vol.1 民宿「まつだ」
テンプルトン・ホテルで柔の両親と滋悟郎に結婚の許しを得た耕作は一先ず安堵した。元々、猪熊家とは良好な関係を築いていたので、強い反対をされるとは思ってなかったが滋悟郎が何を言いだすかがわからなかった。ただ柔の恋愛に対しては、バルセロナ五輪が終わるまでは御法度と言うこと以外、相手の条件などはなかった。あまりにも不釣り合いな男を連れて来たら反対するつもりだったかもしれないが、滋悟郎も耕作のことはわかっていたので何も言わずにいたようだった。
「おはようございます」
耕作の隣で眠っていた柔の声がした。ふかふかの大きなベッドはさすが一流のホテルで二人ともぐっすり眠れた。
「おはよう。疲れはとれたかい?」
「はい。もう時間ですか?」
「ああ、そろそろ起きないと」
今日は山形の耕作の実家に行くことになっている。だから昨日はあらかじめ柔の荷物をここに運んで貰い、耕作も最初に泊まっていたホテルをチェックアウトして移って来ていた。
そもそもテンプルトン・ホテルのレストランや宿泊に関しては当然社長であるレオナルドのプレゼントだった。耕作が柔の両親と食事をする話をしたら、部屋と一緒に予約を入れてくれた。これは新聞記事にしてしまったことで傷つけた柔へのお詫びだと話したが、柔はそのことを知らないので伝えようもなかったが粋な計らいとして受け取っていた。
朝食をとって身支度を整えて二人はチェックアウトをしてタクシーに乗った。東京駅から新幹線に乗って山形へ向かう。柔は緊張して口数が減っていたが、耕作も何故か無口だった。
帽子と眼鏡で変装をしていた柔は乗客に気付かれることなく、無事に最寄りの駅に到着した。
「ちょっと寒いですね」
「あ……うん。だからコートとかあった方がいいって言っただろう?」
「そうですね。持って来て正解でした」
淡いピンクのスプリングコートを着た。風がふわりと吹いて同じ色の花びらが柔の目の前で揺れた。
「桜……? まつ……耕作さん、桜の花びらですよ」
名前を呼ばれたことで耕作はびくっとした。
「今が時期だからな。ついこの前、雪が溶けたばっかりで……あー名前で呼ばれるの慣れないとな」
「すみません。あたしがいつまでも名前で呼べないでいたせいで……」
「いや、いいんだよ。これからずっと一緒にいるんだし」
そう言って二人とも顔を赤くする。いつまでたっても照れてしまうのは性分かも知れない。柔が耕作を名前で呼んだのは去年の耕作の誕生日の時だけ。NYに長期間いた時も、その高い壁を超えることが出来なかった。
タクシーを使って耕作の実家「民宿まつだ」へ向かう。長閑な田舎道を柔は興味深げに見ている。都会育ちの柔には何もかもが新鮮だ。遠くの山にはまだ雪がかぶり、青い空とのコントラストが美しい。
「田舎だろう?」
「でも、綺麗なところですね」
程なくして実家の前にタクシーが停車すると、柔はいよいよ緊張して心臓が口から飛び出そうになった。その反面、耕作はただの里帰りなのでとても気楽なのだが少し元気がないように思えた。
「緊張しなくていいよ。普通の田舎のおじさんとおばさんだから」
「そんなわけにはいきませんよ。あたしは御両親と初めて会うんですから」
柔はもう一度大きく深呼吸をした。試合前でもこんなに緊張しない。心を落ち着けようと耕作を見るともう玄関ドアに手を掛けていた。
「え? ちょっと……」
「ただいまー」
民宿の玄関をガラッと開けると右側に靴箱、その奥に階段、廊下を挟んで左にフロントがあった。フロントには玄関側から人が出入りできる場所はなく、奥の部屋へ続く扉とその部屋を出入りする扉が階段の横にあった。その扉が開いて細く小さな女性が顔を出した。
「あら、早えっけな。もう少し時間かがると思ってだ。ん?」
