YAWARA!~2020 LOVE/WISH   作:いろいと

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vol.5 耕作の提案

「違う、違う。俺が猪熊の姓になるってことだよ」

 

 今度は母が驚く。だけど隣に座る父の表情は変わらない。

 

「つまり婿養子になるってこと」

「なんで、そんなこと……意味が分かりません」

「そりゃそうだよな。でも、ずっと考えてた。柔さんが俺と結婚して松田になっても試合には猪熊で出られるから問題ないけど、俺としてはこの先も柔道と言えば『猪熊』っていう姓が残って行って欲しいんだ」

「子供のことけ?」

「ああ。将来的に子供が生まれて俺は本人が拒否しない限りは柔道をさせたいと思ってる。試合に出る時に『猪熊』の姓を名乗って欲しいんだ」

「どうして……」

「滋悟郎さんが確立した『猪熊柔道』は後世にも残すべきだ。一本勝ちを信条とする柔道はこれからもっと必要になる」

「でも、そうしたらこの家はどうなるんですか? 耕作さんは一人っ子で……」

「それは気にしなくてええ」

 

 黙っていた父が口を開いた。

 

「この民宿は俺が好きで始めたものだ。それに母ちゃんも付いて来てくれたんだ。んだけども俺はこの民宿ば耕作に継いでもらおうとか思ったことはないし、松田の姓に関しても兄貴や弟がいっから消えてなくなるわけじゃないし」

「そう言われればそうね。うちが長男家系なら残したいとは思うけど、父ちゃんは四男だし、長男さんには跡取りもきちんといるしね」

「だろ。でも、猪熊は柔さんが残さないと消えちゃうんだ。親戚はいるだろうけど、付き合いがなくて柔道に関係ない家だったら失くしてしまうのはもったいないと思ったんだ」

「でも……そんなこと考えたことも無かったから」

「すぐに決めて欲しいわけじゃないんだ。俺も言い出すのが急になって申し訳ないって思ってるし。でも、いざ結婚が見えてきたら俺としては『猪熊』の姓がとても重要に思えたんだ。親父たちには悪いけど」

「だから気にしなくてええ」

 

 柔はそういう耕作の父と母の表情をまともに見れなかった。本当に考えたことがなかった。結婚したら当たり前のように「松田」になると思っていたし、試合にも「松田」で出るつもりだった。かつて富士子がそうしたように。

 夕食の片づけが終わり、柔はお風呂に入った。何をしていても、頭の中で「猪熊」の姓が離れない。自分がどうしたいのか選択肢を投げられて戸惑っている。

 二階に上がって部屋に戻ろうとしたとき、食堂に灯りが点いていた。

 

「柔さん、お茶でも飲まないかい?」

 

 耕作の父がいた。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 風呂上りなので冷たいお茶を貰うと、二人向かい合って座った。

 

「耕作が急にあだなこと言いだして混乱させたね」

「いえ、ただ考えたことも無いことだったので驚いてしまって。それにやはりこの民宿や松田という姓についても考えてしまって」

 

 父は申し訳なさそうにささやかに笑みを浮かべた。

 

「随分前んだけっど、耕作は記者になりたいと言って東京に無理矢理出て行ったんだ。母ちゃんは反対してたけど、俺はそうでもなかったんだ」

「どうしてですか? 民宿継いでもらおうと思わなかったんですか?」

 

 父は何かを思い出すように微笑む。その表情が耕作に少し似てた。

 

「子供の頃からあいつは野球だプロレスだマラソンだってスポーツが好きでね。自分でやってたのは陸上だったけど、才能がないことはすぐにわかったんだ。でも、スポーツに対する情熱が消えることはなくていつかここから出ていくんじゃないかって思ったんだ。ここはあまりに狭いからね。そう思っていたら継いでもらおうなんて思わないだろう。さっきも言ったけど、俺がここば作ったから耕作には関係ないんだ。耕作が進みたい道があればそれでええ」

「でも、一人息子じゃないですか」

「別に親子の縁ば切るってわけじゃないんだ。柔さんのこともこれからは本当の娘のように思うし、世間体の事を考えているならウチの事はもう気にしねえでくれ。ただそちらが気になるのなら話は別んだけども」

 

 柔はあらためて耕作の父を見ると、自分の父とは違って随分小さく、随分弱く見える。それは歳が上なのもあるが病気をしたこともあるのかもしれない。

 

