耕作は柔のいる部屋に入ると、柔は不安そうな顔で見ていた。
「どうした?」
「ご迷惑でしたでしょうか?」
「そんなことないよ。ただ、戸惑ってるんだ」
「急に来たから……」
「うちは民宿だからお客さんが急に来ることで戸惑ったりしないよ。でも君が来たことには戸惑いがね……」
普段自分が五輪のメダリストだとか国民栄誉賞をいただいたことなどを気にしたことはない。いい意味で無関心なのだが、今回ばかりはそうも思えない。
「あたしが普通のOLだったらこんなことにはならなかったですよね。きっともっと喜んでくれたんですよね」
「それは違うよ」
「え?」
「君が普通のOLだったら俺たちは出会ってもいないんだから。俺は柔道をしている柔さんだから見つけられたし、追いかけた。こんな話、前もしたな」
そうは言っても柔の表情は晴れない。大歓迎されると思っていたわけじゃないけど、普通に迎え入れてくれると思っていた。
「俺は今まで彼女とか家に連れて来たことがなくて、最初が柔さんだろう? だから心の準備が出来てなくてちょっと混乱してるんだ。もう少ししたら何でもないような顔で、声を掛けて来るさ」
耕作は部屋の窓を開けて風を通す。少し冷たい風が、部屋の中の重い空気を一緒に消し去ってくれればと思った。だけどそんなに人の気持ちは簡単に変わらない。
ドアがコンコンと音を立て開いた。
「お茶が入ったけどどうかしら?」
母親が余所行きの声をだして顔だけ見せてそう言うと、耕作は笑いを堪えながら「すぐ行くよ」と返事をした。
「大丈夫だよ。戸惑ってるのはみんなそうだから」
「ま……耕作さんも?」
「そりゃそうだよ。俺は反対の意味だけど」
「反対?」
「それはまあ、気にしないで。さあ、お茶にしよう」
「ええ……」
ぎしっと音がする階段を下りて、廊下を歩いて奥の勝手口を抜ける。すると別棟と繋がっており、そちらは自宅として使っているスペースのようだった。縁側を歩いて開いた障子の奥にテーブルがありお茶とお菓子が用意されていた。
座布団が並んで置いてあり柔と耕作は隣同士に座った。
父親は未だに信じられないと言った様子で柔をじっと見ていた。その様子に柔は戸惑いながらも笑顔を見せたが、耕作がたまらず口を開いた。
「どうしたんだよ。俺が柔さん連れてきたのが信じられないのか?」
「そう言うわけじゃないんだが。なんだか不思議だなって思ってな」
「は?」
「テレビで見てた人が目の前にいるって言うのは不思議だろ?」
「それもそうかもしれないけど……」
母親がお茶を柔の前に置いた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ。失礼なことだってわかってるんだけどな、どうしても信じられねくて。それに、耕作がNYに行ってから見つけてきた子だと思ったからてっきり金髪で青い目の女の子かと思ってたんだけど、それ以上に驚く相手だったがら」
「すみません……」
「謝ることはねえよ。勝手な勘違いだがら」
「いえ、秘密にしようと言ったのはあたしなので」
「なすて?」
「色々とご迷惑がかかると思ったので……」
「でも、実家に言わないでいたのは俺の判断だから」
「そうけ」
母親はそう言ってお茶をすする。
「で、二人は結婚するのが?」
父親がそう言うと、耕作は「だから紹介に来たんだ」と言う。
「あの!」
「ん?」
三人が柔を見る。すると決意の目をした柔が言った。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
頭を下げる柔に母親は「こっつこそ、よろしく」と笑う。父親も笑顔でうなずいた。
それで柔の表情は一気にやわらかくなった。
「それでな、現実問題生活はどうするんだ?」
「急だな」
「そりゃ気になるだべ。大切なお嬢さんいただくのに、どだいな将来ば描いてるのか考えてねずんじゃあ、示しがつがない」
「わかってるよ。とりあえず二人で話し合った今後は、7月に式を挙げて届も出すことになってる」