「新幹線降りてすぐにタクシー乗ればこんなもんだろう。親父は?」
「あ……ああ、奥にいるよ」
耕作はやれやれといった感じで靴を脱ぎ始めるが、柔は意を決して口を開いた。
「あ、あの。はじめまして。猪熊柔といいます」
思いの外大きな声が出た柔は自分でも驚いて顔を赤くして俯く。耕作も思わず振り返る。そして奥からドタドタと音がして、四角い顔の男性がフロントに出てきた。
「今、何て言った?」
「え? あの、猪熊柔です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
そう言って頭を下げる柔。耕作の両親は二人とも目を丸くして柔を見ていた。
「柔さん、靴脱いでここに置いてスリッパにかえるといいよ」
「はい」
両親は未だに目の前にいる人が柔だと信じられなくて言葉もなく、柔の行動をただ見ていた。
「荷物どこに置けばいい?」
耕作の言葉に我に返った二人。
「耕作は自分の部屋に。や……あなたはこちらへ」
母親がそう言って柔を客室のある二階へ案内した。耕作の部屋は隣の敷地に増設した自宅の一階なのでそちらへ向かう。
「お、おい、耕作!」
「なんだ?」
「なんだじゃねえ。あれは本物か?」
「柔さんの事か? 同姓同名が二人いるような名前じゃないだろう。それに顔も知ってるだろう?」
「そうだが、まさかお前……」
父親は昔、耕作に「猪熊柔はやめておけ」と忠告したことがあった。それは柔という人がこれからスターになることが分かっていたので、耕作じゃ釣り合わないからみじめな思いをすることもあるだろうからそう言ったのだ。それに耕作の片想いが成就するなんて思ってもいなかった。
ただ、国民栄誉賞の授与式で二人が手を取って逃げた映像は日本中に発信され、この時ばかりはもしかしたらと思ったくらいだ。しかし、その後正式に交際を否定し騒動も沈静化し、去年には柔に大富豪との熱愛報道まで出て両親の頭から柔のことは国民的柔道家という認識しかなくなっていた。
二階に上がった柔と母親はしばらく無言だった。部屋に通された柔は荷物を置くと周りを見渡す。
「ここは宿泊用のお部屋ですか?」
「古くて狭いでしょ」
「いえ、とても素敵なお部屋です。でも、あたしが使ってもいいんですか?」
「それは構わないよ。今日はお客さんいないから」
「ありがとうございます」
「あなた、本当に猪熊柔さんなの?」
「え? ええ、猪熊柔です」
「柔道の?」
「はい」
「オリンピックで金メダル獲ったのよね?」
「はい」
「国民栄誉賞も貰ったのよね?」
「僭越ながら」
「そう、間違いないのね」
母親の心は複雑だった。耕作は自分の好きな人を射止めたのだが、その相手があまりに立派過ぎて今後の生活が想像もできない。その思いが表情に出ていたようだった。柔の表情も沈んでいた。
「入るよ」
耕作の声がして二人はドアの方を振り返る。
「何してるの、二人して」
「ちょっと耕作!」
母親は耕作の腕を引っ張って廊下に連れ出す。
「なんだよ」
「紹介したい人って彼女なんだろ?」
「他に誰がいるんだよ」
「わかってるけど、頭がおっつかねえ。付き合ってたのかい?」
「ああ、まあ」
「いつから?」
「アメリカ行く直前からかなって、なんでこんなことおふくろに言わなきゃいけないんだよ」
「じゃあ、あの否定記事はなんだ?」
「あれは騒動を沈めるための嘘だよ」
「親にも何も言わずにか?」
「別にいいだろう」
母親は責めたいわけじゃないのだが、感情が追いつかないのだ。可能性の中に全く無いわけじゃなかったが、ほんの1%ほどの可能性の人物が来てしまってどうしていいのかわからない。そのまま何も言わずに階段を下りて行ってしまった。
山形弁わかりません! 間違っていたらというか、間違ってます。申し訳ございません。