さっきまで隣にいた耕作は花園と富薫子がいるテーブルに移動しており、一緒にデザートを食べている。富薫子は相変わらず耕作がお気に入りで、膝の上に乗ってご満悦の様子。それを耕作も優しい笑顔で受け入れている。
「妬ける?」
玉緒が冗談めかしにそう言うと柔は「そうね」と返事をした。
「まあ、正直ね」
「だって、あんな顔みたことないもの」
「自分たちの子供で最初に見たかった?」
「……うん」
「だったら大丈夫よ」
「どうして?」
「きっと、もっと優しくていい顔を見せてくれるわ」
「そういうものかしら?」
「当たり前じゃない。自分の子供が一番かわいいものよ」
「お父さんもそうだったかな」
「柔が生まれた時には泣いて喜んだわ。寒い日に生まれたから病院から家に帰る時も厚着させてモコモコでカネコさんに叱られてた。危ないし汗をかくから減らしなさいって」
「あのお父さんが?」
「そうよ。足の力が強い柔はすぐに布団とか毛布を蹴っててね、それを虎滋郎さんはすかさず元の位置に戻すの。そしてまた柔が蹴っての繰り返し。ちょっと大きくなると柔が喜ぶからゼリーをね沢山買って来てまたカネコさんに怒られてたわ。虫歯になるからほどほどにしなさいって」
「意外だわ」
「だからね、これからもっと松田さんの意外な一面が見れると思うから、楽しみね」
「うん」
母子が会話をしているのを耕作は見ていた。幸せそうな顔をしている柔を見るのは耕作も嬉しい。
「やっぱりって感じっスね」
「何が?」
「二人が結婚したのはですよ」
「花園ならそう思うよな」
かつて花園は柔道を始めた富士子がみるみるその才能を開花させ、大会でも成績を残していく姿に不甲斐なさを感じていたことがあった。花園は小さい時から柔道をしていたが、全く上達せず大学の柔道部でもレギュラーすら入れなかった。練習は誰よりも真面目にしているのに、試合では自分より小さい選手に負けることだってあった。
そんな中で輝きを放つ富士子に追いつこうと猛特訓を始め、柔と滋悟郎にも協力してもらってレギュラーを獲得し、大会では準優勝することが出来た。その猛特訓のことを耕作に知られてしまったが事情を聞いた耕作は記事にしないでいてくれた。富士子に対する花園の気持ちと当時の耕作が柔に抱いていた気持ちは似ていた。どんどん高いところへ登って行ってしまう柔を誇らしくも嬉しく思うが、見上げる先が眩しすぎて目がくらんだ。自分のいる場所があまりに冷たくて寂しい場所のように思えて釣り合いが取れないし隣に並ぶことも出来ないと思った。
でも花園は努力した。出来る限りの最大限の努力をして富士子と向き合った。そして二人は同じ歩幅で並んで歩いている。
「あの時のラーメン、うまかったっスね」
「ああ、また行こうな。あれは女性には受けないから男だけで」
「そうっスね」
膝の上にいた富薫子が不満そうに頬を膨らませる。自分も一緒に行きたいとでも言っているようだった。
「フクちゃんはケーキがいいよな」
耕作はショートケーキを少しとると、富薫子に食べさせた。白いクリームが頬についてそれを取るとき子供らしいすべすべでもちもちした肌に触れてしまった。
「すごいな、子供ってこんななのか?」
「すごいっスよね。まるで餅みたいっスよ」
「へー、気持ちいいな」
「松田さんと言えど、あんまりフクちゃんに触らないでください」
「本人は喜んでるのに?」
富薫子は嬉しそうにされるがままだった。
「松田さんもいつか子供が出来たらわかるっス。特に女の子だったらこの気持ちはわかるっスから今度は自分がその子の頬をモチモチしてあげるっス」
「は……はっはっは……」
耕作はそっと手を放した。娘を持つ父親ってこんな感じなのか。こりゃ将来を考えると娘の父になるのは大変だなと思った。
それから30分程して二次会もどきはお開きとなった。柔はジョディや富士子とも沢山話したし、みんなの楽しむ姿が見れてとても満足していた。そして柔はホテルへ向かった。
「疲れたなー!」
シャワーを浴びた耕作はホテルのベッドに勢いよく腰かける。
