畳の上に上がったマルソーとアリシア。二人とも金色の髪が美しいが瞳はまるでサバンナの豹の如く鋭い。
「アメリカのアリシア選手ですが昨年、彗星の如く登場した強敵とデータにはありますが、犀藤さんは御存知でしたか?」
「いえ、今まで公式戦には出ていなかったと言うことでしたが、噂にもなったことがないと言うことで、一体どこの誰に指導を受けていたのか。まるで猪熊選手を彷彿とさせますね」
「ふん! あやつは柔とは違う。ぢゃが強さは本物ぢゃ。マルちゃんよ、勝てるかな」
試合が始まる。バルセロナ五輪の前、さやかの練習相手として柔のコピーとして鍛えられたマルソーの得意技は一本背負いだ。その速さとキレは虎滋郎仕込みなだけあってさすがとしかいえず、バルセロナ五輪のときは柔も苦戦した。
「はじめ!」
合図とともに二人は組み合う。すぐさまマルソーの一本背負いが飛び出すも、アリシアは予想していたかのようにそれをかわし自分の体勢に持って行く。そして目にも止まらぬ連続技を繰り出し、技ありをとる。そして寝技に持ち込んだが外されて、再び対峙する。
アリシアはマルソーには最大の警戒をして試合に臨んでいた。柔のコピーとも言えるマルソーだったが、五輪の後再び虎滋郎氏のコーチを受けて更に強くなったと言われた。アリシアは自分がまだ世の中に知られてないことを武器にするしかないと思った。幸いにも初戦の相手だ。勝機は十分にある。
試合終了10秒前、仕掛けたのはマルソーだった。いいタイミングの一本背負い。しかしアリシアの方が上手だった。その一本背負いに入るタイミングで技を抜けたアリシアは逆に背負い技をかけ気づいたときにはマルソーは背中を畳みに付けていた。
「うそ……」
自分がもし負ける事があるなら柔だけだと思っていた。五輪のあと、それだけ厳しいトレーニングを続けてきた。フランスのコーチに残った虎滋郎には初心に戻ってトレーニングをするようにと言われ、基本から徹底的にやり直した。それなのに……。
マルソーは立ち上がると上がった息を整える間もなく礼をした。するとアリシアが同じように荒い息遣いのまま握手を求めて手を差し出した。
「ありがとう。楽しかったわ」
英語がわからないマルソーは何を言ったのかわからなかったが、笑顔のアリシアに笑顔で握手を返した。
会場はまさかの結果に唖然とした様子だ。柔の決勝戦の相手はマルソーだと思って疑ってなかった。それなのに一回戦敗退とは想像を越えすぎている。
「アメリカのアリシア選手。一体何者なのでしょうか。物凄い強さを見せてくれましたが」
「まだまだぢゃ。技の入りが荒いし、タイミングも悪い」
「とはいえ、まさかの結果です。これは初戦から波乱の展開」
アリシアの結果に日本選手団も驚きを隠せない。無名選手の台頭に脅威を感じた。
「ねえ、猪熊さん。あの人って知り合いって言ってなかったですか?」
千原がそう言うと、その場にいた全員が柔に注目した。
「ええ、彼女はアメリカにいた時にあたしの練習相手になってくれた人よ。それ以外にも色々お世話になったし」
「ええー!! なんで敵に塩を送るようなことをしたんですか?」
「それは彼女は52kg以下級だったし、元々強かったの。あたしと少し柔道をしたくらいで何も変わらないわ。指導者がすばらしいのよ」
「そんな人がアメリカにいるんですね」
「ええ。強敵であることは間違いないわ」
柔も初戦に向けて控室を出て、会場に向かう。廊下には相変わらず人がひしめいている。各国の選手やトレーナー、コーチなど様々な人が自国の選手のケアにあたっている。
柔は耕作を探していた。昨日には日本に戻っているはずなのに、マスコミ対策として柔の自宅にはいかなかった。だからと言って外で待ち合わせる事も出来ずにいたが、会場に来たら会えると思っていたが姿は見えない。邦子にも聞いたが見てないと言う。
「猪熊さん?」
千原が声を掛けてくれた。いつもこのポジションには富士子がいて、記者の中には耕作がいてそれで安心した。でも今日は二人ともいない。
