うじうじ考えるのが柔の悪いところなのだが、今回ばかりは答えがなかなか出せずにいた。あまりに頭がパンクしそうなので富士子に助けを求めた。
「話はわかったわ」
電話の向こうから親友の声がして、それが柔を安心させた。結婚後の名字に関することを一通り話し終えると少しの間沈黙が流れた。
「『猪熊』の姓はあたしから見てもとても大きなものだと思う」
ぽつりと富士子が言った。
「猪熊と言えば柔道。柔道と言えば猪熊。みたいに日本国民が感じているのは間違いないわ。それだけの偉業を成し遂げたんだもの。だから猪熊さんが松田に変わってもそれが消えるなんてことはないし、結婚後も猪熊で出るなら問題はないと思うの。ただ、子供がどう思うかよね」
「耕作さんは柔道をさせたいっていうの。でも、だったら尚更、猪熊の姓は重圧になりかねないじゃない」
「何を言ってるの? 子供が疑問に思うのは『なんで猪熊じゃないの?』っていうことよ。滋悟郎先生がいて、猪熊さんがいて、柔道をやっていて、民宿も継いでないのに『何で松田なの?』って言われて説明できる? それが当たり前だからなんてことは納得しないともうわ。当たり前じゃない本阿弥さやかという見本がいるんだもの」
「そうよね。じゃあ、富士子さんは猪熊の姓を残すべきだと思うのね?」
「それは何とも言えないわ」
「ええー」
そこまで言ってそれはないでしょって思った。
「あのね、猪熊さん。あたしの家ってお茶屋さんなの知ってるわよね?」
「もちろん。いつも美味しいお茶飲まさせて貰ってるもの」
「それであたしは一人っ子なの。店を継いでほしいとは言われたことはないのよ。何故だかわかる?」
「ううん」
「あたしは継がなくていいけど、お婿さんを貰ってその人に継いでもらえばいいって思ってたらしいの」
「でも、実際は違ったよね」
「うん。花園くんは見ての通り体育会系で繊細な作業には向いてないし、お茶の事も全然わかんないから。それにね、妊娠したのは花園くんだけが悪いわけじゃないでしょ。なのに花園くんは柔道を諦めて仕事をしてあたしと生まれてくる子供のために一生懸命になってくれたの。それなのにうちを継いでくれなんて言わせなかった」
柔の知らないところで富士子も将来を考えて悩んで戦っていたのだ。
「ご両親はどんな反応をしたの?」
「そうね、がっかりしてたわ。それでなくてもあたしが結婚前に妊娠したでしょ。世間体が悪いじゃない。それに選手としてこれからって時で、親は柔道をすることを受け入れるのも時間がかかったから余計にショックだったのかも。その上、家は継がないっていうんだもの。がっかりされても仕方ないわ」
「今は一緒に暮らしてるでしょ。花園くんにお茶のことを教えたりとかはしないの?」
「簡単なことは教えるというよりは、自然に学んでるとは思うわ。それにお父さんはもうきっと吹っ切れてるわ」
「どうして?」
「フクちゃんがいるから。孫は可愛いものよ。特にお父さんはフクちゃんに甘くてお母さんが呆れるくらい。その孫娘にこの店を守って貰おうとかきっと考えてない。もっと自由に生きて欲しいと思ってるから。だからお父さんの代で店を閉める覚悟なんだと思うわ」
学校へ行く道に茶畑があって、それは個人宅の小さな茶畑で4月になると新芽が伸びて、顔を近づけるとお茶の匂いがした。5月になる頃には店に新茶が入り、その新鮮な香りのお茶を楽しみにしていた。富士子の思い出の中にはいつもお茶があり、それが当たり前だったのだ。
だからと言ってその風景を守らせたいなんて思わない。富士子にもその覚悟がないのに娘に背負わせることは出来ない。
「バレエの道を閉ざされたあたしが新たな道を見つけたことで、両親の世界も広がったんだと思うの」
「バルセロナにも行ったしね」
「そうよ。それで、店の事を次の世代に無理して任せようと思わずに両親も自由になれたのかも」
「耕作さんのご両親もそうならいいんだけど」
「そもそも松田さんが継ぐ気がないんだもの。とっくの昔に諦めてるでしょ」