「そうですね。でも、みんな喜んでくれたみたいでよかった」
先に部屋に戻っていた柔は散らかした部屋を片付けたり、服を畳んだりしていた。
「頑張ったもんな柔さん。本当にありがとう」
「ううん。あたしのほうこそありがとう。あたしがしたかったことに付き合ってくれて、楽しかったわ」
耕作の隣に座った柔は、耕作の逞しい腕に絡み付く。シャンプーのいい香りがふんわり香る。
「明日にはもう一緒にいられないなんて本当に織姫と彦星みたい」
「七夕に結婚したいって言ったのは柔さんだぞ」
「だって記念日だし……」
ボソッと小声で言う柔に耕作は一瞬何のことか分からなかったが、すぐに思い出した。去年の七夕は二人が初めて結ばれた日だ。
「なあ、知ってるか。織姫と彦星ってあんまり仲が良くて仕事を疎かにしたから、離れ離れになったんだそうだよ」
「そうなの? 知らなかった」
「だから、俺たちはしっかり仕事をしていれば一緒にいる時間ももっと増えるんじゃないかな」
「耕作さんが仕事がんばると、家にいないじゃない」
「あ! そうか。でも、それが近道がと思うんだ」
「じゃあ、あたしは世界選手権を目先の目標にしていればいいのね」
「そうだね。ところで、柔さん」
「なあに?」
「少し、飲まないかい?」
部屋にあったシャンパンを開けた。細く上品なグラスにゴールドのシャンパンが注がれ、泡が綺麗に上がる。二人は窓辺に座り乾杯する。ホテルから見える東京の夜景はとても美しく、ロマンティックだった。
窓に映る左手の薬指にはお揃いの銀の指輪がやけに光って見えた。
「どうかしました?」
「いや、指輪見てるとさ、結婚したんだなってあらためて思うって言うか」
柔はそっと左手で耕作の左手に触れる。ゴツゴツとした太い指に光る指輪はまだそこにあるのが慣れないようで、居心地が悪そうにも見えた。
「指輪をすることにあたしもまだ慣れてないし、耕作さんがしていることも不思議な感じがします。きっと、これからこれが当たり前になるんですね。それが結婚なんでしょうね」
「そうだな。一緒にいるのが当たり前ででもお互いを大切にしあって行く夫婦や家族でありたいな。でも虎滋郎さんや玉緒さんのような夫婦もいいよな。離れてても思いは一つみたいな」
「もうきっとそうなってますよ」
「結婚したばかりなのに?」
柔は耕作を見つめた。
「試合の時、耕作さんがいなくて不安になることがなくなったの」
「どういうこと?」
「ユーゴスラビアの世界選手権の時、あたしとても不調だったでしょ。原因がわからなかったんですけど、決勝で耕作さんが来たのがわかると安心していつものように試合ができたんです」
「そうなの!?」
耕作は驚きと嬉しさで変な顔をした。
「バルセロナ五輪の48kg以下級の時もそうだったんです。だから富士子さんが耕作さんのプレスカードを持ってきてくれてそれで力が出たんですよ」
「そりゃ嬉しいな。俺なんて何の役にも立ってないと思ってたから」
「そんなことないですよ。耕作さんはずっとあたしの心の支えだったんです。今もそうですけど、今は試合に来れないときも不安じゃなくなりましたから。それが離れてても思い合っているって勝手に思ってるんですけどね。でも、だからってあたしを置いていなくなるのはやめてくださいよ」
「そんなことしないよ。最低限、所在は明らかにするし」
「もう! そう言うことじゃなくて」
「どういうこと?」
「ずっと……これからずっと、ずっと手を繋いでいられる距離にできるだけいて欲しいってことです」
そう言って柔は耕作の手を握る。二人とも顔を赤くして照れているが見つめ合ったまま。そして重なる唇、早くなる鼓動。
「なんだかとても緊張します」
「俺もだよ。きっと一生慣れる事なんてないよ」
夜景の見える窓にはカーテンが引かれ、照明を落とした部屋で互いの愛に触れ合う。ここまでの道のりは長かった。でもこれが二人の近道。これからの人生を思えばまだほんの一歩に過ぎない。でも、その一歩を踏み出せた幸せを今は噛みしめている。