日曜日の病院は静かで、まばらについた照明が不安をあおった。それに加え、柔は病院と言うところに縁がない。病気もしたことがなく怪我をしても滋悟郎が治してくれるので、総合病院のようなところに来たのは富士子の出産の時と玉緒が入院したときくらいだろうか。玉緒の時以上に、心臓の激しい鼓動が今も鳴りやまない。
処置室から出てきて耕作の右腕には包帯が巻かれていた。一緒に出てきた医師の説明によると浅い切り傷だが、場所が悪ければ大量出血していた恐れもあると言われた。
「どうしてそんな無茶したんですか。ナイフを持った人を相手に下手したら本当に死……」
柔は言葉にするのも恐ろしかった。
「ごめん。なりふり構っていられなかったんだ。西野がまっすぐ君にナイフを向けたから」
「でも、でも……」
涙が止まらない。目を真っ赤にして柔は耕作を見ていた。ヘラヘラと笑う顔がまた余計に気持ちをかき乱す。
「耕作さんは無茶ばかりする。あたしの気持ちも考えないで、いつも無茶ばかりする」
耕作は柔を抱きしめる。震える柔がいじらい。
一方、柔は耕作の胸から聞こえる心音に次第に落ち着きを取り戻していく。
「ゴホン!」
静寂の中、不意に聞こえた咳払いに二人は慌てて離れた。
「私、千葉県警の陣内です。お話よろしいでしょうか?」
柔と耕作は離れた場所で事情を聞かれた。傷害事件と言うことで捜査はされているが、柔に対して殺人未遂も視野に入っているようだ。
「怪我はいかがですか?」
陣内は耕作を気遣っていたが、気にはしてないようだった。
「かすり傷ですから。ところで西野は今どうしてます?」
「西警察署で取り調べを受けていますよ。多少、怪我などもしてますがあなたに比べれば軽いものです。それで、何があったのですか?」
「もう聞いてるとは思いますが、会場を出てきた柔さんに西野が話しかけてナイフを握って向かって行ったんです」
「その時、あなたはどこに?」
「茂みの中にいました。いい具合に隠れる所があったので」
「なぜ隠れていたのですか?」
「西野をおびき出すためです。西野は絶対ここで仕掛けてくると思いました。俺も柔さんも大会まで居場所がわからなかったはずですから、狙うなら確実にいる世界選手権だろうと思いました」
「では西野が初めから柔さんを狙っていると思ったのですか?」
「いえ。西野の憎悪の矛先は男の方でした。だから俺の方に向けてくると思っていたので、外に出るまでは身を隠していたんです。試合中は柔さんの周りは関係者がいて近付けないでしょうし、俺もいないなら何かするなら帰る直前だと予想してました」
「でも、柔さんの方にその殺意が向けられたのは計算外でしたか?」
「少しは想定してました。もしあの時、西野が何もしてこなければ俺が割り込んで状況を見てみようと思ってたんです。憎悪の対象が俺なら何かしてくるだろうと思ったんです。でも、まさかあんなナイフを持っているとは思いませんでしたが」
西野が持っていたのは刃渡り10センチほどの鋭いナイフだ。あんなもので刺されたら命がなかったかもしれない。
「では、あなたは以前から西野をご存じで、その危険性も認識していたと?」
「ええ。俺だけじゃないです。多分、あの場にいた俺たちの知り合いは皆知ってたんじゃないかな」
「どうして警察に相談しなかったんですか?」
耕作はしばし沈黙する。
「相談したらなにかしてくれましたか? 警察は事件が起きないと動かないですよね。情報だけあげておけば、何かあった時迅速に動けるっていうのはすでに何かあってるわけで守ってくれないじゃないですか」
「ですか、今回のような命に係わるような事件が起こったわけで」
「もちろん、こちらも手をこまねいていたわけじゃない。柔さん本人は何も知らないけど、その代わり滋悟郎さんたち家族や友人たちはその危険度を把握していましたし、会社にも伝えていました。俺はアメリカにいて何も出来なかったですけど、信頼のおける同僚に様子を見るように頼んでもいました。そして一時的にですが、柔さんを仕事でNYに転勤させて西野とは距離を取りました」
