「あーーーーー!!!!」
気づいたときには空を飛んでいた。羽が生えたような感じがした。そうだ、これが柔道だ。
畳に背をつけるアリシア。一瞬の静寂の後に柔の顔が見えた。
「大丈夫?」
「ええ、ありがとう」
柔はアリシアの手を取ると立ち上がる手助けをした。
礼をして、握手をする。アリシアは泣いていた。悔し涙じゃない。これは感謝の涙だ。
「ありがとう、ヤワラ。私をここまで連れて来てくれて。こんな素敵な場所で柔道させてくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。楽しかったわ。また試合しましょうね」
「敵わないな柔には」
「え?」
「まだ本気出してないんだ」
そう指摘された柔は曖昧な表情で微笑んで、畳を降りた。
放送席の滋悟郎は「鍛えなおしぢゃ」と言いながらも、顔がほころんでいた。
表彰式の後、短い時間だが記者会見の時間が設けられた。結婚発表後、初の記者会見に記者たちはいきり立っていた大方の予想通り滋悟郎の独壇場となった。
しかし、柔もこの場所にいる事の自覚はあるので最後に一言だけ言った。
「日本で開催された世界選手権は沢山の歓声が励みになりました。ありがとうございました」
「最後に1つ。ご結婚されて最初の試合でしたが、ご主人は応援に来ていたんですか?」
去り際に聞かれたその質問に柔は満面の笑みで返した。
控室に戻った柔は着替えを済ませ出てくると、滋悟郎が仁王立ちで待っていた。
「なにをちんたらしとるんぢゃ。さっさと行くぞ」
滋悟郎について関係者出口に向かう。まだ選手も関係者も沢山行きかってとても騒々しい。マスコミもまだ撤収してないので、捕まったら面倒だ。二人で足早に出口に向かった。
遅れてなければ外に車が来ているはずだ。今朝、花園が運転するレンタカーで猪熊家と富士子と富薫子が会場にやってきた。帰りも同じように車で帰ることになってる。
鉄の扉を開けてまだ明るい空にほっとしつつ、歩き出す。きっと車には耕作もいるはずだろう。その事だけでも嬉しくて歩く足が早まる。
出口から少し離れた場所に車が見えた。周りにいた人たちは、柔だと気づくと振り返ってはいたがさすがに声を掛ける者はいなかった。そんな時、5才くらいの女の子が柔のスカートの裾を掴んだ。
「こんなところでどうしたの?」
「これ」
女の子は柔の手におさまる程度のクマのぬいぐるみを差し出した。
「くれるの?」
女の子は頷く。そしてまわれ右をして走って行った。すると、赤い糸が女の子のポシェットの金具に引っかかりどんどんぬいぐるみがほどけていく。
「あ! 待って!」
柔は追いかけた。女の子は振り返ったが、どうして追いかけて来るのかわからずに止まることなく加速した。
「お願い止まって。お人形が壊れちゃうわ」
女の子は振り返って状況が分かったようで、ピタリと足を止めた。柔はすぐに追いつき、ポシェットから糸を外す。茶色いクマの首から赤い糸がほどけていたが、どうもおかしい。リボンがあるわけでもなく、何で赤い糸なのか。
「猪熊柔さん?」
背後から低い声がした。まだちょっと距離があるようで長い影の頭の部分が柔の足元に見えた。
「はい?」
振り返る。逆光でよく見えないが、長身の男がいることはわかった。
「お久しぶりですね。覚えていますか?」
柔はじっとその人を見ると、顔が見えて答えた。
「はい。西野さまですね。今日も応援に来てくれたんですか?」
「まあ、そうですね。ところで結婚されたんですね?」
「ええ」
「それ……」
西野が指さすのはクマのぬいぐるみ。今はもう首が半分撮れて、綿が出てきている。
「あ! さっきのおじちゃん。あたし、おつかいできたよ」
「え?」
柔が女の子の方を向くと、その場の空気が変わった。再び西野の方を向くと、その手にはナイフが握られためらうことなく柔めがけて走ってきた。とっさに柔は近くにいた女の子を庇うように抱きしめ背を向けた。逃げるほど時間はない。
もう、だめだ。そう思った。そう思うと、いろんなことが思い出された。そしていろんなことを悔やんだ。
ドスン!
