9月28日から千葉県の幕張メッセで世界柔道選手権が行われる。そのおよそ1ヶ月前、日本の選手団も合宿練習に励んでいた。その中にもちろん柔の姿もあった。
「猪熊さん、日本にいらしたんですか?」
鶴亀柔道部の選手が柔を見つけて駆け寄ってきた。彼女もまた代表選手だ。
「千原さんご迷惑かけて本当にごめんなさい。実はずっと日本にいたのよ」
「迷惑なんてないですけど、報道では会社にも西海大にも自宅にいないと言われてましたので」
「秘密の練習場があってね、会社の許可も貰ったからそこでおじいちゃんと練習してたの」
「名誉会長もそちらに? さぞ厳しいトレーニングを積まれたんですね」
「ええ……まあ」
実を言うと、柔は都内にいた。道場があって隠れられる都合のいい場所はそうはなく、結局藤堂が所属している黒百合女子大の寮に住まわせてもらっていた。事前に荷物を運びこんで2ヶ月間お世話になる代わりに、滋悟郎が黒百合の選手のコーチとなったのだ。そして何よりもここで稽古をすることは柔の特訓にも繋がる。
なぜ外部に漏れなかったのかは奇跡としか言いようがないが、藤堂がいなくなった黒百合は強い選手を輩出出来ずにいたために、マスコミのマークからも外れていたし、藤堂と柔が現役の頃から仲が良かったわけじゃないからそもそも藤堂にもマークはついてなかった。
滋悟郎を大人しくさせる事が出来たのは、なんだかんだと言って女子大であり現役の藤堂のようなたくましい女性よりも、細身で清楚な女性が多く滋悟郎は鼻の下を伸ばしっぱなしでいたためだ。
それに加えて、岡崎と知り合ったことも大きい。滋悟郎は自分の持っているスポーツ医学を科学的に分析して、後世にも残せるようにしたいという岡崎の熱意を買い研究に協力していた。とはいえ、滋悟郎の民間療法のような薬や処置が何の役に立つのか柔には全く理解できなかったが。
そして玉緒はというと、虎滋郎と共に世界一周旅行に出ていた。五輪まで1年を切っていたがフランスとの契約更新に至らず時間もあったので、本阿弥家から貰った多大なコーチ料を持って夫婦水入らずの旅行に出かけていたのだ。
「こらーもたもたするでないぞ。さっさと着替えてこんか!」
滋悟郎の怒声が飛ぶ。バルセロナ五輪の合宿にも参加していた選手は、背筋がピンとするとともにこれからの練習の厳しさに恐怖すら感じていた。
5日間続いた地獄の合宿で柔はバルセロ五輪の頃よりもいい状態であることがわかった。耕作は今はここにいないけど、それでも心の安定が取れているのはきっと想いが通じ合っているからだ。不安な事なんて何もない。
◇…*…★…*…◇
千葉の幕張メッセに行くのは初めてだった。海辺の開けた場所にある近代的な建物で多くの人でにぎわっていた。
今回の大会は柔が結婚発表後、初めて公の場所に出てくるということで世界中からマスコミが押しかけて来ていた。そして何よりも耕作とのツーショットと撮ろうと殺気立っていた。
先月発売された「YAWARA!」の日本語版は書店で山積みにされてもすぐに完売するほどのベストセラーになっている。主な内容な長年柔を追い続けてきた耕作の視点から強さの秘密を解き明かしているような感じだが、猪熊家や女子柔道の歴史という深いところまで掘り下げているところが好評を得ていた。特にアメリカ人のラスティの事は多くの日本人の知る所ではなく、なぜ今まで柔道関係者が言わなかったのかと疑問視する声も上がった。
しかしながら、誰もが期待してページを開いたのは、描き下ろしの柔のページだろう。その中に書かれていたことは「記者と言う立場を越えて支えてくれたこと」「いつも真っ直ぐ向かい合ってくれたことへの誠意に感謝している」と言ったことでいつから恋愛感情があったとか、どんな付き合いをしてきたとかは一切書かれていない。それは至極当然の事なのだが、期待した人は少々がっかりしただろう。
だが、最後のページには結婚式での柔と耕作のツーショット写真が載せられておりそれだけでも見る価値はあると言われた。そしてテレビなどでは極秘に行われた結婚式に関しても、華美で豪華な結婚式が今年の情勢に似つかわしくないと考えた、優しい二人の配慮によるものだと好意的にとらえてくれてますます二人の好感度は上がった。
世界選手権は五輪同様、重量級から試合が行われる。その理由は最終日の無差別級を考慮してなのだが、48kg以下級と無差別級は同じ日に行われるので柔はどちらかしか出られない。しかしそれを決めるのは柔ではない。
「ヤワラー!」
人が行きかう通路の奥から聞き覚えのある声が聞こえた。
「アリシア!」
「結婚式以来だから3ヶ月ぶりくらいかしら」
「ええ、調子はどう?」
「もちろん絶好調よ。ところでヤワラ、階級はどこに出ることになったの?」
「48kg以下級よ」
アリシアの顔は喜び綻んだが、次の瞬間には緊張感と戦意の混じった目になった。
「公式戦では初めてね。絶対、勝つわ!」
「え?アリシアは52kg以下級じゃなかったかしら?」
