vol.1 松田と羽衣
山形から東京に戻ってきた日の夜、柔と耕作はとある和食料理店にいた。狭いが個室を予約し、とある人を待っていた。
ドアが開き入ってきたその人は、相変わらずうだつの上がらない顔をしていたが耕作を見るなり目を輝かせた。
「すみません、課長。こんなところにお呼び立てして。紹介しますこちら……」
「松田記者だろ! 知ってるよ」
「え? 俺のこと知ってるんですか?」
国民栄誉賞授与式の時の映像は今でも珍事として放送されるが、耕作の顔はモザイクがかけられている。当時、リアルタイムで見ていても一瞬しか映っていないので、名前は知っていても顔まで知っている人は少ない。
「そりゃ、あなたのファンですから。松田記者の書く記事の熱のこもりようは、まるで試合を見ているかのようですよ。特に柔道が素晴らしかったが、アメリカに行ってからというものあらゆるスポーツの記事に独自の見解を示し、誰が読んでもわかりやすくそして興味を引く内容になっています。いや、本当に素晴らしい!」
褒められ慣れていない耕作は困惑気味だが、柔はニコニコ笑っている。
「さあ、課長、耕作さん、とにかく座りましょう。お料理が来ますよ」
3人が席について暫くすると、彩が綺麗な食事が次々と運ばれて来てテーブルの上は一杯になった。
「会話を遮られたくなかったので出来るだけまとめて用意してもらったんです」
「わかるよ。いい所で店の人が来ると、何か黙っちゃうからね。で、今日は何の会なの?」
羽衣はここに呼ばれた事の意味を全く察していないようだった。
「ご報告がありまして。あたしたち結婚することになりました」
「へー結婚……え!! 結婚って結婚? でも、二人は交際は否定していたし、それに松田記者にはあの豊満な彼女が……」
柔が怪訝な顔をしているが、耕作もまた同じ顔をしていた。
「課長は何を言ってるんですか? 耕作さんに会うのは初めてですよね?」
「いや、実は一度日刊エヴリースポーツに行ったことがあってね、そこで松田記者を見たんだ」
「そうだったんですか。でも、何のご用だったんですか。お会いした記憶がないんですが」
「いや、加藤忠の大仕事を終えた後、猪熊くんの様子がおかしくて。たまたま昼食の時の会話を聞いてしまったんだよ」
柔と耕作は顔を見合わせる。あの時、耕作は足を骨折していて柔がお見舞いに行った。その時、邦子が乱入して来てややこしいことになったが、そのことを同僚に話したことはない。
「女性が数名集まればおのずと出る話題だろう。恋愛事情についてのことで悩んでいるんだろうと思ってね、私はそう言うことには疎いけど力になりたいなって思ったんだ」
「それでなんで俺に会いに来てくれたんですか?」
「記事を読めば猪熊くんに特別な思いがあることはわかります。だから二人はもしかして何かあるのではないかと思って、それで猪熊くんが悩んでいるのではないかと思って訊ねたんですけど……」
「俺、不在でしたか?」
「いや、どの人が松田記者だろうと思って近くにいた女子社員に聞いたんです。そしたら自分の彼氏だって言うから、猪熊くんは三角関係で悩んでるのかって思うとなんか私には対処できないというか」
「それって、丸い眼鏡の胸の大きな人じゃないですか?」
「そう、その人。もう直ぐ結婚かなんて言ってて、何が何だかって思ったんですよ」
「それは間違いなく加賀くんだね。そんな嘘を言って回ってたのか」
「嘘? あの人は私に嘘を言ってたんですか?」
「なんていうか、思い込みの激しい人で願望を現実だと思っていたというか……」
「そうでしたか、それならよかった。いやね、松田記者が猪熊くんをしつこく取材するのは恋愛感情からかと思ってたけど、彼女がいるならなんでだろうと思ったんですよ。その時に、日刊エヴリーでちょうどゴシップ記事を良く取り上げててもしかしたら……」
羽衣は口ごもる。これはさすがに言ってはいけない。
「もしかしたらなんですか?」
耕作が気になって問いかける。羽衣は柔の方に目を向けるが、首を傾げているだけだった。
「あの……猪熊くんは本阿弥社長、当時の風祭社長とも知り合いなんだろう?」