「ウチのことは家族に聞いてみないとわかりませんが……」

「そうだべ、相談してから決めてもええと思う」

「はい……」

 

 暫く続く沈黙。柔も何を話していいのかわからない。時計の針の音だけが聞こえる。

 

「あのさ、柔さん」

「はい?」

「俺が病気したのは知ってるかい?」

「はい、6年程前ですよね」

 

 忘れもしないユーゴスラビアの世界選手権の時。試合会場に耕作がいなかったことが柔の心に大きく影響した。

 

「そうだ。その時に耕作は仕事ばほっぽりだして山形まで来てくれた。そりゃ嬉しかったけど、記者になるって東京に出てずっと追いかけてたあんたの試合ば見届けねえでどうするんだって思ったよ。でもな、あの時の耕作はもう柔さんに記者以上の気持ちがあったようなんだ」

 

 昼間に耕作の母から話は聞いていた。でもここは黙って聞いていた。

 

「ソウル五輪の前に帰って来た時に、好きな娘がいるようなこと言っててなその娘がオレンペックに出るって言うからもうあんたしかいないって思うだべ」

 

 柔はどう返事していいのかわからない。

 

「俺は倒れた時に耕作が仕事放り出して来て、柔さんに対する気持ちはその程度かと思ったんだ。んだから耕作に言ったんだ。『あの娘はやめとけ』って」

 

 柔の表情が固まる。

 

「耕作は昔から長嶋や力道山たちスポーツ選手の活躍に興奮してたんだべ。それはただのファンで柔さんに対しても同じなんだと思ったから、『やめておけ』と言ったんだべ。それでも、あいつはユンゴスラビアに行ったんだべ。それにはさすがに感服したべ。まあ、母ちゃんがけしかけたのもあるようだけっど」

 

 記者として追いかけているのか、ファンとして見てるのか、一人の女性として見ているのかそれは耕作自身にしかわからないが、きっと耕作もまだはっきりしていなかったのだろう。

 

「俺は、その時に柔さんは国民的英雄になったら、お前なんかが釣り合うわけがないと言って目を覚まさせようとしたんだ。倒れた父親がそこまで言ってもあいつはあんたば諦めなかったんだ。んだけもら俺は耕作が決めたことに反対するつもりはない。あいつの信念はもう決まってる。ただ、柔さんに無理強いすることはないと思うが」

「そうですね。耕作さんは自分の主張もしますけど、最終的にあたしのことを考えて結論を出してくれます。受験の時も就職の時もそうでした。結局いつもやさしいんです」

「そう言ってくれるなんてありがとうな。母ちゃんにも言われたんだ。釣り合いが取れねえかもしれねえってこっちで勝手に思ってるけど、柔さんだって普通の女の子だから大丈夫だって。実際、会って見てそうだなって思った。料理が好きでよく笑う普通の女の子だっけのな」

「もう女の子って歳でもないんですけど……」

「俺たちからしたらまだまだ子供だべ。耕作も柔さんも」

 

 穏やかな笑みを浮かべる耕作の父に柔の心がじんわり温かくなる。様々な思いがある中で相手の気持ちを考えて選ぶことができるのは優しくて強い証。今日、初めて会うのに柔とその将来のことまで考えてくれる耕作の父に心から感謝した。

 

「話はそれだけだ。後悔がないように二人で決めてくれ。じゃあ、おやすみ」

 

 重い腰を上げて立ち上がると、ゆっくりとした足取りで階段を下りる。すると、階下には耕作の母が物知り顔で立っていた。

 

「何話してたんだべ?」

「ちょっとな」

「そう。じゃあ、もう寝るべ」

 

 食堂から部屋に入った柔は窓から空を眺めた。そこには東京では見る事が出来ないほどの、星々が輝いていた。きっともっと山の方に行けば沢山の星が見えるのだろう。でも、ここでも十分美しい。

 その中でも一層輝いている星がある。それを耕作は柔のようだといった。いつも一番輝いている星。みんなの目標になる星。でも柔はそれを望んでなったわけじゃない。誰よりも輝きたいとか思ってないし、いつまでも目標でいられる自信もない。もし柔が負けてしまうようなことがあればあの星は変わってしまうのだろうか。

 柔が得てきた名誉の数々は消えることなくそこにあるだろうが、何かが変わり何かを失うような気がして不安を覚えた。

 

 

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