「公式戦で試合したいから、階級を変えたの。無差別級は難しいけど、こっちならできるって思ったわ」
「そこまでしてくれたならあたしも、全力で戦うわ」
握手をして別れた。試合は4日後。それまでは他の選手の応援をしなくてはいけない。
「さすが、英語お上手ですね。それで彼女誰ですか?」
柔の会社の後輩である千原が声を掛けた。彼女もまた代表選手なのだがまだ出番は先だ。
「アメリカ代表のアリシアよ」
「そんな人がどうして猪熊さんと知り合いなんですか?」
「まあ、ちょっと色々あってね。彼女の強さは分かってるから気合入れて行かないと」
「猪熊さんがそこまで言うならよっぽどの選手ですね」
何もかも吹っ切れたアリシアは去年試合をした時とはけた違いに強くなっている。アメリカの公式戦に初めて出た時はまるで柔のデビュー戦のように誰もが驚きと興奮を覚えた。そして容姿の美しさから瞬く間にアメリカのニューヒロインになったのだ。
「あー柔ちゃん見つけた」
「邦子さん。お久しぶりです」
「もーどこに隠れてたのよ。心配したのよ。まさか、NYにいたの?」
「いえ、日本にいました」
「え! じゃあ、新婚早々離れ離れなの?」
「ええ」
「一度もNYに行ってないの?」
「そうです」
「はー何してるんだか。で、今日は耕作は?」
「まだ来てないんじゃないですか。あたしの試合までには日本に戻るって言ってましたから」
「そんな悠長な。でも柔ちゃんは余裕の感じね」
「そうでもないですけど」
少し淋しいけどもうすぐ会えるならそれももう気にならない。それくらい強くなれた。でもそれは決して耕作がいなくても平気なわけじゃない。
「あ! 猪熊がいたぞ!」
他の記者が柔を見つけて近づいてきた。柔は邦子に挨拶をして控室に逃げるように戻って行った。
4日間の日程で最後に試合をする柔は他の選手の応援のために会場に来ていたが、あまりにも記者が押し寄せるようなら行かない方がいいかと思ったが初日に滋悟郎からきつく言われた記者たちは今は大人しく世界選手権の取材をしている。
今回の世界選手権は日本での開催ということで、メダルを期待されていた。男子は順調にメダルを獲得していたが、女子は調子が悪く最終日での成績では72kg以下級で銅メダルという結果となっている。だから柔への期待度は高く、最高に会場は盛り上がっている。
「さあ、世界柔道選手権大会最終日。女子48kg以下級が始まろうとしています。本日は特別ゲストとして猪熊選手のおじい様でいらっしゃる猪熊滋悟郎先生を放送席にお招きしております。そしてもう一人、解説は犀藤仁さんにお願いしております」
「わしぢゃ!」
「よろしくお願いします」
「大歓声が聞こえるでしょうか。一回戦はもう間もなく始まろうとしていますが、猪熊選手の人気は増すばかりですね」
「当然ぢゃ。何よりも今回の女子の試合の不甲斐ない結果にわしも落胆しておる。世界のレベルは柔が金メダルをとったこととで格段に上がっておると言ってもよいぢゃろう」
そう思うことで情けない結果に終わっていることを消化するしかない。男子は金メダルこそ2つだけだが、その他の選手も銀か銅のメダルを獲得している。
「そうですね。カナダのジョディ・ロックウェルやロシアのテレシコワなどの引退により元気がなくなったと思われた女子柔道界でしたが、新たな勢力が台頭し新しい時代になったと言っても過言ではないでしょう」
犀藤がそう言うと、選手が会場に入ってきた。
「お! あそこにおるのはマルちゃんではないか?」
「フランスのマルソーですね。確か彼女も猪熊選手のお父上である虎滋郎氏がコーチをしたと噂されていましたが」
「その通りぢゃ」
「ということは、猪熊選手の強敵としてまた立ちはだかる可能性があると言うことでしょうか。順当にいけば決勝でぶつかりそうですね」
「いや、今回はどうなるかわからんぞ」
「それは猪熊選手の圧勝と言うことでしょうか? あ、マルソーの対戦相手であるアメリカのアリシア選手の姿が見えましたね。どちらも大変美しい選手ですが闘志は燃えているようですね」
「ところで滋悟郎先生、全国民が聞きたがっている話題を今聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんぢゃ。わしの武勇伝か? あれは……」
「いえ、それは後ほどということで。猪熊選手の結婚の事なんですが」
「柔の結婚の事なんど聞いて何が楽しい? それよりもわしの……」
「それは後のお楽しみということで、猪熊選手の結婚に関して滋悟郎先生はどう思われましたか? 以前は男女交際に関しては厳しくしていたようですが」
「柔ももう25だ。早すぎると言うこともないぢゃろう。それに相手の男はわしもよく知る男ぢゃし特に反対などはせんかったが」
「滋悟郎先生のおめがねにかなったと言うことでしょうか?」
「今のところはと言っておこうかの。ん? そろそろはじまるぞ」