思えば日本でデートをするのは初めてだ。二人は手を繋いで桜並木を散策した。暖かい風が吹いて、春の香りがNYでの暮らしの喧騒を忘れさせる。
「あ! カメラ忘れた!」
耕作が不意にそう言って手を放す。
「取ってくるから待ってて」
車の後部座席に置いたままにしていたのを思い出す。走って行けばそんなに時間もかからない。柔は桜の木の下でぼんやりとこの穏やかさを満喫していた。
一方、駐車場まで走った耕作はカメラを持って引き返す。折角、山形まで来て桜も満開でカメラもあるのに撮らないなんてもったいない。急いで戻ろうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
「耕ちゃん!」
一瞬自分を呼んだ声だと思わずそのまま走り去ろうかと思ったが、ここは山形。幼い頃には自分をそう呼ぶ人が少なからずいた。耕作は振り返って声の主を確かめた。
「ねえ、覚えてる? 私、久美子」
長い黒髪をなびかせた、少しぽっちゃりした女性がそこにいた。黄色いワンピースが春らしく、幼さの残るかわいい瞳をしていた。
「久美子? 植田の?」
「そう。耕ちゃんだよね?」
「ああ、でもどうしてここに?」
「おばちゃんに聞いたの。昨日、耕ちゃんが帰って来てるって母ちゃんが言ってて、まだいっがなって尋ねたらここに行ったって言うから」
「久美子は昨日は泊まりの仕事だって聞いたけど」
「うん、今朝帰ってきたの」
話ながら二人は近づく。耕作が最後に久美子と会ったのは多分大学進学が決まった時。久美子はまだ中学生だった。そのころに比べると大人っぽくはなったが、やっぱり中学生の時の面影が見える。
「耕ちゃん、随分変わったね。最後に会ったのは14年くらい前だよね。全然、帰って来てくれねえんだもん」
「たまには帰ってたさ。でも、仕事とか親父の事とかでなかなか顔出せなかったんだ。ごめんな」
「別にええんだけっど」
拗ねたように口を尖らすのは昔と変わらない。久美子の兄とは歳が近くよく遊んでいたが、その傍らに久美子がよくいたが女の子で小さかったからよく置いて行かれては泣いていたのを思い出す。
「あのさ、親父が倒れた時、民宿の手伝いしてくれたんだって。ありがとな。俺、何も出来なくて」
「そんなことくらいお安いご用よ。この辺りは皆助け合って行がなきゃいけないんだから。でも、帰って来てたんでしょ。それだけでもきっとおばちゃんたちも安心したんじゃないかしら」
「その後、すぐに仕事に戻って申し訳なかったな」
「ユーゴスラビア? だっけ? 記事読んだわ。間に合ってよかったわね」
「ああ。ギリギリな」
今、思い出してもあの試合に間に合ったのは奇跡としか思えない。タクシーのおじさんは元気にしているだろうかと、ふと思い出すことがある。
「写真、撮るの? 桜、綺麗だもんね」
「ああ、またすぐにNYに戻るし思い出にな」
「いいなー東京に出ただけでも羨ましいのに、今はNYでしょ。暮らしにはもう慣れた?」
「そりゃな。でもな俺は人がうらやむような生活はしてないぞ。アメリカは広いからNYにいないことの方が多い。それに飯も量が多いし、やたら味が濃いしくどい。日本人にはきついぞ」
「でも、何か逞しいよね? アメリカの人みたい」
「体力がないと続かないからな。それなりにトレーニングはしてるよ」
「そうなんだ……」
久美子の表情はさっきまでのものと変わった。目線を逸らして、口ごもっただが意を決したような強い目をして耕作に一歩歩み寄る。
「どうして、お見合い断ったの?」
「は? なんだ、急に?」
「随分前に、私とのお見合いの話が出たでしょ。知ってるわよね?」
「あ……ああ。でも、あれは話が進む前に止めたはずだが」
「でも、私は……楽しみにしてたの。耕ちゃんに会えるの楽しみにしてた。東京に行く覚悟だってできてた」
「なんでそこまで……」
「わかんないの? 私、ずっと耕ちゃんのこと好きだったんだよ。東京に行くって聞いてショックだったけど、いつか大人になったらきっと振り向いてくれるって思ってた」
「幼馴染で仲は良かったけど、妹みたいに思ってただけだし」
「わかってる。でも、今もそう? あの頃とは違うでしょ」
「そりゃ、違うけど。俺は……」
「ごめんね。困らせるつもりじゃなかったの。お見合いの話が出て断られて、やっぱりそう思ってたのは私だけなんだってわかったから、今はもうただの思い出なの」
