結婚のこと、いつ公表するのですか? 交際していることも秘密にしていますでしょう」
玉緒は心配そうに尋ねた。自分の娘が国民的ヒロインになったことをあまり自覚してなかったが、レオナルドの件で少しだけ理解した。芸能人のように恋人の噂が出ただけで騒がれると言うことを。
「それはね……」
柔は耕作を見た。二人は目が合い耕作は頷く。そして口を開いた。
「今度、アメリカで出した本の日本版を出版することになりました。その際に日本人にとっては必要ない部分は削除して、その分加筆したこともあります。本は日刊エヴリーから出しますので、発売の前日には日刊エヴリーに結婚のことを記事にして貰います」
「本の宣伝も兼ねているということぢゃな」
「はい」
「柔はそれでいいの?」
「うん。どうせ記事になるなら日刊エヴリーがいいし、本も出すなら同時期の方がいいと思うの」
「他の新聞に書かれるのも複雑だものね。結婚式はどうするの?」
「富士子さんみたいな式も素敵だけど、今の状況を考えると派手にするのは避けたいわ」
震災、テロと続き日本の傷はまだ癒えていない。そんな中でおめでたいことをすることで、元気づけられる人もいるだろうが不謹慎だと反発する人もいる。だからと言って、全ての人がおめでたいことを自粛するのも何か違うと思うのだ。だから柔はささやかに式を挙げようと考えていた。
「教会で式をして、レストランで食事をするだけでもいいと思うの。家族と友達と親しい人でお祝いして貰えればいいわ」
「日本は景気も悪くなっているし、派手にするのはやはり世の中の流れに合ってないと思うんです」
滋悟郎は黙っていた。派手好きで目立ちたがり屋の滋悟郎は、柔の結婚式には報道陣も入れてテレビ中継などを考えていたかもしれない。それなのに先手を打つように二人がどういう式にするかをほぼ固めてきてしまっていた。
「仕事はどうするの?」
「会社に相談して決めたいと思ってるの。出来れば続けたいけど、迷惑になるようなら辞めることも考えてるわ。それにしばらくはアメリカにいたいとも思ってるし」
「そうね。新婚早々離れ離れってのも寂しいわよね」
玉緒にそう言われ、柔と耕作は顔を赤くして狼狽える。
「とにかくそう言うことだから、おじいちゃん、発表までは他言しないでね」
「無論ぢゃ。わしはそんなに口が軽くはないわい!」
その場にいた誰もがただ冷たい目で滋悟郎を見ていた。虎滋郎がさやかのコーチになったことをテレビでつい漏らしたのはどこの誰だったのか。
「なんぢゃ、その目は」
「いいえ、約束は守ってよね」
「本の発売は7月半ばを予定してます。式はその前までに日本で挙げようと考えてます」
「好きにしたらいいわい!」
あっさりと滋悟郎は二人の結婚も式も許してくれた。目立ちたがり屋で派手好きなのに、どういう心境の変化なのか。柔は首を傾げるばかりだが、耕作はその理由を察することが出来ていた。