「でも息子がまさか婿養子になるとは思わないでしょ」
「ねえ、猪熊さん。猪熊さんが結婚するのは松田さんよね」
「もちろんよ」
「松田さんが望むことと自分自身の思いを天秤にかけて悩むのはいいけど、ご両親の思いを乗せるのは何か違うと思うわ。家族になるからといってそこまで気持ちを考える必要ってある? 考えるべきは自分たちと生まれて来るであろう子供とその将来。そしてその後に、親のことじゃない」
「何かその考えって淋しくない?」
「そうかもしれない。でも、恩返しは別の方法でもいいのよ。子供の将来を考えられるのは親だけ。あたしはフクちゃんの事を一番に考える。それと同じようにうちの親はあたしのことを考えてくれてるって思う。親だから子供のことを考えてキツイことも言うけど、それは愛情あってのもの。それに本当に望むのならご両親は松田さんに言ってるだろうし」
「そうかなぁ」
富士子は親と娘の気持ちが両方理解できるが、柔はまだそうじゃない。ぐちぐち悩むのが柔なのだが今回は一生を左右することだから更に悩みは大きくなる。
「じゃあ、猪熊さん。猪熊さんが『猪熊』の姓じゃ嫌な理由ってあるの?」
「嫌だなんてことはないわ。今までもそうだったんだもの。でもね、勇ましい名字じゃない。それが学生の頃は嫌だったなと思ったの」
「可愛くないってことね。でも、松田だって可愛くはないわ」
「それもそうなんだけど」
今は別に猪熊が嫌だとか、可愛くないから好きになれないなんて子供みたいなこと言わないけどどうしてかすんなり受け入れられない自分がいるのだ。
「世間が色々言うのは無責任でほんの一刻。あたしはねあたしたちの結婚の経緯とかその辺の事が将来フクちゃんがどう受け止めるかが心配なの。そのために胸を張って何でも答えられるようにしたいって思ってるの」
「経緯か……女の子は知りたがるかもしれないわね」
柔は父が幼いころから家を出ていたので、母になれ初めなどを聞くこと自体を躊躇っていた。でもずっとどんなふうに知り合って結婚したのか聞いてみたかった。だから耕作が本を書くにあたって両親にインタビューして、なれ初めを聞いてくれたのはとても嬉しかったのだ。
「それにね最近、お父さんを見て思うの。滋悟郎先生は猪熊さんを本当に大切にしてるんだなって」
「ええー、それは納得しがたいわ」
「孫娘って本当に目に入れても痛くないほど可愛いらしいの。その分、とても心配になるみたい。だからね、滋悟郎先生は猪熊さんを守るために柔道を教えたんじゃないかなって思うのよ」
「身を守るための柔道なら感謝もするけど、あたしのは完全に格闘技だもの。秘密にしろとか言われるし、おじいちゃんや柔道のせいでずっと恋人も出来なかったし」
「それが鉄壁のガードなのよ。滋悟郎先生はかわいい孫娘が妙な男に泣かされないように守ってたの。中途半端な気持ちで近寄ってくる男は沢山いるわ。でも、その中で本当に猪熊さんを大切にしてくれる人を見極める手段として柔道があったのよ」
「いいようにとらえ過ぎよ。おじいちゃんはただ目立ちたいだけなんだから」
「でも、松田さんとの結婚を反対しなかったのはきっと滋悟郎先生も認めてるからよね。それは猪熊さんの全てを受け入れて愛してくれる人だって見極めた結果だと思うのよ」
富士子の言うことも分かる。柔道のせいで人並みの恋愛は出来なかったけど、深い絆で結ばれたたった一人の最愛の人には出逢えた。
「話がそれたわね。猪熊さんはもっと自分の家族や家の事を知るべきじゃないかしら? 女だから名字が変わるなんて固定概念はもう取り去るべきよ。世界を見てきたあなたならきっと答えが見つかるわ」
「ありがとう、参考になったわ」
柔は電話を切ると、ふーっとため息が出る。全然、考えがまとまらない。というよりも、自分がどうしたいのかわからない。どうしても松田になりたんだって言う理由もないし、猪熊のままでいたくない理由もない。だったら日本の風習に従って松田になればいいのだけど、そうなると耕作が納得する理由を示さなきゃいけないがそれも見つけられない。