「そこまでするほど、何か危険を感じたんですか?」」
「最初は無言電話と直接投函された気味の悪い手紙。柔さんの居場所を把握しているような行動などがありました。それから柔さんの友人の職場にも現れています。南田さんは警官ですから何かおかしな雰囲気を察知していましたし、マリリンもそういう男を見る目はあって警戒するように滋悟郎さんに言っていたようです。ただ、去年柔さんに熱愛報道があったのをご存知ですか?」
あまりにも普通にそういう耕作に陣内は「え、ええ」と変な返事をしてしまう。
「変な誤解をしないでくださいね。あれは熱愛とかではなく、ただの会食ですから。でも、普通に記事を読んでいる人からすればあの時一緒にいた男性と柔さんが熱愛関係にあると思っても仕方がないですよね」
「そうですね」
「西野もそう思ったんです。熱愛報道の相手はホテル経営者のレオナルドです。彼は報道を知る前にNYに戻ってますが、その直後から日本のテンプルトン・ホテルでは無言電話や嫌がらせが暫く続いたようです。それは警察として把握していますか?」
「いえ……警視庁管轄ですのでこちらには情報は……」
「でしょうね。ホテル側は警察にも届けているし、嫌がらせは暫くしたら治まったので騒ぎ立てるつもりはないと言ってました。それからもう一人、柔さんとの仲を疑われた男がいました。彼の会社にも同様の嫌がらせがあったと聞きました」
野波がそれとなく風祭と接触し、聞き出したのだがあまりにもテンプルトンホテルと似ているので西野の犯行だと推測した。
「さすが記者と言うべきか、でもそこまで把握し危険性を感じていながら警察に相談しないことには心底疑問を感じます。友人にも警官がいたといいますが、その人も何も言わなかったのでしょうか?」
「南田さんはもちろん敏感になっていました。でも、俺や滋悟郎さんが柔さんには西野のことは伏せておこうと決めたので本人が気づかなければ相談も被害届も出ませんので」
「なぜ本人に黙っていたのでしょうか? 一流の柔道家ですから警戒心があればとっさに対処もできたでしょう」
「今回、背後から襲われて彼女は逃げられたかもしれない。でも一緒にいた少女はどうなりますか? 柔さんは優しい人だから子供を見捨てて自分だけ助かろうなんて思わない。だから西野はあの女の子に近づいたんですよ」
「どういうことですか?」
「女の子は直前に行ってました。『おつかいできたよ』って。つまり何かを頼んだ。それは柔さんに近づき気を引くことだったんじゃないでしょうか」
陣内は苦い顔をする。そこまでの執念を持って襲うなんて一体どれほど猪熊柔という人物に執着していたのか。
「柔さんに西野のことを言わなかったのは、彼女は案外精神的に脆い部分があるからです。意外に思われるでしょうが、自分の会社の客が自宅に無言電話をかけてきたり、盗撮なんかしているのと知ったら不安になるでしょう」
「盗撮?」
「あ……」
耕作はしまったという顔をした。
「俺も職業柄、人の事は言えませんが西野は柔さんをつけては盗撮をしていたようなんです」
「なぜ知ったのですか?」
「それらしい写真を見たからです」
「どこで?」
「それは言えません。情報提供者のことはいえませんから」
陣内は狼狽える耕作を注視し、ふっと息を吐く。
「まあ、そこら辺は西野の部屋を家宅捜索すればわかることでしょう。ですが、今回は奇跡的にかすり傷ですんだんです。普通ならあなたが刺されても不思議じゃない。二度と、こんな無茶はしないように」
「はいはい」
柔に危険が及べばどんな無茶もやる。命の危険があってもそれは問題じゃない。事情聴取が終わりロビーへ行くと、柔は滋悟郎たちと一緒にお通夜みたいな顔で座っていた。
「お待たせ。さあ、帰ろうか」