vol.1 大騒動の結婚報道
恐らく世界中の人が驚いたそのスクープを報じたのは当然日刊エヴリースポーツだ。あまりに突拍子もないスクープだと、裏取りが出来ているのかと激しく問い合わがあるが今回ばかりは裏取りの必要もない。なぜなら柔の相手が日刊エヴリーの記者だからだ。
「おい! いたか?」
「ここにはいないみたいだ」
案の定、猪熊邸がある閑静な住宅街には早朝からマスコミが押し寄せていたが、そこには誰一人としていない。近所に人に話を聞くと、昨日から姿が見えないと言っていたから記事が出ることを想定して雲隠れしたんだと悔しがった。
耕作のふるさとでもある山形にも記者はきた。始発の新幹線で民宿に押し寄せたが、やはりもぬけの殻。近所の宿屋に聞いても知らぬ存ぜぬ。宿泊してくれたら何か思い出すかもなんて言い出す宿屋もあったようだ。
富士子が静岡の実家に帰ったことは知られていて、そこにもマスコミは来ていた。あいにく、富士子も花園も帰宅してないので話は出来ないと言われ、また肩を落とす記者たち。
その後、マリリンたち三葉女子の面々や鶴亀トラベルにもマスコミがやって来たが誰も何も話さなかった。
「くそー! 戒厳令でも敷かれてるのか! 誰も何も言いやしない」
スポーツ東京の記者がそう言って新聞を地面にたたきつけると、ふとその新聞の端っこが目に入った。
「そ……そうか」
急いで向かった先は「日刊エヴリースポーツ」本社だ。
記者たちの相手をしたのは編集長だった。
「松田記者はいないんですか?」
「いないな」
「アメリカですか?」
「そうとも言えるしそうとも言えない」
「じゃあ、猪熊は?」
「それは知らん」
「家族全員いないんですよ。あの目立ちたがりのじいさんまでいないんですよ」
「そうやって追いかけるから隠れてるんだろう。もう、そっとしておいてやれよ」
「それおたくがいいますか? 騒いでほしくて記事にしたんでしょ」
「いいや。騒いでほしくないな。結婚したことはいずれ言わなきゃいけないけど普通に考えてウチで記事にするだろう。松田はウチの記者なんだし。公表してもしなくても騒がれるなら公表してこれ以上話さないってことにしたんだよ」
「そんな、不公平だ!」
「手段の一つだよ。それにもっと知りたいなら来月出る松田の本でも読んでくれ。一応そこには結婚の事も書かれてるから」
「ということは、あなたは知っていたのですか? 二人の交際を」
「ああ」
「新聞で否定記事出しましたよね」
「あの時は知らなかったしな」
「じゃあ、松田記者が嘘を言ったと? それとも猪熊側から秘密にして欲しいとでも言われたんですか?」
「そういうことはないな。松田も嘘を言ったと言うよりは、まだ本当の事か信じられないと言った感じだったらしい。なんせすぐにアメリカに行ったんだからな」
「夢だと半分思っていたと?」
「そういうことらしい。それくらい松田にとっては現実味のない出来事だったんだろうな」
「じゃあ、いつから現実になったんですか?」
「そんなこと俺が知るか。二人の仲を知ったのは最近だ」
これは嘘だ。編集長が二人の仲を知ったのは去年の初め。日本語版の書籍発売に向けての話し合いのために耕作が帰国した際に問い詰めたら自白したのだ。だがその時も喧嘩でもしたのかはっきりしない返事が返ってきた。
「俺が言うのも変だがな、猪熊はスポーツ選手だ。アイドルじゃないんだよ。結婚したところでいちいち報告する必要もないし、コメントを出す必要もないだろう」
「国民栄誉賞を貰ったんだから公人に近いと俺たちは考えてますけど」
「それは勝手な言い分だ。国民栄誉賞はその人の功績を称えた賞であって、それは国が与えたものだろう。その国も国民の反応を見てふさわしいと思ったから授与したんだ。素晴らしい功績を残した国民が貰う賞なんだから公人じゃないだろう」
「ですが、税金が投入されているじゃないですか」
「賞金は渡されてないし、記念品程度でごちゃごちゃいうなよ。競技に関しての税金投入だって猪熊は結果を残してるんだから問題ないだろう。それよりも税金を使って作って使われない箱ものの方が無駄遣いだと思うぞ」
「それもそうですが……って話がずれてます。猪熊はコメントは出さないんですか?」
編集長は時計を見る。午後1時。そろそろか。
「出すぞ。マスコミ各社にFAXを送ると言ってた。もうすぐじゃないか」
「なんで、こんな中途半端な時間に! あ、海外にいるんでしょう。そうなんですね」
「だから知らないって。ただな、わかってくれ。今年の9月には世界選手権、来年は五輪だ。大切な時期なんだから結果を出してほしいなら追い掛け回してストレスを与えるなよ」
