軽ワゴンに乗って植田旅館に向かった耕作と父。村はのどかでそこかしこに桜が咲いて、道端にはたんぽぽが黄色く揺れている。
「この辺はあんまり変わんねえな」
「まあな。道が綺麗になったくらいだべうか」
人も車もあまり通らない道の脇には、サクランボ畑があり今まさに収穫時期で赤いかわいい実が鈴のようにぶら下がっている。
「未だに信じられねえ」
「んあ?」
「お前があの猪熊柔ば連れて来るなんて」
「親父にはやめとっけって言われたもんな。俺だってあの前からずっと自分とは釣り合わないことも、もっとその差が開いちまうことも分かってたんだけどな」
「諦めきれねかったのか?」
「最後のチャンスに賭けたってとこだな。アメリカに行く前にけじめつけようって思ったら上手く行ったんだよ」
国民栄誉賞授与式から逃げるように空港に行った日、自分の手を取って一緒に走ってくれたことに一縷の望みを賭けた。長年追い掛け回しても見えなかった気持ちの片鱗が見えた気がした。
「案外、普通の娘だったな」
「そうだろ。でも、柔道は強いんだ」
民宿の組合長でもある植田家は車で数分の距離なので、雑談に花が咲く前に着いてしまった。ぎっくり腰をやった組合長は起きることもままならず、妻が出迎えてくれた。
「すみねえ、松田さん。無理言って来てもらって。お体は大丈夫だべか?」
「いや、こっつも久美ちゃんには助けてもらったけばお互い様だべ。それに今日は耕作が帰って来てるからこき使ってくれ」
「あら! 随分逞しくなって。アメリカにいるって聞いてたけど、帰って来てたの?」
耕作の記憶よりも随分歳をとっていたが、優しい笑顔は変わっていなかった。
「お久しぶりです。仕事で帰国したんでついでに顔見せとこうと思って」
「そりゃ嬉しかったね。ああ~前もって知ってれば久美子にも言ってたのに」
「久美ちゃんは今日はいねえのか?」
父がキョロキョロする。
「泊まりで出かけてるんだず。帰ってくるのは今日の夜か明日の朝がな」
「旅行か、ええな」
「いやいや、お使いで東京に行ってもらってるんだわ。ついでに遊んでええかって言うから、そうしなって言ったんだ」
「入れ違いだったんだな。で、手伝いって何?」
立ち話もそこそこに仕事に取り掛かる。この民宿植田はこの地域では一番古い民宿で建物のあちこちにガタが来てる。本格的に修理するのはスキーシーズンが終わった5月中旬以降なのだが、その前に応急処置は必要なのだ。それを手伝って欲しかったようだ。
2時間ほどで終えると、お礼のお酒をいただいて帰路に就く。外は夕焼け色に染まっていた。
「植田の長男がな今年の夏には帰ってくるみたいだな」
「だから改修工事をやるんだな。おじさんも張り切って片づけて腰やったんだろ。で、兄ちゃんはどこに行ってたんだ?」
「東京で勤めてたらしい」
そういう父に耕作は何も言えなかった。いつかは実家を継ぐなんてことを考えたことはなかった。ただ逃げ道に使おうとしたことはあったが。
「お前はほだなこと考えなくてええ」
「え?」
「ウチば継ごうとか考えなくてええってことだ。そのつもりもなかったんだ」
父の表情からそれが本位かどうかわからない。でも、耕作はもう記者として生きていくことを決めているし山形に戻るつもりはない。それにもう一つ耕作はずっと考えてきたことがある。それはあまりに突拍子もなくて、でも自分にとっては最善だと思っていることだが一人では決められない。
「なあ、親父、ちょっと相談なんだけど……」
先延ばしにはできないことだから、この機会に言っておかなくては。車から見える景色に懐かしさを覚えながら、耕作は自分の思いを口にした。
「おかえりなさい」
エプロンを着けた柔が台所から出てきた。耕作の母と一緒に料理をしていたようで、とても楽しくしていたことがその声からも伺えた。
「二人とも風呂入っちまいな。夕飯はその後だ」
「柔さんはお客さんだし最初の方がいいんじゃないか?」
「いえ、あたしは後でいいです。もう少しお料理教わりたいので」