耕作は何と言っていいかわからない。幼い頃に何か約束したわけじゃないし、付き合っていたわけじゃない。久美子が抱く思いを気づかなかっただけ。
「それに私はここが合ってるし。東京は住みにくいわ」
「慣れればどこも同じさ」
「この田舎の狭い世界から連れ去ってくれる人を待ってた。それが耕ちゃんだと思ってた。勝手な話だけど。でも、違った。だって耕ちゃんはもっと広い世界に出て行ってしまったもの」
久美子の目線が耕作の後ろに向けられた。振り返る耕作の目には柔が迷いながら近づいているのが見えた。
「久美子、俺にもその気持ちは少しわかる。俺の世界を広げてくれた人がいたんだ。俺はその人と一緒に行くって決めたから」
「そう……だから山形に帰って来たのね」
「うん。だから……」
「気にしないで。私にもいい人はいるの。ただ、一目会いたくて、会ったら文句が言いたくて、八つ当たりだけど、それだけよ」
さっきまで数メートル離れていた柔はじわじわと距離を詰めていた。声を掛けてもいいのかいけないのか。耕作は振り返って認識はしているようだけど、何も言ってこないってことは声を掛けない方がいいのか。でも、何やら怪しい雰囲気に柔は思わず声を掛けた。
「耕作さん? お知り合いですか?」
「あ……待たせてごめん。そう、幼馴染なんだ」
「初めまして、植田久美子です」
柔よりは少し年上の、可愛い雰囲気の女性。柔は一度、耕作を見ると頷いて合図をくれたので向き直った。
「こちらこそ、初めまして。猪熊柔です」
「え! あの、猪熊柔?」
「こら、呼び捨てだぞ」
「ごめんなさい。え? でも、なんで? 二人は付き合ってないって新聞に」
「あれは嘘だよ。騒動を静めるための嘘」
「そうなんだ……」
久美子は何か納得したような顔をして柔和な笑みを見せた。
「でもよかった。耕ちゃん、フラれたんだと思ったから」
「はあ?」
「だって絶対好きだったよね。記事見てれば誰だってわかるもん。それであの授賞式の後の交際否定記事見て、玉砕したんだと思ったの」
「そんなにわかりやすいか?」
「うん。あの、猪熊さん」
「はい」
「耕ちゃんを選んでくれてありがとう。不器用だし暑苦しいけど、優しさは誰よりもあるから幸せにしてあげてね」
突風が吹いて久美子は顔を背ける。その時、涙が光っていたのを柔は見逃さなかった。
「ありがとうございます。これからも二人で支え合いながら歩んでいきます」
「あ! そうだわ! 写真、撮ってあげる。ツーショットなんてあんまりないでしょ」
久美子は強引に二人を桜並木まで連れて行き、鳥居の横で写真を撮った。レンズ越しに見る二人は本当にお似合いで、そして遠い存在のように思えた。
「そろそろ帰らないと。新幹線の時間が」
「もう帰るの? 慌ただしいのね」
「仕事があるからな。明日の夜には空の上さ」
「ご苦労さまね。でも、そんな離れ離れの生活でどうやって結婚まで至るのか不思議だわ」
「まあ、色々とな」
駐車場で久美子と別れ二人は民宿まつだに戻る。何か微妙な雰囲気に耕作は耐えきれなくなって口を開いた。
「あのさ、久美子はさ昨日俺と親父が手伝いに行った旅館の娘で、子供の頃によく久美子の兄と一緒に遊んだんだ。久美子はちょろちょろしてただけなんだけど……」
「耕作さん」
「なに?」
「あたしを選んでくれてありがとう」
「どうしたんだ、急に」
「さっき久美子さんに言われたでしょ。でも、あたしだけが言われていい言葉じゃないもの。耕作さんだって色んな人が過去にはいたでしょ。その人たちじゃなくあたしを選んでくれたから今ここにいる。だからうれしいの」
「過去って……そんな華やかな過去はないけどな。でも、柔さんこそ俺を選んでくれてありがとう。君の周りはいつだって君を狙う男が沢山いたからな。俺はヒヤヒヤしていたよ」
「沢山いたの? 全然気づかなかったけど。あ、おじいちゃんが追い払ってたのかしら」
「そうさ。だから俺は滋悟郎さんにも感謝してる。あ、もしかして後悔した?」
「してません。する必要なんてないもの」
そう言って柔は耕作の腕に絡み付く。
「お、おい。危ないだろう」
一本道には車は一台もなく、歩く人もいない。迷うことなんて何もない。障害物もない。これから二人は真っ直ぐ進むだけだ。
「植田久美子」登場です。この人は原作にも名前だけ出てましたので、新キャラではないのですが性格とかは勝手に考えました。