「は! おたくもこっちの立場なら同じことしてたでしょう? こっちはこっちのやり方があるんでお構いなく」
記者たちはゾロゾロとビルを出て行った。怒りも焦りもわからんでもないが、仕方ないことだ。耕作は日刊エヴリーの記者なんだから他社にスクープを取らせるようなこともしないし、結婚を機にフリーになるなんてありえない。まだまだ磨いて磨いて、輝いてもらわないと。世間の見る目が変わるほどに。
「前途多難だな……」
午後3時頃になると、マスコミ各社に柔のコメントFAXが送信された。実を言うとこれを送信したのは鶴亀トラベルからで柔は前日に直筆の文章を羽衣に渡していた。
『いつもお世話になっている皆様へ
突然ではございますが、私、猪熊柔は7月7日に日刊エヴリースポーツの記者松田耕作さんと入籍いたしましたことをご報告申し上げます。
本来であれば、皆様の前で会見をしたいところではありますが、間近に控えた世界選手権への影響を考えコメントのみとさせていただきましたことお許しください。
夫は記者ではありますが一般の方ですので、関係者への取材などは御遠慮いただきますようお願いいたします。
入籍は致しましたが、夫が海外赴任中でございますので、暫くの間は別居と言う形をとりお互いに精進していく所存です。
未熟者ではございますが、これからもご支援賜りますようよろしくお願いしたします。
猪熊柔 』
期待して待っていたマスコミ各社はあまりに定型文なコメントに肩を落とす。今までも柔は殆どコメントを出してない。オリンピックで金メダルを取っても国民栄誉賞を授与されても会見では滋悟郎が話し、柔は苦笑いを浮かべているくらい。もちろん、今回のような定型文的な挨拶はするが、自分の本心を公の場で発言したことなんて殆どないかもしれない。
近寄りがたい選手という印象が記者の中にはあった。さやかとは違い、サービス精神が乏しくいつも困り顔をしていた。そんな選手をどうして松田記者は射止めることができたのか、記者仲間の中でも疑問でしかない。アメリカで出版された「YAWARA!」を読んだ記者も、耕作がデビュー前の柔を見つけそれ以降も追いかけていたと言うことはわかっても、それだけじゃ彼女の心を動かすなんて到底不可能だと思った。
猪熊柔と言う選手はスポーツ記者たちの中でも、扱いにくい選手だった。ある意味、普通すぎるのだ。どこにでもいる普通の女の子が柔道をしていて、凄く強いということだから世界と戦う意気込みとか負けられないという強い意志はあまり感じられない。何のために柔道をやっているのかもあやふやなのだ。
「NYにはいないみたいです」
スポーツ東京編集部にかかってきた電話は、アメリカ支局の記者がNYの鶴亀トラベルに取材に行った結果の報告だった。NYにいないならどこにいるのか。世界選手権が近いのに他国で練習と言うのもおかしな話だ。やはり国内か。でも、心当たりは探した。でも、どの記者も情報は得てない。
「日刊エヴリーが唯一の手がかりか……」
それからとても奇妙な出来事が起こり始めた。鴨田や邦子は誰かに付けられているような感覚を覚え、何度も振り返ってみるが誰もいない。編集長も同様の事が起こったが、理由は明白なので気にしないで過ごすことにした。
「同業者を追いかけて何が楽しいんだか……」
真夏の炎天下の中、会食に出かけた帰り視線を感じて振り返る。蝉の鳴き声と室外機の音が耳鳴りみたいに聞こえた。体を戻して編集部に帰ろうとしたとき、生い茂った大きな木の隣に背の高いほっそりとした男が立っていた。
「日刊エヴリーの編集長さんですか?」
「あ、ああ。あんたは?」
「山形新聞の記者をしてます。海藤といいます。松田記者の事をお伺いしたいのですが」
「松田はアメリカにいる。記者のプライベートまでは把握してない」
「山形では随分話題になってまして。あの猪熊柔が嫁に来るって。ぜひともコメントをいただけないかと思ってるんですが、窓口がなくてですね」
「両親がいるだろう。プライベートなことなんだからそこから頼めばいいじゃないか」
「そうしたんですが、忙しくしてるからなかなかつかまらないと言われまして。だったら仕事で毎日連絡を取っている編集部なら繋いでくれるかと思いまして」
「そういうことなら、うちは無理だ。諦めてくれ」
「わかりました。お手間をお掛けしました」
海藤は白い顔に笑みを見せて編集長を見送った。この暑さの中、編集部まであと10分程かかるだろう。角を曲がってふと振り返る。海藤の姿はない。
「あいつ何でこんなところにいたんだ?」
ボソッと聞こえるか聞こえないかの声で言った。編集部からも遠いこの場所で編集長に会えるなんてあまりない。そもそもここは普段通らない道なのだ。
あらためてあの細くて白い顔を思い出すと妙な寒気がした。