「柔さんは普段から料理してるんだね。手際がええ。耕作はええお嫁さんば貰うよ」
「そんな……これくらい普通ですよ」
世辞じゃなく本心で言う母の言葉に、照れて赤くなる柔。いつの間にか距離を縮めた二人を喜ばしく思うが耕作の心中は複雑だった。
父と耕作が風呂に入ったあと、居間のテーブルには溢れんばかりの御馳走が並びお祝いの用意が整っていた。
「これやすげぇや」
これだけの料理を用意するのに前日から準備していたのかもしれない。それだけ母は耕作が彼女を連れてくることを心待ちにしていたのだ。どんなお嬢さんが来ようともてなそうという母の心に耕作は胸が熱くなる。
「これ、なにボーっとしてんだず。さっさと座れ」
父もやって来て全員がテーブルに着くと食事が始まった。お酒もふるまわれたが、6年前に脳溢血を患った父もいたため控えめな祝い酒となった。
「久しぶりの『だし』だ。でも、この時期に珍しいな」
そう言って耕作はご飯の上にだしを乗せ食べた。そしてそれを固唾をのんで見守る柔と母。
「あーやっぱりだしはご飯に合う」
「おいしい?」
母がそう聞くと不思議そうに耕作は「ああ、うまいよ」と返す。
「聞いた柔さん」
「はい。耕作さん、それあたしが作ったんですよ」
「え! そうなの? おふくろのと変わんない味だと思うけど」
「そりゃ教えて貰いながら作ったんですから。あまり変わらないとは思いますよ。それに作り方は覚えたので調味料さえあればNYでも作れます」
「じゃあ、上手い白米を用意しないといけないな」
「アメリカにはなかなかないですからね」
和やかに話す二人を優しく見つめる両親は心からホッとしたようだった。そして父が無意識に何度も箸を伸ばす料理がある。
「父ちゃん、随分気に入ってるみたいだな」
「ああ、これうまいな。初めて食べるけど」
「それも柔さんが作ってくれたんだ」
「そうなんだべか? へーこれが東京の料理か……」
「これはうちの定番で。祖父が山形出身で好んで食べていたから、こちらの味と似ているのかもしれないですね」
「おじいさんってあのよくテレビに出る人だべね? 山形だったのかい?」
「ええ。祖父が言うにはそのようです」
「里帰りなんかはしねえのかね?」
「私は見たことがありませんね。親戚の話なんかも聞いたことがないです」
実際、滋悟郎が山形の親戚と話しているとところは電話でも見たことがない。柔が有名になってもそれは変わらないようだった。
「そう言えば、昔住んでたどこの近くに柔道の道場があったな。案外、そこに若い時に通ってたりしてな」
ほろ酔いの父が思い出す。
「いや~それはないだろう。滋悟郎さんは山で修行して熊を相手にしてたんだぞ」
「ちょっと、耕作さん……そんな話、嘘ですよ。熊なんて人間が敵うわけないじゃないですか。真に受けないでください」
「ごめん、ごめん。でも、滋悟郎さんならあるかもなって思うじゃないか」
「ないですよ。猪でも無理です」
「そうかあ?」
「そうですよ」
二人が楽しそうに話す様子がとても自然で両親はあらためて、耕作と柔の共に歩んできた道のりを感じられた。一方的に思うのではなく、お互いに思い合っていることが傍から見ても分かるのだ。
「なあ、明日は何時に東京に戻るんだ?」
夕食も終盤に差し掛かった頃、母が訊ねた。
「お昼の新幹線で戻る予定です。ねえ、耕作さん?」
「あ、うん……」
「なんだあ? 東京に戻るのが嫌になったか?」
「そんなわけないだろ。ただ……」
耕作はさっきまでの緩みきった顔から真面目な表情へと変わった。
「ただ、なんだ?」
「あのさ、ちょっと相談というか聞いて欲しい話があるんだ。柔さんに言ってから明日、母ちゃんにも言おうかと思ってたんだけど、やっぱり今聞いて欲しい」
「なんだべ?」
「ずっと前から考えてたんだけど、俺、柔さんには猪熊のままでいて欲しいんだ」
柔は耕作の言っていることの意味がよくわからない。でも素直に受け取ると見える答えはこれしかない。
「え? それは結婚しないってことですか?」
「違う、違う。俺が猪熊の姓になるってことだよ」