自分の背中に感じるはずの痛みはなく、鈍い音だけが聞こえた。
「きゃー!!!!」
近くを通りかかった女性が叫び声をあげた。我に返った柔は恐る恐る振り返る。
「おい! もう、観念しろよ!」
「離せ! なんで、お前が! 離せ!」
西野は地面に押さえつけられ必死にもがいていたが、その拘束が解けることはなくじたばたしていた。
「こ……こうさくさん?」
「柔さん、怪我はない?」
頷く柔。女の子もなさそうだ。放心状態の柔は体が動かなかった。
「柔、どこぢゃ!」
滋悟郎たちが騒ぎを聞いて走ってきた。その場には三葉女子の同級生の姿もあり、耕作は南田に言った。
「警察呼んでくれ。それから拘束できる何かを持って来てくれないか」
「あ、はい!」
南田は建物の方へ走って行った。
耕作の足元にはナイフが落ちていたことから、状況は大体察しがついた。でも、女の子がいる事と耕作が取り押さえていることなど不明な点も多い。
「どういうことだ、日刊エヴリー?」
「滋悟郎さん、とりあえずナイフを手の届かないところへ移動させてください。それから虎滋郎さん、こいつが他に何か持ってないか確認お願いします」
滋悟郎は耕作の横に落ちていたナイフを拾い上げた。虎滋郎は西野の上着やズボンなどを触り他に危険物がないか確認した。
「何もないな」
「そうですか。それならよかった」
「くそっ! 何なんだよ! お前! どうして!」
西野は往生際悪くもがき吠える。
「どうして柔さんを狙った? 狙うなら俺だろう?」
「裏切ったのは柔だ。僕はずっと応援してたのに、ずっと見て来たのに。なんで、こんな男を選んだんだ! 僕の方がふさわしい」
「可愛さ余ってってやつか。話にならない」
まだ青い顔をしている柔に耕作は笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。そんな怖がらなくてももう、終わった」
「でも、こ……耕作さん、血がでて……」
「こんなのかすり傷さ」
程なくして警備員を連れた南田が戻ってきた。倉庫にあったトラロープを西野の手首と足に巻き付けとりあえず、耕作は力を抜いた。
駆け寄った柔は耕作の右前腕から出血しているところをハンカチで押さえた。
「そんな顔するなよ」
柔は不安と恐怖から顔が白くなっていた。手も震えていて、今にも泣き出しそうだった。
「だって……だって……血がこんなに出て」
「大丈夫だよ。それより君に怪我がなくてよかった。で、あの子はどこの子?」
柔がかばっていた女の子はわけもわからず、ただその場にいた。すると母親らしき人が人ごみをかき分けて入って来て女の子を抱きしめた。
「どうしてママの後ろを付いてこないの?」
「だって、クマちゃんが呼んだから」
「クマ?」
「すみませんが、警察が来たら少し話をしてもらいたいのでこのままいて貰ってもいいですか?」
「え? 警察? え?」
母親はこの時初めて、耕作の手の傷や柔の存在、そして拘束されている西野を見た。事情が全く分からないまま不安そうにしていると、玉緒が母親のそばに寄り添い背中を撫でた。
それから警察が到着すると、西野は連行され同時に救急車が来ると耕作は病院へと搬送された。もちろん柔は妻として同行し、滋悟郎たちも花園が運転する車で病院へ向かった。警察の対応は南田に任せたが、彼女も詳しくは知らないので後ほど病院で事情を聞くことになった。