「ええ、高校生の頃に知り合って、さやかさんのコーチになってもよくしてくれました。でもそれがどうしたんですか?」
「会社で絵葉書を拾ってそれが風祭社長から猪熊くん宛てで、まさかこの二人が交際してるのかと思ったんですよ。でも風祭社長は婚約者がいてそれはライバルのさやか嬢。これが公になれば大変なことになる。もしかして松田記者はそれを狙ってるんじゃないかと思ったんですよ」
「絵葉書……? ああ、そう言えば貰いました。でもおつきあいとかそういう関係ではないですよ」
「俺もゴシップは不本意だけど、人手が足りないから書かされてただけで本当なら書きたくないんですよ。それに風祭と柔さんのことはそれとなくわかってましたから。目を光らせてはいましたよ。風祭が余計なことをしないように」
「そうなんですか?」
「俺は書かないけど他社は分からないだろう。でも、風祭もさやかがいる手前下手なことはしないだろうと思ってたけどな」
二人の話を聞いて羽衣は心底ホッとした。
「あ!」
「どうしました? 課長」
「だったら、あの大学柔道の時に松田記者とあいさつしとくんだった。あの時はゴシップ記者だと思って猪熊くんを遠ざける事しか頭になかったから」
花園が準優勝したあの試合だ。柔も協力し花園の強化に努め、富士子のために勝ち抜いたが決勝では一歩及ばずだった。
「ああ、あの時はそう言うことだったんですね。風の如く去って行ったのは覚えてますよ」
苦い思い出だ。柔に自分の決意を伝えようとしていた矢先に、攫われるように柔を連れていてしまったのだから。
「あ!」
「今度はどうしました、課長」
「結婚おめでとう!」
「え?」
「まだ言ってなかったから。結婚おめでとう。二人はとてもお似合いだよ」
「ありがとうございます」
そう言って乾杯した。すっかり料理は冷めていたが、誰も気にしない。
「ところで、猪熊くんは何に悩んでいたんだい?」
「え? あの時は……富士子さんが元気がなくてその原因が花園くんだったんです」
「あの時か。富士子さんに釣り合う男になるために必死に努力してたもんな」
「そうです。でも、あの時は花園くんが浮気してるんじゃないかって思って、それでもやもやしてたんです」
耕作も羽衣も納得していたが、実際は違う。耕作と邦子の事で苛立っていたし、風祭の絵手紙で舞い上がっていた。でもそれはここで言わなくてもいいことなので黙っていた。
「それで、課長。あたしは結婚後も仕事は続けたいんですけど、今はNYじゃないですか、今後はどうなるのかって誰に聞いたらいいのか……柔道部のこともありますし」
鶴亀トラベル柔道部は名誉顧問に滋悟郎を置いているが、柔がいない柔道部ではほとんどその姿を見かけない。コーチは別にいるので問題ないが、柔も滋悟郎もいない状態でいいのか不安に思ったのだ。
「社長に相談だろうね。猪熊くんは普通の社員じゃないから直属の上司じゃなくて、社長判断なんだ」
「社長だってー」
耕作は鶴亀トラベルの太田黒社長とは仲が悪い。何かと柔を巡ってトラブルになっていた。
「結婚の事は出来るだけ口外したくないので、社長に言うにしても他言しないことを約束してもらわないといけないですね。さすがにないとは思いますが」
「わかんないぞ、あの人は会社の利益の為なら何でもするぞ。どうせ柔さんが北海道出張の時も、会社の利益を選んで呼びもどさなくていいって言ったんだろう? 羽衣さん」
「あ、いや……」
「あなた言いましたよね。会社の人間は信用できないって。それは社長命令がでているからですよね」
「はい。あの時は猪熊くんの試合よりも会社の利益を取ったんです。でもそれが経営者ですから」
「あなたは違った。柔さんの上司だけど、試合の重要性を分かっていた。だから俺に電話を掛けてくれたんじゃないですか。
「それは松田記者の記事を読んでいたからですよ。猪熊くんは試合に出なきゃいけない。絶対にそうしなきゃいけないって思ったんですよ」
二人はよくわからないが硬い握手を交わした。記者と読者の気持ちが通じ合った瞬間だったのだ。
「二人の前途を祝して!」
気分がいい羽衣は上機嫌で祝杯を挙げる。そして夜は更けて行った。