「柔? 電話は終わったの?」
玉緒の声がして見上げると、心配そうに見つめていた。
「うん。電話使う?」
「ううん。ただ、その顔じゃ結論が出なかったのね」
「意見を聞けば聞くほど混乱するの。でも富士子さんからもっと家の事を知るべきって言われて……」
玉緒は「そうねぇ」とちょっと考えた後、台所に一緒に来るように言われついて行った。
テーブルにお茶とお菓子を用意すると、二人は向かい合って座った。
「おじいちゃんがいるとなかなか言えないから、今話しておくわ」
滋悟郎は近所の源さんの家に行っている。しばらくは帰ってこないだろう。
「あらたまって何?」
「私と虎滋郎さんの事はきっと松田さんから少し聞いてると思うけど、おじいちゃんの事は知らないと思って」
「そうねぇ。耕作さんは何か知ってるみたいだけど、あたしには教えてくれないし」
「だから信頼できるのよね。情報は漏らさないのよ」
「それで、お母さんは何を知ってるの?」
「これはね松田さんにも話してないことなんだけどね、おばあちゃんのカネコさんから聞いた話よ。実はねおじいちゃんはカネコさんと結婚するとき、牛尾の姓を名乗るつもりだったらしいわ」
「え!? 嘘でしょ」
「そもそも牛尾先生に柔道を教わりに山形から東京に出てきたわけだし、東京での暮らしとか家なんかもカネコさんがいなきゃ成り立たなかったしね」
「でも、あの時代の人でそういう考えって」
「おじいちゃんは長男じゃないし、山形には立派な跡取りがいたから好き勝手出来たのよ。じゃなきゃ何のあてもなく東京に出てこないでしょ。それでね、カネコさんは悩んだ末に猪熊になったの」
「どうして?」
「おじいちゃんが婿に来ても牛尾道場の看板はたてられないし、それにおじいちゃんの柔道も素晴らしかったから新たに道場を建てるなら猪熊にした方がいいと考えたのよ」
「でも結局、一度も道場を開くことも無かったわよね。あんなに目立ちたがりなのに、強い弟子が沢山いればもっと長い間、目立てたのに」
滋悟郎は虎滋郎が全日本に出場するまで、そしてその後柔がデビューするまでただの「ほねつぎ」の老人として過ごしていた。
「それも少し聞いたことがあるわ。山形の実家にはね沢山の兄弟がいるのよ。おじいちゃんは下から二番目だったかしら。とにかくね、兄弟が多いとあんまり構って貰えないじゃない。それでおじいちゃんは目立とうとしたらしいの。そうでもしないと、誰もみないんだって。まるで空気のような感じよね」
一人っ子の柔にはわからない悩みだ。父は不在だったが、母も祖父も柔を大切に育ててくれた。
「結婚の報告に行った時にもカネコさんがいうには『ああ、そう』くらいな感じだったらしいわ。しかも、カネコさんが男子の柔道をやると聞いた家の人は野蛮な人間を見るような目をしたらしいの」
「えー!! 考え過ぎじゃない」
「そうでもないの。おじいちゃんが山で熊と戦ったとか、そういう逸話を残してて嫁に貰う人も同じかって実際言われたらしいの。戦前の田舎で女性が人を投げ飛ばすなんて、考えられなかったんでしょ。とんだじゃじゃ馬扱いだったらしいわ」
「今だって人を投げ飛ばす女の子は奇異の目を向けられるわ」
「それもそうね」
柔が口を尖らせると、玉緒はクスッと笑った。
「カネコさんはね、別に山形に住むわけじゃないし滅多に会うことも無いからあんまり気にしてなかったんだけど、おじいちゃんが結構ご立腹のようで」
「そりゃお嫁さんをバカにされたんなら、怒って当然よ」
「それだけ、おじいちゃんはカネコさんが大切だったのよね。それに加えて、おじいちゃんも家族の反対を押し切って東京に出て行ったのに、結局牛尾先生の指導は受けれずにいたことに、親類の中からは自由に生きて何もなさずにのこのこ顔を出せたと、嫌味を言う人もいたのよ」
「ひっどーい。何も知らないくせにどうしてそんなこと言えるのかしら」
