元日の朝はとてもよく晴れていた。早朝から道場では滋悟郎と虎滋郎が稽古にいそしみ、玉緒はお雑煮の準備に取り掛かっていた。柔は昨夜の疲れからまだ眠りから覚めない。
滋悟郎たちの稽古が終るころ柔も起きて来て、こたつに入り込んだ。
「いつまでも寝ておって、たるんどるぞ!」
「仕方ないじゃない、夕べ遅かったんだもん」
「まあまあ、新年から何を言い争っているんですか? お雑煮のおもちはいくつにします?」
「五つもらおうか」
「おじいちゃん、そんなに食べるの? あたしは二つ」
「俺も五つ」
「はい、わかりました」
玉緒は賑やかな食卓に目を細めながら、台所へ向かう。家族がそろったお正月なんて何年振りだろうか。胸がいっぱいで幸せだった。
午前10時少し前。柔は電話の傍にいた。朝食も終えて滋悟郎たちは初詣に出かけ柔だけ残っていた。それにはもちろん理由がある。
玄関前にある黒電話がけたたましくベルを鳴らす。柔はそれをお得意の反射神経で素早く取ると「もしもし、猪熊です」と相手がわかっていながら言ってみた。
「あけましておめでとう、柔さん」
「あ、あけましておめでとうございます。松田さん」
NYを発つ前に二人は約束していたのだ。年が明けたら電話すると。でも、柔は紅白に出るから日本時間での年明けには電話が出来ない。だったらNYでの年明けにかけて来てと。それを柔は待っていたのだ。
「今年もよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「昨日の紅白はどうだった?」
「贅沢な体験をさせてもらえましたよ。一流の歌手のステージを間近で見られたんですから」
「だろうな。毎年何となく見てた紅白を見られないのは何とも寂しい気持ちだよ。NYも年越しは盛大にやるんだけど、お祭り騒ぎみたいで情緒がないんだよな。しんしんと雪が降る寺を見ながら除夜の鐘を聞くってのが乙だよな」
「案外、古風なところがあるんですね」
「そりゃな。初詣も行けないし、餅も食えない。正月らしさはNYには皆無だな」
一人NYで年越しなんて柔だったら寂しくて堪らない。そんな状況にいる耕作に何もしてあげられないことが悔しい。
「柔さん? どうした?」
「いえ、あたしも昨日は紅白のどさくさでいつの間にか年越ししてて……あ、そうそう鴨田さんに会いましたよ」
「NHKホールでか?」
「そうです。取材に来てるって言ってました」
「そういや毎年、年末は紅白だって言ってたな。芸能担当も大変だな」
「そうですね。慌ただしくしてました。でも、ちょっと助かりました」
「何かあったのか?」
「いえ、知ってる人がいると安心って言うか……」
「男子柔道の甲賀選手もいただろう?」
「そうですけど、甲賀さんとは親しくないですし」
「そっか。鴨田もたまには役に立つもんだな」
「何言ってるんですか。いつも助けられてるじゃないですか」
「そうだった。はははっ」
「あの、クリスマスプレゼントありがとうございました。素敵なストールで使うのが勿体なくらいです。お礼が遅くなってすみません」
「いや~安物で申し訳ない。こちらこそマフラーありがとう。NYは寒いから重宝してるよ」
「そんな、使っていただけるだけで嬉しいです」
「俺もそうだよ」
二人はお互いにクリスマスプレゼントを用意していたのだが、それを言い出せずにいてNYで手袋交換をしてしまったのだ。だから柔は自分が使っていたベッドルームにプレゼントをそっと置いて部屋を出たのだ。そしたら日本には耕作からのプレゼントが届いており、二人してプレゼントがあることが言えないでいたことがわかり、柔はとても嬉しくて暖かい気持ちになれた。すれ違っていたと思っていた気持ちが実は同じだったとわかったのだ。
「おはようございまーす」
突然玄関から声がして音を立てて戸が開いた。柔は驚いたが玄関の前にいたのは、親友の富士子とその夫の花園、そして娘の富薫子だった。
「あれ、猪熊さん電話中?」
「あ、うん」