「世間様にはいつ言うんだ?」
「その後だよ。アメリカで出した本を日本語にしたものを出す予定で、その中でも結婚について書こうと思ってる。だけどその前にウチの新聞には載るだろうけど」
両親は訝しげに眉を寄せる。
「柔さんはそれでええのか?」
「ええ。どのみち、新聞には載るなら日刊エヴリーがいいですし、それで後で出す本に何もないのは買っていただいた方にも申し訳ないですから。それにその頃にはあたしたちはNYにいるんでさほど騒ぎにはならないかもしれませんが、こちらには記者の皆さんが押しかけて来るかもしれません」
猪熊家も何度も記者が家の前に来て大騒ぎになったことがある。そうなると本当に迷惑だし、ご近所にも申し訳ない。そういう思いを耕作の実家でもされると思うと胸が痛む。
「それはしゃあねえべ」
父親がそう言う。
「今日の事なんかばをすこす話して、それ以上何もないと分かればすぐに帰るだべ。それにこっちも宣伝させて貰えればお釣りがくるくらいだべ」
「そうだべ。だけども騒ぎになる前にはお客さん入れねえようにするから、ちゃんと日付だけは教えておいてくれねえと」
「わかってるよ。全くいい根性してる」
二人でにんまりと笑う。そして母親は何か思い出したように言った。
「ところで、柔さん、仕事してなかったが?」
「はい、鶴亀トラベルでお仕事させて貰ってます。実は去年から今年の3月までNYで勤務してて、試合のために戻ってきたんですけど式までは日本で仕事させてもらって、その後またアメリカへ行きます。会社からは来年の2月くらいまでいて欲しいと言われているので」
「そりゃ、二人にとってはよい機会だな。オリンペックは?」
「もちろん五輪に向けて柔道は続けます。NYでもいい練習場所がありますし、こうなったら祖父も渡米して稽古つけると思うので。日本での試合前には帰国して調整しなきゃいけないので、その間は耕作さんには不便をかけてしまうと思いますが」
「俺のことは気にしなくていいよ」
「んだ。耕作は頑丈に産んだから平気だ。それより柔さんが心配だ」
「あたしですか?」
「平気だよ。アメリカの環境もいいし、いい練習相手もいる。柔道に関しては心配いらないよ」
「住まいはどうするんだ?」
「あたしが借りていた部屋は退去して耕作さんの部屋に荷物を入れることにします。祖父は一人では何もできないので、知り合いの家に居候させていただくことになります。その代わり柔道の指導をするみたいです」
「アリシアを鍛えるってことか。ライバルに塩を送ることになるな」
耕作が少し心配するが柔はなんてことない表情をしている。
「そうですね。でも、アリシアとは階級が違いますから」
「無差別級に出ないつもりかな」
「どうでしょうね」
和やかに話す二人に両親はホッとしつつも、あまりに自分たちはかけ離れた未来像に想像するのが難しい。
「耕作は仕事はどうすんだ?」
「俺? 俺は日刊エヴリーにいるよ。NYでの仕事も慣れて、野茂が大リーグに行っただろう、今後も彼に続いて日本人がアメリカで活躍するようになるよ。それを俺は取材したいんだ」
「柔さんのサポートはしねえのか?」
「それは……」
耕作に顔は曇って俯く。
「お前はいつも自分の事ばかりでないべか! 結婚するってことは女が男ば助けるだけじゃないんだ。柔さんの方が大変ならお前が助けてあげないと。それが夫婦ってものじゃないか」
母親はそう言って声を荒げた。しかしそれに柔が答えた。
「あたしのことはいいんです。耕作さんはお仕事を頑張って欲しいですから。それにあたしはいつも助けられてますから」
「そうは言っても。日本中の期待を背負った柔さんと結婚して応援するだけなんで、そんな不甲斐ない夫がいるけ?」
「耕作さんにはお仕事続けて欲しいです。あたしのサポートは別の誰かが出来ますけど、耕作さんの記事は耕作さんにしか書けませんから」
にこやかに言う柔に両親はもう何も言えなかった。
「そこまで柔さんが言うなら、こっつから言うことはもうないけど」
複雑な顔の母親はまたお茶をすする。