「おじいちゃんは特別自由人だったから。家に縛られてる人に取って見たら、羨ましかったのよ。だからね、おじいちゃんは親戚の皆をあっと言わせる方法を探しててあんな方法をとったのよ」
「あんな方法?」
「おじいちゃんが山形から出てきて、全日本選手権で初出場で初優勝して、五連覇を遂げたことはさすがに御実家に伝わっていたのね。新聞とかから。でも、結局それも山形で培ったものだから山形にいても出来たわけでしょ。でも、その強さに誰もが目を見張り、称賛されたことを実家の皆さんはわからなかったの。でもおじいちゃんはこれだって思ったのね」
「秘密に特訓するって方法ね」
「そうよ。虎滋郎さんに柔道を教えていることやかなりの上級者であることを、虎滋郎さん含めて口外禁止したのね。だからあのデビューがセンセーショナルで話題をうんだの」
新聞の一面になるほどのニュースは山形にも伝わったかもしれない。しかし、翌年には虎滋郎は全日本選手権には出場しなくなった。始まったばかりの伝説はここに終焉を迎え、虎滋郎や猪熊の名は時代の流れ中に消えて行った。
「あたしにも人に言ってはいけないっていたりしたのはそのせいね」
「そうね。まだ時代が時代だったから柔にとっても内緒にしておいた方がよかったと思うわ」
「でも結局、耕作さんがスクープしちゃったんだけどね」
日刊エヴリーにパンチラ巴投げ写真が掲載されたのは、柔にとって最大の汚点だ。そしてその写真を長い間、部屋に貼っていた耕作もどうかしている。
「おじいちゃんの思惑通りにはいかなかったのよね。この時、私は家にいなくて新聞を見てびっくりしたのよ。制服が武蔵山高校だったから柔じゃないかなって思って」
「学校でもこの名字だけであたしじゃないかって男子に言われて、あの時ばかりは猪熊って名字が嫌だったわ」
「でも、柔だったから間違いじゃなかったものね。それで別人だったらそりゃ困っただろうけど」
「それもそうね」
今思えばなんてことないことでも、あの多感な時期に男子にからかわれるのは精神的に辛いものがあった。そう思えば、猪熊でいることで将来的に産まれてくる子供が特別な目で見られることもあるかもしれないし、そのことで嫌な思いをするかもしれない。
「おじいちゃんの長年の思惑は柔が国民栄誉賞を貰ったことで、成就したと思うわ。山形の親戚から電話や手紙が来ていたようだから。それに女子柔道の地位も上がったし、カネコさんが受けた屈辱を晴らせたんじゃないから」
その言葉を聞いて柔は、猪熊としての役目は終わったのかもしれないと思った。
「柔、色々聞いて混乱しているとは思うけど、当たり前のことを立ち止まって考えるのはいいことだと思うわ。あなたはアメリカにもお仕事で行ってるし、英語が堪能になって世界も広がったわ。後悔のない結論を出して気持ちよく結婚しなさい」
玉緒が優しく微笑むと柔も笑顔でうなずいた。家族や富士子から意見も聞いたし、自分の立場も分かっているつもりだ。その上で出す結論が何であろうと耕作は受け入れてくれるだろう。ただ、面倒になって投げやりなことはしたくない。時間が許す限り自分と向き合って考えていきたい。
自室に戻ると机の引き出しを開けた。そこには真っ白な小さな箱があり、中には耕作から贈られた「婚約指輪」が入っていた。
――こんな小さなのしか買えなかったんだけど……
プロポーズしてくれた日の夜にそう言いながら指に付けてくれたことを、今、思い出しても嬉しくて胸がいっぱいになる。
シンプルなデザインだけど美しい銀色の指輪。真ん中には小さなダイヤが光っていたけど、とても大きな輝きに見えた。
この指輪は耕作の決意だ。柔を幸せにするという決意。
だから柔は考える。耕作にとっての幸せを。夫婦になるとはそういう事じゃないのか。お互いの幸せを考え、行動する。さやかと風祭、富士子と花園のように築きあげて行かなければいけないのだ。一つずつ。丁寧に。