受話器の向こうから聞き覚えのある声がして富士子の顔がにやりと笑う。
「松田さんね~お邪魔したかしら?」
「そ、そんなことないわ。もう、切るとこだったし」
「本当かしら……あ、でも松田さんならちょっと替わって貰ってもいいかしら?」
「うん。どうぞ」
受話器の向こうの耕作は何となく聞こえてくる情報しかなく、突然聞こえてきた富士子の声に少々驚いた。
「あけましておめでとうございます、松田さん」
「あ、おめでとう、富士子さん」
「フクちゃんのクリスマスプレゼントありがとうございました。毎日遊んでますよ」
「そりゃよかった。おもちゃなんて選んだことないからわからなくて」
「松田さん、NYでお忙しいみたいですしあまり気を遣わないでくださいね」
「いや~富士子さんたちにはお世話になってるし、ほんの気持ちだよ」
「気持ちだけでありがたいですし、二人の役に立てるならあたしたちはそれで満足ですよ」
後ろにいる花園も笑顔でうなずいている。そして富士子は柔に電話を替わった。
「あの、松田さん」
「ああ、そろそろ切るよ。そっちはこれから初詣だろう。俺はもう寝るよ」
「そうですね。おやすみなさい」
「おやすみ」
そっと受話器を置く柔。それを二人はニヤニヤしてみている。
「何よ、二人とも」
「別に~」
◇…*…★…*…◇
初詣は近所の神社へ出かけた。ここでは数年前に晴着の切り裂き魔が出てさやかが取り押さえて話題にもなった場所だ。実際は柔が投げたのだがそれはその場にいた人しかしらない事実。それ以降、さやかはここには来ていないようだが柔は毎年ここに初詣に来ている。
参拝客はそこそこいるが露店などもないので、人の流れはスムーズだ。
「滋悟郎先生はもうここへ?」
「ええ、お父さんとお母さんも一緒に出たから。多分、お神酒をいただいてるんじゃないかな」
鳥居をくぐり参道を歩いていると、人々のざわめきがより一層大きくなったような気がした。
「あれ、猪熊柔じゃないか?」「猪熊だ」「柔ちゃんよ」「花園もいるぞ」などと言う声がそこかしこから。近所の人は柔が初詣に来たくらいでざわつかないが、普段は見かけない人も来るのが初詣。少々、パニックになりつつある。
柔たちは早足で拝殿に向かい、手を合わせる。そして裏手に回り滋悟郎たちを探す。
「おじいちゃーん」
拝殿の脇でお神酒をいただいている滋悟郎は柔の声に振り返る。
「お、ノッポのねえちゃんたちも来てたのか」
「あけましておめでとうございます」
二人は師匠である滋悟郎に挨拶をして頭を下げる。
「ねえ、お母さんたちはどうしたの?」
「もう帰ったわ」
「えー入れ違いになったのかしら」
「おまえがぐずぐずしてるからぢゃろ」
「そんな~」
「花園とノッポのねえちゃんは一杯やってくか?」
「フクちゃんがいるので、お酒は控えています……」
「そうか、つまらんの。甘酒ならどうだ?」
「それならいただきます」
柔たち三人は滋悟郎がいる拝殿の脇に上った。富薫子は歩きたいと足をバタつかせたので花園は自分の腕から下ろすと途端に歩き回った。さすがに神社なので慌てて追いかける花園。やっと追いついたかと思ったら参拝客が見える場所まで来ていて思わず眺めていた。
「人が沢山いますね~フクちゃん」
「だー!」
拳を振り上げるがそれは同意ではなく、歩かせろの意思表示。癇癪を起す前に花園はその場を後にして富士子の元に戻った。
「花園くん、フクちゃん見ておくから甘酒頂いたら?」
「ん? ああ、いいのか」
花園は滋悟郎の横に座ると、柔が紙コップに入った甘酒を持ってきた。
「どうしたの、花園くん」
「いや~さっきから何か引っかかってて、気持ち悪くて」
「小骨?」
「そう言うんじゃないだが……」
「なんぢゃ、腹が減っとるんぢゃないのか?」
「もう、おじいちゃんじゃないんだから」
「いや、腹は減ってるぞ」
「ほれ! ははははっ」
滋悟郎の笑い声に引き寄せられるように富薫子はたどたどしく歩いてきた。それを滋悟郎は抱きとめると、優しく頭を撫でた。その様子を見て柔は目を細めた。