廊下でマルソーとすれ違った。悔しさで顔が歪んでいた。まだ自分の中で納得できていないようだった。恋人である男性がマルソーを見つけると駆け寄って抱きしめた。それを横目に柔は一呼吸置いた。
ふと、右手に何かが触れた。それは柔の右手をぎゅっと握るとするりと離した。
「え?」
振り返る柔。
「どうしました?」
「ううん。何でもないの」
人ごみの中に隠れてしまったが、あれは間違いなく耕作だった。記者の時とは違う服装で変装でもしているようだったが柔にはわかった。あの手の感触は耕作のもの。間違えるはずがない。
柔はその後、初戦から一本勝ちで勝ち進み誰もが予想したとおりに決勝へと進んだ。そして相手はあのアリシアだった。
「いよいよね、ヤワラ」
「ええ」
決勝の前に行われた敗者復活戦でマルソーは見事銅メダルを獲得し、面目を保てた。しかしながら今は誰しも柔とアリシアの試合を固唾をのんで待っている。
「滋悟郎先生、アリシア選手は順調に決勝へと進みましたがどう見ますか?」
「よい仕上がりぢゃと思うが、実践経験の少ないアリちゃんは柔とどう戦うか」
「そうですね。対する猪熊はベテランですし、世界チャンピオンですからね」
「経験がないから予想もしない技を出すこともある。それが怖いと思いますね」
「嫌な事いいますね、犀藤さん」
「そう言うときもあるのは否定できん」
会場が歓声に包まれる。柔とアリシアが登場した。いつもは自宅のテレビで観戦している玉緒も今回は千葉で開催と言うことで、久し振りに柔の試合を見に来ていた。その事にテレビ局のカメラも気づいていて意図的に映していた。柔の夫である耕作が応援に来ているのではと思って何度か映していたが、玉緒の横には富士子と花園、富薫子がいてその周りには三葉女子の4人がいただけで耕作は現れてはいない。
「もー松田さん何してるのかしら? とっくに帰国してるんでしょう」
「お仕事がいそがしいのよ。柔も気合十分だし、平気よ」
「そうだといいけど……」
富士子は不安げに柔を見た。ユーゴスラビアの時のようなことにならなければいいのだがと、遠くにいる自分にも歯がゆさを感じた。
柔とアリシアは畳に上がり、開始線の前で止まる。去年試合した時は、柔の圧勝だった。だが今はどうかわからない。柔は自分の心に中に、強い相手と試合出来る喜びが芽生えていた。
「はじめ!」
最初に仕掛けたのはアリシアだった。払い腰で一本狙ってきたが柔はそれをかわして、一本背負いに入ったが不発に終わった。
「今ので決められんとは、なにをしとるんぢゃ!」
その後も、互いに技をかけていくが得点にも繋がらず、体力だけが削られて行った。
――ヤワラはやっぱり強い。一筋縄ではいかない。でも、もうどうしたらいいのかわからない。
その時、歓声の上がる会場にひときわ大きな声が聞こえた。
「アリシアー!!ファイトー!!」
記者席でカメラを構える赤毛が見えた。世界選手権なので様々な国籍、人種の人がいるから全く気にしてなかったがよく見ると知ってる人だ。
「ジェシーさん?」
富士子がそう言って目を離していると、一際歓声が大きくなった。
「なに? 何があったの?」
「アリシアさんが内股を仕掛けて、猪熊に技ありを」
「なんですってー! 猪熊さーん! がんばってー!!」
柔は真っ直ぐアリシアを見ていた。柔道が大好きで大好きでたった一人でもやり続けた。その情熱は柔とは違う強さをうんだ。孤独の中で精進する技は一つ一つが丁寧だ。
そう、まるでお手本のような柔道なのだ。
試合再開。柔は技ありを取られたことに焦りを感じていなかった。自分でも不思議なくらい心が穏やかだ。この会場のどこかに耕作がいる。そう思うだけで心はもっと強くなる。
「いけー!! 柔さーん!!」
聞き覚えのある声。間違えるはずがない声。ずっとずっと応援し続けてくれた声。
柔は試合中なのに、にこりと微笑んだ。それをアリシアは見逃さなかった。でもそれがいけなかった。
「あーーーーー!!!!」