耕作は仕事のためNYに戻ったが、柔は5月に体重別選手権があったのせそのまま日本に残っていた。耕作との別れ際に結婚後、どちらの姓を名乗るかちゃんと考えると約束し、見送った。
体重別選手権ではさやかは妊娠中で欠場したため、柔は特に危ない場面に陥ることなく見事優勝を決めた。弱かったメンタルも耕作との仲が上手くいっているため、乱れることはなく冷静に取り組むことが出来た。
柔の優勝で世間が騒いでいる中、イギリスからビッグニュースが伝えられた。
「本阿弥さやか 出産! 元気な女の子」
そんな見出しがスポーツニュースの一面を飾ると、さやかが出産した病院である「セント・メアリー病院」前には沢山の取材カメラが並び騒然とした。イギリス王室御用達の病院であるため、何も知らないイギリス国民は王族がお忍びで出産するのではないかと憶測がささやかれたほどだ。
出産のニュースが出た2日後には夫の進之介と共に赤ん坊を抱いたさやかが登場し、相変わらずの美貌と高慢な姿が日本中に放送された。
「ほーっほっほっほっ!! みなさん、お待たせいたしました」
「出産後だというのに、お元気そうですね」
「当然ですわ。最高の医師と最高の設備、そして最高の肉体を持っているこの私が出産ぐらいで変わるはずもありませんわ」
「ということは、柔道界に復帰も……」
「当然ですわ! 今の私は最愛の人との結婚、そして出産し思い残すことはただ一つ。猪熊柔! 私がいない今、柔道界の頂点を謳歌していたでしょう。しかし、私が復帰するからにはそうはいきません。せいぜい、泥臭いトレーニングを積んで、待っていなさい!」
「おおー!! 打倒猪熊宣言!」
ふっと笑うさやかは待たせておいた車に乗り込み、カメラに向けて笑顔を振りまく。どこぞの王族のような振る舞いだ。
「さやかさん、あんなこと言って大丈夫なんですか?」
「進之介さん。私は必ずや猪熊柔を打ちのめします。ご安心ください」
「そうではなくて……」
「徳永! 専属のトレーナーと設備の準備は整っていますか?」
「はい、お嬢さま」
「結構」
「さやかさん、僕はあなたの体が心配なんです。産後にそんな無理をして何かあったら」
風祭がそう言ってみるが、さやかは自信に満ちた笑顔でこたえる。
「何も心配はありませんわ。私は強い。子供を産み、更に強くなった。今までとは違うのです」
そう言うと、自分の腕に抱いたわが子を愛おしそうに見つめる。母になり少しは心境の変化があったようだ。でも、打倒猪熊柔を諦めるわけにはいかない。
◇…*…★…*…◇
イギリスでのさやかの様子を日本の夜のスポーツニュースでも大々的に伝えられた。偶然にもそれを見ていた柔はさやかの柔への挑戦状よりも、出産という大役を果たしたことへの労いの気持ちの方が大きかった。そしていつか自分も耕作の子供を産みたいと思うようになっていた。
「お嬢様は相変わらずじゃの。その方がおもしろいからいいんぢゃけどな」
滋悟郎が上機嫌で笑っているが、出産後の復帰というのも大変なものだろう。富士子が試合に復帰したのはおよそ半年後。さやかは柔だけを射程に入れているなら来年5月の体重別にのみ焦点を当てればいいが、試合のカンを戻すのは試合しかないのでもしかしたらもっと早くに復帰する可能性もある。
「さやかさんも少し見ない間に随分雰囲気が変わったわね」
玉緒がお茶を飲みながらしみじみ言うと、柔は「そうかしら?」と首をかしげる。
「風祭さんがそばにいるのがいいのかしらね。以前から不思議な関係だとは思ってたけど、今はとても距離が近い感じがするわ」
「夫婦になったからってことかしら?」
「それもあるだろうけど、それだけじゃないわね。お互いの信頼関係が出来ているからこその雰囲気のような気がするわ」
「風ミドリはさやか嬢の婿になって、籠の鳥のように腑抜けになるじゃろうと思っておったが、案外うまくいっているようぢゃな」
「おじいちゃんに何がわかるの?」
「わかるとも。わしはお前たちよりも長ーくいきておるんじゃぞ」
「でもそれもそうね。風祭さんはプレイボーイだから、結婚して、相手はあのさやかさんでしょ、自由のない生活に息苦しさを感じて元気がないと思っていたんだけど」
「お母さんまでそんなこと。二人には二人の幸せの形を見つけたのよ。風祭さんもお仕事が忙しいだろうし、そんな遊んでばかりはいられないわよ」
「それもそうね。でも柔、今まではさやかさんが一方的に風祭さんを好きで束縛していたようだけど、今は違うということは心の持ち方が変わるということよ。さやかさんは強いけど、もっと強くなるんじゃないかしら」
玉緒がそんなことを言うのは珍しく、だからこそそれが現実になりそうで柔は息を飲む。
「それにね虎滋郎さんが言ってたの。凡人たるさやかさんが柔に勝つには『99%の努力と1%の運』だけなんだって。その1%をもしかしたら掴むかもね」
「怖いこと言わないでよ。でも……」
「でもじゃないわ! そんな弱腰でどうする! さやか嬢が本気を出すと言っておるんぢゃ。こちらも本気でかからんといかんぢゃろ。明日からみっちりしごいてやる。覚悟しておけ!」
滋悟郎は部屋を出て行った。柔は深いため息をつく。
「どうしたの? 何かあったの?」
「あのね、ずっと考えててやっぱり結論が出なくて。おじいちゃんに言うと、何かおじいちゃんの意見に引っ張られそうで言えなくて」
「松田さん関連?」
「うん。あのね、松田さんがね、結婚したら猪熊姓になりたいって言うの」
さすがにそれは玉緒も驚く。やはり予想もしていなかったことなのだ。
「色々ね理由は聞いたわ。でも、あたしは考えたことも無くて、むしろお嫁に行くってことは相手の籍に入って姓も変わるってことを疑問に思ったことも無かったから。むしろそうあるべきで、それが幸せな事なんだって思ったから」
「そうね。でも、さやかさんのところは風祭さんが本阿弥になったじゃない」
「あそこは別格じゃない。それを前提での婚約だったんだもの。でもあたしは違うじゃない。今、耕作さんが猪熊になったらなんか……」
「言いたいことはわかるわ。世間がどう思うかは目に見えてる。でもね、そんな事はどうでもいいじゃない。結婚するのは二人だし、親しい人たちは別に松田さんが猪熊になってもそれで松田さんが尻に敷かれてるとか、陰に隠れてるなんて思わないもの。釣り合いなんてものは外から見た勝手な秤よ。本人たちには全く関係ないわ」
「そうかしら。耕作さんが嫌な思いしないかしら?」
「それはするかもしれないわね。でも、覚悟の上でしょ。何も言わなければ松田になってたのにあえてそういう提案をしたんだもの。きっと柔よりもずっと考えてるわよ」
「そうよね……」
結局、この時も結論が出せなかった。